2.『最後まで忘れられないもの』
「人の記憶は、『声』から忘れていくって聞いたことあるけどさ」
藪から棒に、京華がそんなことを呟いた。
「あれって、嘘じゃないかと思うんだよ」
「嘘? なんで?」
「だってさ、積極的に忘れたい相手に限って、『声』だけは最後までこびり付いて消えてくれないんだ。顔とか会話はもうほとんど忘れてるのに、声だけがずっと」
「そうなんだ。私には忘れたい人なんていなかったから、その感覚はわからないわ」
「ああっ! そんな、私をゲス野郎みたいに……!」
「言ってないけどね、別に」
あたふたと手を動かす京華を横目に、私は息を吐いた。
忘れたい相手もいなければ、忘れてほしくない相手もいないのだから、別に嬉しい話でも褒められた話でもない。
「それでさ、逆に一番最初に忘れたのは何だったのかなって思って、考えて、とある仮説を立てたんだよ」
「へぇ。それで、なんだったの?」
「――匂い、だよ。私が真っ先に思い出せなくなったのは、匂いだった。だからきっと本当は、人が最初に忘れるのは『声』じゃなく『匂い』なんだろうと思って、一応調べてみたんだけど……」
得意げに立てた指をたたみ、口をへの字に曲げながら、心底納得のいってなさそうな表情で彼女は続けた。
「……『匂い』は、最後まで消えない記憶らしい」
「偶然にも一般的な感覚の真逆を行ってたんだ。さすが京華、捻くれてる」
「私だって捻くれたくて捻くれてるわけじゃないよ、まったく……」
珍しく不機嫌な京華の声は、どこかから聞こえる管楽器のハーモニーで中和される。
毒気が抜かれたのか、京華は薄く溜息を吐き出した。
「でも、一般的には私と逆なんだろうね。私が捻くれてるのは事実だからさ」
「そんなの、人によるんじゃない? 極端な話、キリンの鳴き声みたいな声の人がいたら忘れられないと思うし」
「私からしたら、キリンの鳴き声がピンとこないけどもね!」
たしかに。例え方を間違えたかもしれない。
キリンじゃなくて、そう、例えば――、
「黒板を爪でひっかいた音……みたいな声の人なら、忘れないでしょ?」
「絶対忘れないね! そんな面白人間がいる事実を忘れたくないからね!」
「私ってもしかして、例え話下手?」
「自信もっていいよ、姫芽! 下手だけど面白いから! 下手だけど!」
曇りの無さすぎる瞳の京華に、下手を強調される。
京華のフォローに入るはずがなぜか自分がダメージを負ってしまった私は、肩を落とした。
「まぁまぁ。それよりもさ、姫芽は比較的、普通の感性を持ってるでしょ?」
「その自信が今まさに失われかけたところよ」
「姫芽にはさ、私、忘れられたくないんだ。だからさ――」
言葉を紡ぐと同時に、心地よい温度と柔らかい感触が私を包む。
ほのかに甘く、清爽なその香気は、いつもの京華の匂いだ。
「どうかな? これで姫芽は、しばらく私のことを忘れないんじゃあ……」
「――馬鹿ね」
「――――」
椅子に座る私を、後ろから包む京華。
その腕を撫でながら、私は当たり前のことを告げる。
「そんなことをしなくても、私が京華を忘れることはないわよ」
「――それって」
「だって、京華はどっちかっていうと黒板寄りの生き物だし」
「意味がわからないし、私は歴とした人類だよ!」
私からの人物評を耳に入れた京華は、大慌てで机を叩いた。
もちろん京華のことを言葉通りの筆記板だと捉えているわけではなく、
「要するに、嫌でも記憶にこびり付いてくる親友ってこと」
「持ち上げるか貶すか、どっちかにしてくれると嬉しいなぁ!」
「別に貶してないってば。さ、帰るわよ」
「私、明日までに姫芽に相応しい例えを持ってくるよ……」
なんでもない談笑を終え、私たちは鞄を持った。
それに、明日までにとは言ったものの、どうせ明日には今日の話は綺麗さっぱり忘れて、別の話題が舞い込んでくる。いつもそうなのだから。
ちなみにだけど――無理に記憶に刻もうとしなくても、この放課後の会合はきっと数年経っても鮮明に思い出せるほど濃いものだと、そう思っていることは、京華には伝えてあげない。
それを知らずに不服そうな京華と並んで、今日も放課後は暮れていった。
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