「ありがとう。出会えて良かった」
マツダ
本編
「翔、起きてください。まったくもう」
目を開けると、
――そういう儚げな笑い方をするから周囲から病弱だと勘違いされんだ。
翔はそう思いつつ目線を逸らし、体勢を整える。記憶通りの、綺麗に整理整頓された部屋。家具も小物も少なく、目立つものは十年近く前に翔がプレゼントしたやけに大きなイルカのぬいぐるみくらいだ。どうやら、彼女の部屋のローテーブルに突っ伏して寝ていたらしい。しかし勉強のために来ているわけではないようだ。机には何も置かれていない。
「ねえ翔。これ、見てください」
そう言って彼女はそこそこ分厚いアルバムを机に載せる。
「なんだこれ」
「見ての通りアルバムですよ。今日は私と翔の思い出でもふり返ろうと思いまして」
「はぁ。そりゃまた唐突だな」
小馬鹿にしたような翔の口ぶりにも慣れっこなので無視。しかし彼女――
「……まぁ、良いか」
「どうしたんです? 変な方を向いて」
「なんでもねー。ってなんだこのアルバム、見開き一ページに一枚しか写真がねぇとか随分贅沢な使い方だな」
「思い出をじっくりふり返るにはこれが一番だと思うのですよ」
何故か、ふふんとドヤ顔の七香。相変わらず透き通った声でマイペースな事を言う。
肝心の写真はと言えば、翔がこれまで誇張なしで最低百回は見せられたであろう、二人の赤ちゃんの時の写真だった。
誕生日が一日違いで家も隣。一都三県の三県に分類される方ではまだ近所付き合いも根強い。子どもが産まれるからと言う理由でどちらもマイホームを構え、更にはお互い珍しい苗字同士と言うこともあり、両家が仲良くなるまでに時間は掛からなかった。
「じっくりもクソも、この写真で今更ふり返ることなんかねーだろ。『二人ともオギャーオギャーって元気でしゅね~』ってうちのバカ親父が言ってたぁ、とかその他諸々耳タコだぞ」
「それが良いんじゃないですか」
左頬に人差し指がぴしと突き立てられる。む、と翔は離れようとするが、その指は存外強い力で押し込まれてきた。
「にゃ、にゃにしやがる」
「まったくもう。翔は分かっていませんね、『ふり返った思い出が多い』こと自体が良い思い出だと言うのに」
「禅問答か」
「我欲的な翔に禅問答など早すぎます。まずは滝にでも打たれて瞑想の修行でもしてきてください」
「阿呆、俺は我欲的じゃなくて合理的なだけだ」
「行動の結果だけを外野から見れば区別なんてつきませんよ」
「良いんだよ、それも織り込み済みで」
「よーくーあーりーまーせーんー」
まったくもうこれだから性格が悪いと勘違いされるんです云々、と一人でぷんすか怒っている彼女を見てふと翔は思った。
この口癖……久しぶりに聞いた気がするな。昔は、あのイルカのぬいぐるみをあげた頃の七香は、まったくもうまったくもうとよくスネていた…………気がする。そもそもアレをあげたのだってこいつの不機嫌を直すためだったはず。
既に大家族かのような付き合いだ。改まって付き合うとかそういう発展はないだろう。顔も良く性格も良く頭も良い、基本ステータス三高とでも言うべきこいつだ、そのうち完璧超人みたいなエグい彼氏でも連れてくるに決まってる。ちゃんとした女だからこそ、クズやカスを引っ掛ける可能性も低い。俺もこいつを好きだのなんだのとは……
「いや、あの辺りの時は違ってたか」
「どうしました?」
そうだ、別に不機嫌を直すためとかでプレゼントしたわけじゃない。確かあの時の俺は普通にこいつの事が好きだった。こいつのひいじいちゃんが死んだ時に喧嘩して、その時めちゃくちゃ怒らせちまったと勘違いしてて、仲直りがしたかったんだ。しかも、何か恥ずかしい事も言った気がする……。
「翔、恋する乙女みたいな目をしてます」
「なぁにぃ」
「今更顔を隠しても無駄ですよ。何を考えてたんですか?」
「あー、いや、その、なんだ、俺、昔ぬいぐるみあげたろ」
「イルカさんですね。私ずっと大事にしてますよ」
「知ってる」
「それにしてもよくわかりましたね、次のページの写真」
「んぁ?」
アルバムをめくると、一枚の写真。五歳くらいの七香が部屋で、等身大のイルカのぬいぐるみを満面の笑顔で抱きしめている写真だ。七香の部屋の様子はこの時と今とで全くと言っていい程変わっていない。
まるで、この瞬間で時が止まってしまったかのようだ。
「私はもうイルカさんがいないと寝られない体にされてしまいました……およよ」
「およよじゃねぇ。人聞きの悪い言い方をするな」
「縦も横も抱きまくらサイズなんですから、仕方ありません。はっ。まさか、狙ってあのサイズを」
「ンなわけねーだろ」
「知ってます」
おちょくるような微笑み。こういったやり取りも久しぶりな気がした。正確な時期は覚えていないが、七香はいつからか口調が敬語になっていた。かと言って態度が堅くなったり疎遠になったりすることはなく、そのままだ。そのチグハグな感じに、かつて翔は戸惑ったことを覚えている。
「なぁ、そういえばなんでお前敬語なんだっけ」
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてねえ」
「じゃあ、内緒です。ご想像にお任せします」
「なんだそれ」
こいつらしいと言えばこいつらしい返答か。何となくだが、内緒にされるような気はした。
「ところでこれ何歳だっけか、四歳? 五歳?」
「うーん。その辺……じゃないですかね」
「ほぉ。お前が年齢覚えてねーのも珍しいな」
「そうですか? それより次の写真はこれです」
「うげ、林間学校」
小学五年生の時だ。当然林間学校のログハウスは男女別なのだが、七香が夜中にこっそり抜け出してきた上、先生に預けるはずのスマートフォンを隠し持っていた。それで、無理やり、本当に無理やり撮られた。
曰く、『思い出作りの前につまらないルールは無に帰すのです』とのことだ。彼女がそんなリスクを背負ってまで何をしたかったのかと言うと、ただ写真を一緒に撮りたかっただけである。
嫌そうな、照れくさそうな顔の翔とは対照的に、七香は満足げな表情をしている。……二人で撮った自撮りは、これっきりだ。
「あれから翔は写真撮らせてくれませんよね」
「俺は戦前生まれだから写真に映ると魂が抜かれる」
「そうですか。でも私の事は撮ってくれますよね」
「……お前が撮れって言うからだろ」
「ふむ。つまりこれは実質、貸しじゃないですか? 今後は私が撮られた分、翔も撮ります」
「なーにがつまりじゃ。悪徳金融かテメーは。そもそも家族写真はあの後だって何枚も一緒に撮ってるだろうが」
七香は答えず、にやにやしたままページをめくろうとする。その時少しだけ翔の気分が曇った。
もし時系列通りなら、次は小六か中学の写真か……。
今の翔の捻くれた性格は、小学校後半から形成されている。二分の一成人式などと言うもので無理やり未来のことを考えさせられた時など、これは教師から生徒に対するパワハラだなどと呻きつつ、最終的に将来の夢を『トレーダー』と答えた。その理由に夢もクソもなく単に、自分以外の人間に働かせて自分はそのおこぼれにタイミングよく与ればラクラク生きられそうだ、とか言う理由だった。
中学に上がってから、彼は彼自身のことを明確に嫌うようになっていた。理由は挙げればいくつかあるのだが、その一つは、七香だった。
彼女が二分の一成人式で語った将来の夢は『大病院の看護師』だ。
人の生にも死にも寄り添って、どのような形で病院を去るにしろ、その"思い出"が良かったものになるように努めたいです。と締めた彼女のスピーチに号泣した柊家と周防家の父母に釣られ、教室中が感涙に包まれた。
そんな中、翔は一人、俯いていた。
薄々感づいていたとは言えあまりの人間性の違いに、恥ずかしくなったのだ。
「――翔? ほら、次は入学式ですよ」
「おう――な、おまえ、この写真」
「この時はまだ私の方が身長が高いんですね。というかお母さん若くないですか? 二年前のはずなんですけど。いや老けたんでしょうか……」
「オイ! そんなことどうでもいい、これはどういうことだよ!?」
「どういうって、入学式の写真じゃないですか」
「バカが、そんなもん見りゃわかる、俺が言いたいのはそういう事じゃ」
「何を怒っているんです?」
紛れもなくそれは入学式の写真で、彼らと母親の計四人が写っている、何の変哲もない写真だった。
――――翔の顔がマジックペンでぐしゃぐしゃに消されていることを除いて。
「この時お父さんが泣き出して、ほら。翔が半目の写真になっちゃったんですよね。ふふっ」
「なっ、は?」
「この年のゴールデンウィーク覚えてますか? みんなで軽井沢に行きましたよね」
そう言って、ページをめくる。
嫌な予感がする。胃がひっくり返るようなムカつきを覚える。
「……待て」
「見てください、火起こし頑張ってる翔ですよ。ちょっとお父さんたちの顔がうるさすぎますが……」
「だから待てよ!!」
原住民族のようにはしゃぐ父親二人の真ん中で火起こしをしている翔。
だが、その顔はマジックでぐしゃぐしゃに消されている。入学式の写真と同じだ。溢れんばかりの憎悪を叩きつけたとでも言わんばかりの黒塗り。柔らかな七香の口調とは、とても対比して良い限度を超えている。
「これは流石に翔が嫌そうな表情をするのもわかります。でもですよ」
ページをめくる。
翔の背筋が凍った。
「バーベキューの集合写真くらいは、もうちょっと愛想のいい表情をして欲しいものです」
黒塗り。
翔の顔だけが。
「まったくもう。何ですかこの半笑いは。せっかく大事な節目の思い出なんですからもっとちゃんと――ど、どうしたんですか」
「どうしたじゃねぇよ、お前……」
「?」
「お前、この写真の、俺、」
「ですからもうちょっと愛想のいい表情を」
「そうじゃねぇっ!!」
アルバムを奪い、ページをめくる。
夏、秋、冬、そして翌春――
どの写真も見覚えのある写真ばかり。それもそうだ。今まで見た写真もそれ以降の写真も、どれも七香が持ち歩いている小さなフォトアルバムに入っていて、何度も見せられている。
その度に、思い出を語る七香が心底嬉しそうで、楽しそうな表情をしていたのも覚えている。
だが、あれ以降いくらめくっても全て、翔の顔は黒で消されていた。
……こいつには、どう見えてるんだ。
殴り書きのような顔の塗りつぶしを、こいつが見過ごすはずも見落とすはずもないんだ。
「なぁ、この入学式の写真だけどよ。俺はどういう表情に見える?」
「変な翔ですね。どういうって、ふふ、半目半口ですごくバカっぽいです。中途半端に空いた鼻も笑えますね、ふふふっ」
「……そうか」
黒塗りに見えてるのは、俺だけ……か?
いや、こいつが嘘をついてる可能性もある。でも、ああいう意地汚いことをする性格ではないと思うが……。
「ねえ」「翔」
「な、なんだ」
「私たち」「最近」「あんまり思い出」「ない気がします」
声が二重三重に重なって聞こえる。
七香の表情がよく見えない。目が霞んでいるわけではない、七香から顔のパーツが消えていくように見える。
「思い出って、お前なぁ、……そうだ、見舞いだって行ってるじゃねぇか」
見舞い。そうだ。見舞い。こいつは今難病だかなんだかで入院してるはずだ。先々週だって母さんに持たされた果物を持っていった。あの時は元気そうな声をしてたが、とてもすぐ退院できるような体調じゃないだろう。
じゃあ、今俺の目の前にいる女は……?
顔がこわばる。跳ねるように体を女から遠ざける。女の表情が、顔がよく見えない。
「てめぇ、誰だ」
「こわい顔しないでください」「私は」「私じゃないですか」「七香ですよ」
「なワケあるか、お前は今入院してる、こんなとこにいるワケがねぇ」
「いるじゃないですか」
「まだほざく気か、偽物」
「……酷いです」
ずずずっ、と重く沈むような音。直後、部屋が割れる。紙芝居でも破くかのように、亀裂が入る。が、崩れない。破れたままで停止している。翔には異様な重力がかかり、筋肉は攣ったように動かない。部屋そのものが、世界そのものが足元から崩壊していく。それはまるで落ちる砂時計のよう。かろうじて動かせた目で七香を見やる。
ああ、だめだ。顔はよく見えないし、足元から形が失われていってる。
しまった。偽物、は流石に酷かった。
壊れる。
離れる。
離れていく。
……待て。
待てよ。
待ってくれ。
嫌だ。
「待ちやがれ!! 七香!!」
絞り出せた怒鳴り声。瞬間、世界と七香がピタリと崩壊を止め、彼の命令に従う。
「どこにも行くな」
「な、なん、ですか、突然」
表情など確認できなかった。だが、長い付き合いだからこそ今確信する。彼女の声は泣いていた。
……謝ろう。
訳もわからず崩れていく世界で、彼は自分の身を案じることを放り出していた。
「悪、かったよ。別に泣かせるつもりじゃなかった」
「ふふ。私が泣いているように見えるんですね?」
「あ? なんだよ違ぇのかよ」
「不貞腐れないでください。涙は悲しい時以外でも流れるんですよ」
「こんな時にワケわからんことを言うな」
「翔はいざと言うとき『だけ』は私に優しいですよね」
「バカにしてんのか」
「褒めているんです」
「どこがだ」
七香の声に明るさが戻った。その顔を確認しようと目を凝らす。だが、強い逆光に晒されているかのように、彼女の表情が確認できない。
「だーめーです」
「何がだよ」
「お顔は見せられません」
「何ガキみてぇな言い方してんだ」
「でも、ありがとう」
「は?」
―、―――。
聞こえない! 今なんて言った!?
鐘の音。再び世界の崩壊が始まる。崩壊と言うよりむしろそれは、翔がその世界からつまみ出されていくようだった。
――――――
――――
――
「七香ァッ!!」
ガタッ、と足が跳ね、机の下に強打する。痛みで目が覚める。耳に入ってくるクラスの喧騒。否応なく、自分の今いる状況が認識させられた。
……夢。じゃあ、今は? ……昼休みだ。
前の席の腐れ縁、田井中良太が不思議そうな顔で振り返ってくる。
「おーう、どうした翔、ついにフラれる夢でも見たか」
「黙れチャラつき男」
「そういう口ぶりだから俺しか友達いないんだぞお前。予鈴、さっき鳴ったから準備しとけよな」
「予鈴? 今何時だ」
「もーすぐ一時半」
雑かよ。電車のダイヤみたくきちんと分単位で答えろ。あいつなら――
「……まぁンなことはどうでもいい」
「おおう、どうしたどうした元気なツラして早退か?」
「大事な用事を思い出した」
「えー何? お告げでも受けた?」
「なるほど。ならそういう事にしとけ。じゃあな」
面食らう良太を放置し、荷物をまとめ終えた翔は急いで教室を後にする。人間関係も希薄な彼を気にかける者は良太以外誰もいない。そのまま下駄箱まで走り、予鈴を聞いてグラウンドから帰ってくる生徒たちと逆行し、半ば葉桜になった木々の間を通り、彼は大急ぎで学校を後にした。目が、覚めた。
行き先は一つだ。
七香の入院先。
思えば、十日近く会っていない。彼女が突如入院した去年は、週二でお見舞いに行っていた。翔が知っている範囲では、特別体調が悪かったと言うわけではない。
彼女の、たっての希望だ。
口調こそ敬語なくせにわがままな要望をしてくる事が昔からままある七香だが、翔は悪態をつきながらも基本的にその要望に応えていた。
「……どこにも行くな」
七香の顔が脳裏にちらつく。
病院に向かう快速に乗りながら、その遅さに苛立っていた。
なんで俺は見舞いの頻度を減らしたんだ。
要因はいくつかあった。まずは進級。中学三年と言えば進学や就職の話になる。二人の通う公立中学からは概ね進学で、その先の希望などを踏まえた進学先の模索になる。
七香は大学を出た後看護学校に行くと常々言っていたので、わざわざ再確認するまでもない。
問題は、翔の方だった。
将来の夢がきちんとしている七香と比べると、翔には夢もなければ今の楽しみすら大したものがない。日々を食いつぶしているだけだ。
進級後すぐ学校から貰うプリントには、進学のことが書かれたものが多い。
それを七香のもとに持っていくとなると、自身の浅薄さを改めて見せつけられてしまう。もちろん七香にはそういった意地悪をしようと言う魂胆はない。思春期の心がその認識へと誘導するだけだ。
「あいつ、トレーダーはトレーダーで、看護師と同じくらい難しいとか言ってたな」
都心のビル群が迫ってくる。見晴らしの良い病室にいる七香と、そのビル群を見ながらそんなような話をしたことを思い出す。
なんでも、本当にトレーダーとしてやっていきたいなら経済知識や世界情勢、民族情勢なども含め複合的に判断を下さなければいけないから、ボタンポチッでアーリーリタイアなんて甘いものじゃないんです。
のようなことを言われた。
「よっぽどあいつの方が俺より詳しいんだが……」
……この話をしている時のあいつはまだ、顔がやつれていなかったな。
次の要因。これが恐らく彼にとって最大のものだ。
七香の衰弱。
世界中で数例しか発見されていないと言う原因不明の難病に罹患していることが発覚したのがちょうど一年前。例が少ないため医者からは「本人の生きたいという気持ちも大変重要です」と言われていた。
事実、年を越えるまで七香は元気そのものだった。人より早めに受験勉強もしていたし、外出こそできないものの院内で運動しており、食事制限も緩かった。
が、年明けからは違った。合併症がどうとかで、集中治療室にいることが多くなった七香には、面会が制限されるようになった。
翔が一月末に彼女と面会した時、その変わりようにたじろいだ。
七香は当然心配させまいと元気な素振りをしたし、翔も悟られまいと必死にいつも通りを演じた。
だが、それははたから見れば見るに堪えないものだったろう。
翔はその時初めて、彼女が死の淵にいたことに気付かされた。
見ないふりをしてきた現実が、その刃を突きつけてきたのだ。
その日から、彼は面会を避けるようになった。
純粋に怖かった。
あまりに唐突に訪れた衰弱は、無意識に信じていた永遠をいとも容易く壊した。
が、今日の昼休みにふと思い出した。七香の言葉を。そして、彼女の望みを。
「人の生にも死にも寄り添って、どのような形で病院を去るにしろ、その"思い出"が良かったものになるように努めたいです」
と話した七香。
そして、
「まったくもう。翔は分かっていませんね、『ふり返った思い出が多い』こと自体が良い思い出だと言うのに」
これはつい三ヶ月前に聞いた言葉だ。
そうだ、
ならせめて、それくらいはしてやっても良いじゃないか。幸い俺は幼馴染で、あいつとの思い出も多い。未来のことはわからなくても、過去のことは変わらない。
あいつの好きなことを、やりたいことを俺が叶えられるなら、多分それは俺のやりたいことだ。
どうして……今まで気づかなかったんだ?
心の底ではわかっていたはずだ。俺はあいつの要望に応えることが嫌いじゃなかった。いや、好きだった。思い返せば俺の思い出のほとんどに、七香がいる。
「周防、翔さん、ですか?」
駅から走って病院へ行き、突然だから通るかどうかはわからないが、面会の申請のために寄った受付。問い合わせに時間が掛かっているようで待っていたが、そこで彼に声を掛けたのはどこからか来た看護師だった。息が上がっている。手には封筒。
「はい。そうですが……」
それを聞き、わっと看護師の目から涙が溢れ出した。
「あの、七香ちゃん、七香さん、から……っ、これ、『きっと今日翔が来るから渡してください』、って」
「何ですか、これ?」
「多分、手紙、かなと……」
泣き止まない看護師から封筒を受け取り、当惑しながらも一言、聞いた。
「すいません、それで今日面会って出来るんですか?」
「あのっ、その、これ、まだ言っちゃ、いけないんですけど……」
「はい」
「七香ちゃんは、先程、亡くなられました……」
言葉を失った。視界が暗くなっていく。絵に描いたような呆然自失だ。横で受付のおじさんが「いやぁ『来てる』って聞き間違えてたから実は何度も放送で呼んでたんだけども……」と気まずそうに言っていたが、翔の耳には入らない。
――
「……七香」
我に返った時、彼は自宅近くの小さな公園のブランコにいた。何時間かかったかはわからないが、帰巣本能とでも言うべきだろうか。瞬きを忘れていたようで、目が異様に乾燥している。構わずに目をやると、握りしめすぎた封筒は皺々になっていた。何かに突き動かされるようにして、そこから中身を取り出す。三つ折りにされた紙。操り人形のような手付きで開く。
そこには、弱々しい筆圧で、しかし意思を感じる文字で、こう書かれていた。
私の大切な人 翔へ
いつペンが持てなくなるかわからないので、今これを書いています。
一昨日も来てくれてありがとうございます。翔の顔が見られて、声が聞けて、嬉しかったです。
さてこの手紙ではなんと、私の秘密を暴露しちゃいます。えっへん。
ずばり、私が敬語の理由、です。
翔は覚えていないかもしれませんが、私が今の喋り方になったのは二分の一成人式の翌日からなんですよ。気づいていましたか?
十歳と言えば、五歳の二倍ですね。それでは問題です。五歳の時には何があったでしょう?
「知らん」
ぼそり、と声が出た。手紙のくせに口語のような書き方のせいで、七香と話しているような錯覚に陥る。だが、不思議と翔の表情は柔らかくなっていた。
はい。正解はイルカさんを貰った、です。
翔は、ひいおじいちゃんが亡くなって落ち込んでいた私を元気づけようとしてくれたことがありましたよね。そのまま言い合いになってしまい、後日仲直りにとイルカさんをくれました。
その後、プロポーズしてくれましたよね。もう一生お前のことを泣かせないって。翔は忘れてるかもしれませんが、私ははっきり覚えていますよ。
「待て待て、覚えてないし、しかもそれはプロポーズ……なのか?」
恥ずかしい文言ではあるが、と回想する翔。徐々に彼の脳裏の思い出に、色彩が戻っていく。
私はあの時、翔に相応しい女性になりたいと決めました。
そして十歳の、二分の一成人式の日の発表、あれは私の集大成で、決意表明でした。
「私は貴方に相応しい女性になったつもりです」と。
ですが、あの日以降、逆に翔は自分を卑下するようになりましたよね。
きっと私は一人で先走りすぎたんです。
だから、待とうと思いました。
翔が自分のことを、私が好きな貴方自身のことを、好きになれるまで。
敬語で話す私を見て、疑問を持って欲しかった。そしてそれをきっかけに、自分のことを再考して欲しかった。
でも、絶対気づきませんよね。私も遠回りどころじゃないなって思います。子供の時に考えたこととは言え、流石に不器用すぎました。
以上が私の敬語の秘密です。
意外とつまらない理由だったかもしれません。
ですが、私としては口を開く度に自分の決意を思い出せて、お得な気分でした。ふふふ。
夢も恋もまだまだ半ばなので今これを翔に見せるつもりはありませんが、万が一を考えて書いておきました。
では最後に。
翔、大好き。
二〇××年 四月 十二日 七香より
「ほんっと、つまんねー理由……」
誰がわかるか、そんなもん。こじつけにすらなってねぇ。人の振り見て我が振り直せってか? なら、もうちょっと、
「はっきり言えよ、バカが」
待とうと思いましたも何も、どっちみちお前が一人で先走ってるだけじゃねぇか、人の気も知らねぇで。思い出をふり返るだけじゃなくて、今思ってることもきちんと、少しは話せよ。何も言わねぇまま死んじまうとか、そんなのただのバカだろうが……
「七香……」
初めて涙が出た。いい年をして、声を上げて泣いた。恥ずかしさよりも何よりも、ただただ溢れ出す感情が抑えきれず、それが涙に転化され続けた。
どのくらい泣いただろうか。涙と共に、自我の毒気までもが少し綺麗になった気がした。
「……あいつ、俺のことが好きだったのか」
それは少しだけ誇らしい事実だった。
……なら。俺が俺を嫌っている場合じゃないかもな。
お前が好きになってくれた俺を……俺は、もう少しちゃんと使ってみようと思う。
「え~っと? トレーダーも看護師も同じくらい難しいんだっけか? じゃあトレーダー志望が看護師目指しても変わらねぇよな!」
トレーダーになるための勉強なんざハナからしていない。そもそも志望転向するにも職種が違いすぎる。暴論未満だ。が、
「七香の夢を引き継ぐくらいは、やってやりてぇよ」
そう呟いて、翔は夕暮れの公園を後にする。
七香。
「――ありがとう。出会えて良かった」
「ありがとう。出会えて良かった」 マツダ @matudaaa
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