ジェネリック・シンドローム
succeed1224
序
その日、日本の医療は崩壊した。
一番最初にその事に気がついたのは、一人の名もなき薬剤師だった。
目の前にある医院からの処方ラッシュも一区切りし、ドラッグストアのバックヤードを兼ねた休憩室で、他の店員達と入れ違うように彼一人、遅まきながら昼食のカップ麺のために湯を沸かし、流しっぱなしになっていたテレビを眺めていた。
繋ぎのニュースが終わって時刻は14時、ワイドショーが冒頭、お笑い芸人の不倫話で盛り上がりつつある中、画面上部にテロップが入る。
「13時50分頃、全国6箇所の街頭大型ディスプレイに謎の動画が放映されました。」
くだらないゴシップが不完全燃焼のままCMに遮られたところで、湯が沸いたのでカップ麺に湯を注ぐ。CMはキッチリ3分だったが、この日彼が選んだカップ麺の完成目安時間は5分。これが明暗を分けた。
彼が食事を始めるより先に、番組ADが雑に原稿を渡す姿も、ペラ紙1枚の原稿用紙も隠すことなく、番組の司会者が早口に原稿を読む。
「えー、番組はまだ始まったばかりですが、ここで速報です、先程、渋谷交差点を始めとする、全国6箇所の大型ディスプレイに、企業テロの予告とみられる映像が映し出されました。これ映像出ますか?」
司会者が視聴者に向けたカメラではなく、番組スタッフに目を向けてそう言うと、画面が切り替わった。
「全国1億2千万人の日本国民の皆様、こんにちは。突然のことで大変申し訳ありませんが、本日は皆様にほんの少しだけ、お時間を頂きたく存じます。」
画面には「大型ディスプレイに映る白衣を着た男性」が映し出されていた。後に世界中で話題となる動画投稿サイトのURLより先に、居合わせた番組視聴者が大型ディスプレイを撮影して提供したものを使ったらしい。
「さて、皆様は国民医療費が現在、いくら使われているかご存知ですか?」
白衣の男は、ソファに浅く腰掛け、膝までの高さのテーブルに置かれたカメラに向かって、話しているようだった。よく言えば穏やかに、悪く言えば感情の起伏のあまり見えない話し方だ、そして表情は読めない。
「現在日本の国民医療費は、10年連続で年間40兆円を超えています。」
その顔には紙袋が被せられ、目の部分だけ穴が空いていた。白衣と相まって、見るものが見れば、ある格闘ゲームのキャラクターを連想したかもしれない。
「そのうち約10兆円が薬剤費、つまり薬にかかる費用です。これを皆様が多いと感じるか、少ないと感じるかについては、残念ながら議論をするつもりはありません。しかし、この薬剤費には、確実に節約する方法が存在します。」
薬剤師である彼でなくとも、彼が何を言わんとしているかについて合点のいった者も多くいたであろうが、カップ麺の存在を忘れてTVに見入っている彼には、次に白衣の男が何を言うかはわかった。
「そう、厚生労働省も推奨しています。ジェネリック医薬品の利用です。」
「ジェネリック医薬品」とは、最初にその医薬品を発明し、製造販売した企業の「成分特許」の特許期間が切れたことを根拠に、開発メーカーでない他の企業が、同じ成分を同じ量用いて製造、販売する医薬品のことである。
下手をすれば1兆円かかるような「医薬品開発」の開発コストを度外視するため、その価格は先に販売されたもの、呼称をそのまま「先発医薬品」というが、それに比べて最低でも三割の減額、ものによっては半額以下で販売されている。
「現在、日本のジェネリック医薬品の利用率は、約70%です。これは世界的に見ても、他の先進国と比べてすらも低い水準です。何故だかわかりますか?」
ここで、白衣の男の声に初めて怒気が混じる。隠しきれない侮蔑の感情に、彼の背筋にヒヤリとした汗が流れる。
「海外には、日本ほど手厚い健康保険制度が存在しないからです。国や保険会社の補助なく、自分のお金で医薬品を購入する人が多いため、より安価なものが求められるです。」
白衣の男の口調は、すぐに元の穏やかなものに戻ったが、肩を震わせたり、手を何度も組んでは解くような仕草があり、だんだんと落ち着きを失っているようだった。
「すべての国民が最低でも7割引で医療を受けられ、薬を入手できるような環境で、7割もの人がジェネリック医薬品を利用している日本の人々を、僕はとても誇りに思います。しかしだからこそ、僕は残りの3割の人間を許すことができない。
厚生労働省はこの20年、ジェネリック医薬品の周知や理解を求める活動を行ってきました。しかしこの10年、その利用率は70%から上昇していない。
これは、ジェネリック医薬品がどういったもので、何故利用するべきなのかという事をどう教えても理解できず、かつ理解出来ないが故に利用しようとしない人間と、理解した上でジェネリック医薬品の利用を悪意を持って拒否する人間が残りの30%に該当する事を示しています。
理解を求めるだけで利用率を上げるような段階は、10年前に過ぎているのです。
そこで僕は考えました。これを論理で理解できない者には、物理的な実行をもって、体感で理解してもらうしかないと。」
さてここからが本題だ、と言わんばかりに、白衣の男は1度大きく息を吐いた。
「真田薬品工業製の医薬品、サナプロンカプセル一万五千錠に、毒物を意図的に混入ました。また、今後その他複数の、いわゆる「先発医薬品」に、同様の毒物を混入します。」
そう言うと、白衣の男はカメラの死角にあった、マウスの入ったケージをカメラの前に引き寄せ、マウスをテーブルに置き、そばに薬包紙を敷いた。
胸のポケットから10錠の薬が連なったヒート包装のサナプロンカプセルを取り出し、未開封の状態であることを、至極丁寧にカメラに一度映した。
そしてそのヒートから1つ取り出すと、カプセルを開けて中の粉を薬包紙の上に出し、粉を包んで器用に漏斗を作ると、マウスを捕まえてその先端をマウスの口に差し込んで、それを食べさせた。
「さて今、このマウスに投与したのは、間違いなく、製品化されたままの状態のサナプロンカプセルの中身です。」
そう言ってテーブルにマウスを置くが、置かれたマウスはすぐさま仰向けになり、荒息と痙攣をした後、息をしなくなった。
「ネズミは即死しましたが、人間はどうでしょうか?回避する方法は一つです、先発医薬品でなく、ジェネリック医薬品を使うことです。」
ここで白衣の男は一度、カメラに手を伸ばすような仕草をしたが、すぐに手を止めて座り直した。
「そうそう、僕の名前はゲキヤク。この国を憂う、ちょっとカゲキなヤクザイシです。」
その言葉を最後に、映像がブラック・アウトした。
TV画面はスタジオの映像に戻り、絶句する司会者と、コメンテーターの姿が映る。
それを見た彼は、すぐにすっくと立ち上がり、もうすっかり伸びてしまったカップ麺を置いて、調剤室へと駆け出した。
短い休憩時間で、それもすごい剣幕で戻った同僚を見た他の薬剤師が怪訝な顔をする中、彼は懇意の医薬品仲卸業者に電話をかけた。
「メーカーはどこのでもいいし、複数の会社の製品のものでもいいから、サナプロンのジェネリックを千錠分発注したい。」
もちろん担当者も怪訝な返事をする。この薬局では確かに、1ヶ月で千錠ほど、サナプロン及びそのジェネリックの消費がある、しかし、今日も既に2百錠程入庫したばかりだ。
「申し訳ないけど、すぐに他からも問い合わせがあると思うから、その前に早く確保してください。」
結果として彼のこの行動は、約1ヶ月分の、それもサナプロンカプセルの分だけの安寧をこの薬局にもたらすのだが、それが焼け石に水の如くであることを、この時の彼は、まだ知らない。
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