6.『もう一歩先へ』


「――雨」


 ぽつりと溢れたのはそんなひとりごとと空の涙だった。

 傘、持ってきてない。濡れて帰るには遠すぎるし、かといって長居できる時間もないから、困った果てに私は溜息を漏らす。


「……ずいぶん憎らしげに空を見つめるじゃないか。私より感情を揺さぶる存在だなんて、妬けるね、まったく」

 

 目線を外したことに不満を表明された私は、一割の反省と、九割の理不尽さを胸の奥にしまい込んで、視線を戻した。


「そんなこと言ったって、京華だって空を見上げてるじゃない」

「それもそうだね。我ら高校生にとって、下校時刻間際の降雨というのは死活問題だからね」

「もっと臨機応変に対応してくれればいいのに、下校時刻だから帰りなさいの一点張りだもの」


 ふたりで揃って肩を落とす。

 私たちに与えられた選択肢はふたつだ。

 びしょ濡れで帰って体をカチコチに冷やすか、昇降口の傘立てでボロボロになっている、誰のものかもわからない傘を拝借するか。


 健康面を考えたら当然後者なんだけど、正直なところ精神的な負担はそっちの方が重い。


「別に盗むってわけじゃない。ちょっと借りるだけならいいんじゃないかな? どうせ長年放置されてる傘なんだし」

「最近、当たり前のように私の思考を読むようになってきたわよね」

「それはきっと、姫芽が私に心を許しまくっているせいだろうね! まるでふたり分の心を抱えてる気分さ!」


 蛍光灯が寂しくふたりだけを照らす放課後の教室に、鈴の音のような声を凛と響かせる京華。

 他の誰にも見せないこの笑顔は、私だけの秘密の笑顔だ。


「……京華だって、人のこと言えないくらい気を許しまくってるけどね」

「私が許してるのは気じゃないよ。心さ」

「同じじゃないの?」

「同じじゃないね!」


 キラリと歯を輝かせて、ドヤ顔にも似た表情を披露した京華は、翻して自分の席に座った。

 考えてみたら、変わったものだ。私も、京華も。

 最初の頃なんて、私が一言ったら十返ってきたというのに、最近ではこうしてオウム返しされることもままある。


 これは私だけが気づいた京華の秘密なんだけど、京華は緊張していると多弁になる。

 いや常に多弁だけど、特に、だ。


「出会ったばかりだった頃の京華って、めちゃくちゃガチゴチだったのね」

「ガチゴチ……? そんなに身体が凝り固るようなことはしてなかったと思うけど」

「なんでもない、気にしないで」


 ずっと一緒にいると気づかないものだけど、ふと俯瞰してみると、やはりどこにだって変化というものは付き物だ。

 京華だって変わった。私だって、変わった。

 京華は無言の時間が増えたし、私は感情を掻き乱されることが減った。


 だけどそれはきっと悪い変化ではなくて、もっとずっと居心地がよくなるような、そんな軌跡だ。


「京華ってさ、友達いないでしょ」

「急に失礼すぎやしないかな!? 姫芽は突拍子って言葉を知らないのかな!」

「知ってるわ。気にしてないだけ。で、いないわよね?」

「気にしてないのはなおマズいし、姫芽からの圧に恐れ慄いてるんだけど、質問への返答をするなら『その通り』と言わざるを得ないね!」


 あ、多弁になった。

 笑いながらも、口元が少し歪んでる。

 これは、焦り。それと、いたたまれない気持ちもあるみたい。


 こんな細やかな変化に気づけるようになったのも、日々の積み重ねだ。これも、変化と呼んでいいだろう。

 

「そう。だと思った」

「異議を申し立ててもいいのかな、これは!」

「ダメ」

「最近、姫芽が反抗期だよ……」


 顔を突っ伏して、繊細な髪を机中にぶちまけた京華を、私はじっと見つめる。

 吸い込まれそうになるほど綺麗な黒髪だ。

 

 やがて沈黙に耐えかねた京華が、こっそり顔を上げて視線を送ってくる。

 私は無言で、その上品な鼻をつまんでやった。


「あぁ! 鼻の形が歪んだらどうするのさ!」

「赤ちゃんじゃないんだから、もう歪んだりしないわよ。つまみ放題」

「たとえ骨の形成がとっくに終わってたとしても、私の鼻をつまみ放題スポットにした覚えはないよ!」


 ぎゅっと目を瞑って、両の手のひらを握りしめ、じたばたと不服を表明する京華。

 その一挙手一投足がいじらしくて、こう思うこともまた、変化だ。


「私たちは日々、変わり続けて生きているのね」

「なんか深いことを言ってるみたいだけど、私の不服が解消されたわけではないからね?」

「でも怒らないわよね? 京華は私に怒らない」

「そりゃあ……」


 京華は何かを口にしようとして、そこで言葉を止めた。

 我ながら都合のいい、そして性格の悪いことを言った自覚はある。

 だけど、わかってる。

 京華がきっと、私のそういう部分を見ていることを。


「怒るほどのことでもないから……かな?」

「違うでしょ」

「――――」


 おそらく最初に口にしようとしたこととは別の、無難な答えを出した京華の鼻を、私は再びつまんだ。


「私たちの関係って、冷静に考えたらちょっとおかしいわ。出会ってから2年間、こうして毎日欠かさずにふたりで放課後を過ごしてるのに、それ以外では全く話さないんだから」

「――――」

「最初の頃はね、なんでかなって考えてたの。放課後だけでもすっごく楽しい。だけど、それ以外の……たとえば休み時間とかにも話せたら、もっともっと楽しいのに、って」

「それは……」

「放課後だけでも、毎日話せるだけで満足するようにしてた。でもね、気づいたの」


 気まずそうに、後ろめたそうに、あるいはバツが悪そうに、京華は視線を泳がせた。

 しなやかな指先で頬をかくその姿は、言葉に迷ってる時の癖だ。

 ずっと見ていたいけど、ずっと困らせたくはないから、私は私の答えを突きつけた。


「――話せないんでしょ、京華」

「――――」

「あのね、気づいたの。授業中とか、たまに私に向けられる、すっごい温かい視線に。誰かと思って見渡してみたら、京華だった。でも、今みたいな優しい視線じゃなくて……」

「……うん」

「なにかなと思って考えたら、私が普段京華に向けてる視線と似てるなって思ったの」


 今だってそうだし、放課後じゃなくてもそうだし、いつも京華に向ける視線。

 それは――、


「――尊敬の眼差し、だったんだね」

「……否定する材料は、持ち合わせていないね」

「京華、私にビビって話しかけられなかったんでしょ」

「言い方に悪意があるんじゃないかな、それは!」


 おちょくってみれば、予想通りの反応を返してくれる。

 それが京華で、いい子で、楽しくて、京華のぜんぶを知ったつもりになっていた。

 でも、それは傲慢だった。それに気づいたのは、案外最近のことだ。


「……そりゃ、放課後しか話せないわよ。お互いがお互いに、畏怖してるんだもの。『いつもの日常』って免罪符のある放課後しか、話せないわよ」

「……リスペクトは、大事だよ」

「それはそうかもしれないけど……私は京華ともっとお話したいわ」

「――――」

「放課後だけじゃなくて、朝も、昼も、土曜日も! ……京華と、お出かけだってしたい」


 私は、変わりたい。

 自分だって変えたいし、私たちの関係だって、変化があってこその人生だ。

 まだまだ十七の小娘、人生を語るには早すぎるかもしれないけど――、


「――人生を共にするなら、京華がいいもの」

「――。姫芽」


 人生とはきっと、ダーツのようなものだ。

 与えられた点数の中で、本当に欲しいものを狙い撃ちしていく。

 常に正確なスコアなんて叩き出せないから、たまに貧乏くじを引き当ててしまうこともある。

 だけど私は、京華に伝えたい。


「どこでもいいわ」

「――え?」

「京華の投げたダーツは、どこに投げても私に刺さるようになってるもの」


 大きく手を広げ、京華の前に立つ。

 私には、シングルもダブルもブルもない。

 京華か、京華か、京華か、京華だ。


「――私たちの関係って、冷静に考えたらちょっとおかしいわ」

「――うん」

「でも、それでいいの。おかしくていいから、おかしいまま、もっと進みたいのよ」

「――っ、うん」

「ちゃんとこっちみて」


 いつしか顔を逸らしていた京華の、赤く染め上がった両頬を持ち上げて、無理やり目を合わせる。


「投げて。京華のダーツを」

「え、えっと……」

「なんでもいい。どこでもいい。私に刺して」


 結局こうやって京華に委ねる私は、きっとずるい。

 でも考えてみたら、最初にずるかったのは京華だ。

 というか、私も頑張ってるし、色々!


 だから――、


「あ、あの、姫芽」

「うん、なに? 京華」


 だから、だから――、



「今日、実は、わた……私、傘を持ってきてるんだけど、その……入っていかない?」

「――――」

「いや、昇降口までじゃなくて、えっと、家まで……とか、どうかな?」

「……京華」

「な、なにかな!」

「……ふふ。入ってあげる!」

「――――」


 ――だから私は、変化していきたい。

 京華と、一緒に。

 

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