卒業

クリオネ武史

卒業

 三年という月日は、意外にも流れるのがゆるやかで遅いものなのだと感じた。木々からはらはらと降りてくる花弁も、スローモーションのように、コマ送りのように、ゆっくりに見えた。春の柔らかな光が、至るところにぶつかっている。

 なるほど、これがハレーションというものだな。辺りを見渡してみる。消し残しのある汚い黒板、錆び付いた掃除ロッカー、建付けの悪いドア、無機質な蛍光灯、鉄製の冷たい窓枠。どれも既に懐かしく感じてしまう。忘れられない景色。私の教室。


 今日、この中学校を卒業した。


 卒業式なんていう形だけの催しは、とっくに終わっている。傷のついた窓を覗けば、柑子色の空が広がっているだけだ。居残っている生徒は私以外には存在しないようだった。教室に張り詰める静けさ。鳥の鳴き声や風の音が聞こえるばかりだ。

 こんな特別な日は、友達と出かけて記念のプリクラを撮ったり、家族と美味しいご飯を食べて門出を祝うものなのだろう。それが普通だと理解している。だが、私はまだ学校を感じていたかった。帰るのは、何となく惜しかったのだ。巡回に来た先生が早く帰るように促してきたりもしたが、私は知らんぷりをした。

 自分の座席に座ってみる。ガタガタな机。斑な木目を見つめていると、何処かへ吸い込まれてしまいそうな感覚になる。誰かがカッターで彫ったハートマークを指でなぞるのが授業中の癖だったなぁ、なんて思い返す。ついこの間までここに座っていたのに、まるで遠い過去のように思えるのは、無人の教室にいるせいだろうか。

 見慣れた景色のはずなのに、まるで異世界の住人になったようだ。壁に貼られた学級目標「完全無欠の一致団結☆チーム三の二」の文字を見れば、ここが私の過ごした教室であることは間違いないと分かるのに。


 そういえば三年間、美優とは一度も隣の席にならなかったっけ。あんなに仲良かったのに。席替えはくじ引きだったから、仕方ないか。

 美優とは中一の頃に知り合った。光が当たると錆色にも見える黒髪。そこに輝くハイライトは、まるで天使の輪っかみたいに艶やかだった。薄桃色の肌は透けているようだった。大きな瞳はいつも濡れているみたいだった。名は体を表すとはよく言ったものだ。美優は、誰よりも美しかった。当たり前だが、彼女は目立つ。いつの間にやら、美優はクラスの中心人物になっていた。


 美優とは好きなアイドルグループが同じだった。だから仲良くなった。人気者の美優といちばん仲が良いのは、何故か冴えない私。周りからはよく羨ましがられたものだ。美優と一緒にいると自分まで可愛くなれた気がした。中学生なのに、背伸びしてお化粧もした。まだ早いって、お母さんには怒られた。


 私たちは年相応に恋愛の話もした。屋上へと続く階段の踊り場は人通りが少なかった。暗いから誰も来ないし、誰にも見つからない。私たちの秘密基地。そこに二人でしゃがみこんで、小声で密やかに語らった。掃除が行き届いていない場所だったから、壁には黄色く汚れたセロテープが貼り付けられたままで、埃や塵はこれでもかと言うくらい宙を漂っていた。

 でも、そんなことに気づかないくらい、私たちは真剣に好きな男の子の話をした。美優に本気で好かれている和也くんに、ほんの少しだけ嫉妬したりもしたっけ。楽しかった。毎日が夢中だった。


 いちばん良くしてもらったのは、担任の中村先生だった。生徒たちからの信頼が厚く、まだ若いのに実力と人気があるタイプ。私も先生のことはとても信頼していた。授業で分からないことがあればすぐに聞きに行ったし、その度に優しく教えてくれた。進路相談はもちろんのこと、友達と喧嘩した時も親身になって話を聞いてくれた。絵に描いたような理想的な教師であろう。

 ふと、中村先生はどんな景色を見ていたのか気になった。無人のつまらない教室で、教卓に立ってみる。先生になった気分だ。


 今は誰もいないため、クラス全員分の、二十八個の椅子と机だけが見える。大人しく座っている私たちを、少し上の目線から先生は見下ろしていたのだ。二十八人が一斉にこちらを向いたら、私なら緊張して話せなくなってしまうだろうな。授業なんてできないかも。私に教師は務まらないと思う。合計五十六個の眼が、たった一人の人間に向けられるなんて、正気の沙汰ではない。それを乗り越えられる凜然とした人間のみが、教師になるためのパスポートを得られるのだ。

 逆に言えば、勉強ができて、外面が良くて、堂々と人前に立てる度胸さえあれば、それ以外は欠陥的でも教師になれるのかもしれない。


 そこまで考えて、私はもうそろそろ帰ろうと思った。苦しくなってきたからだ。目を瞑ると、じんわりとその苦しみが広がっていく。どかんと一発だけ大きな痛みを喰らって気を失えたら、どんなに楽だろうか。


 私は学級目標のポスターを勢いよく剥がし、細かく破ってしまった。何が一致団結だ。こんなにもくだらない、価値のない言葉があるか。憎しみの破片は床に散らばった。

 美優の座席として使われていた机を、思いきり蹴り飛ばす。寂々とした教室に轟音が響いた。机は横に倒れてしまった。

 そういえば、美優に蹴られて床に倒れ込んだことがあった。その時は受け身をとれなくて、膝に紫陽花のような痣を拵えてしまったな。机は無機物だから、勢いよく倒されても怪我をしない。心底羨ましいと思った。教室という狭い空間で横たわるそれは、私のようであって、私とは全く違うものである。


 他にも、床に倒れ込んだ記憶がある。そうだ。中村先生に押し倒された時である。あの踊り場で。おろしたての半袖の白シャツはしわくちゃになって、スカートのプリーツはぐちゃぐちゃに乱れて、身も心も埃まみれになってしまったあの日。行為は覚えていない。人間という生き物はよくできていて、都合が悪い出来事はメモリーに保存されないのだ。いっそ土に成ってしまおうと屋上の扉まで手を伸ばしたが、鍵が閉まっていて入れなかったという記憶だけがある。

 先生を甘ったるく飾っていた糖衣は、その時に剥がれてしまった。私の中ではもう、苦いだけの劇薬である。中村先生にされたことは、誰にも言えなかった。裸の写真を撮られたから、という単純な理由だけではない。言っても、誰にも信じてもらえないと思ったからである。あの中村先生がそんなことするわけないでしょう──そんな声が右耳から左耳まで、木霊のように響いて突き抜ける日々が続いた。それは呪いのように今もなお私を苦しめて、解き放してはくれない。


 和也くんに告白されなければ、美優とはずっと仲良しでいられたのかな。人気者の美優と仲良しだった私は、皆に羨ましがられていた。嫉妬の対象だった。嫌われ者だった。故に、クラス全体が私を敵と見なすのにそう時間はかからなかった。「冴えない私」は「いじめられっ子」になってしまった。

 いじめの相談をしたのが中村先生じゃなければ、私は純潔なままだったかもしれない。弱みに漬け込んで、私を辱めた。教師という職業に必要なのは人望であると、先生はその時に教えてくれた。人望さえあれば悪いことをしても僕の仕業だと思われないからね、と。


「今ここで校舎を爆発したら一体どうなるんだろう」


 そんな有り得ない〝もしも〟の話をすることしか、私にはできなかった。彼らがいない校舎を粉にしたところで何か意味があるとは思えないが、私の心を墨色に汚してしまったこの空間を、なかったことにしたい。消し去りたい。不条理を避けるのは難しくても、絶望と手をとって和解することで、私は健やかに生きていくことができるかもしれない。

 病院みたいに白く長い廊下を歩く。卒業式で歌わされた「旅立ちの日に」を鼻歌で奏でてみる。誰もいない廊下では、私の粗末な音だけが余韻深く響いた。壁に飾られた中途半端な画力のポスターも、達筆すぎる習字も、子供向けの易しい新聞も、いじめを注意喚起する人権標語も、今の私には無関係のように思えた。


 私は、高校生になる。

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