スパイスカレー行方不明事件
威勢ヱビ(いせえび)
スパイスカレー行方不明事件
改めて考えてみると、食事を外で摂ることがあまりない。
というのも、同居人であり助手でもある彼、ゼノさんは人並み、いや、それ以上に家事が上手い。おかげで日々の生活面において一切の不自由は感じていないため、食事ももっぱら彼が作ってくれたものを好んで食べている。
加えて、事務所兼自宅という、いわば自身のテリトリーであれば周囲の喧騒や他人という存在を気に留める必要が無いのだから、その分気も休まる。
だというのに、なぜわざわざ自分からこんな客の多い店を訪れて食事をとらなければならないのか。それはもちろん、来なくてはならない理由が出来てしまったからだが、その理由一つで割り切れない程度には、知らない人間が多くいる空間が得意ではない。
「さて、なに食うかな…」
ガラス張りの扉を開けたことでドアベルがちりんちりんと音を立て、こちらに気づいた近づいてきたエプロン姿の中年女性に開いているテーブル席に案内される。向かいに座ったゼノさんがさっそく中綴じのメニューを眺めるのを横目に、すでに頼むものが決まっていたオレは彼を待ちながら軽くぐるりと店内を見渡す。
温かみのあるオレンジがかった照明が照らす少し手狭なこの洋食屋は、もとより評判だという情報から一番込み入るであろう時間帯を避けて訪れたにもかかわらず満席で、奥のカウンターのなかでは夫婦だろうか、先ほどの中年女性と、同年齢ほどに見えるエプロン姿の男性が忙しなく動き回っている。
カウンター席含め、すべての席を埋め尽くす客たちは性別も年齢もてんでまばらだが、その多くはやはりここの看板メニューであるハンバーグ定食を頼んでいるようだ。
後ろの席にも注文した客がいたようで、おいしそう!と嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえる。
「んじゃあ、俺はハンバーグ定食で。お前さんはカレーだったな」
「ああ」
顔を正面に戻し、お冷に口をつけながら短く返事をすると、そのまま彼が注文を終えてくれた。
「で、今の段階でなにかわかったのか?」
彼の長い腕が伸びて、メニューがメニュー立てに差し戻されるのを眺めながら首を振って返す。
「さすがになにも。特におかしな点も気になるところも見当たらないな。今すぐ帰りたいぐらいだ」
「おい。仮にも依頼で来てんだろうが。兵藤のおっさんには世話になってんだから、ちゃんと仕事しろよ、探偵さんよォ」
「オレは探偵じゃない」
「へいへい。で今回はなんだったか。とにかく、問題はそのカレーなんだろ?」
そう。今日この洋食店を訪れた理由は、さきほど注文したカレーについてである。
無論、口コミの調査とか、産地偽装疑惑とか、そんなことではなくて。
とある理由から懇意にしている刑事の男からこの依頼を請け負ったのは、つい一昨日の話だ。なんでもここ一カ月、この店の特製カレーを食べた客全員が、最短で数時間から二日以内に行方が分からなくなっているという。失踪者の年齢、性別、職業はてんで疎ら。共通点は何一つなく、警察の初動捜査ではこの店のオーナーである男が容疑者として浮上したが、動機、証拠ともに不十分で候補から外れ、同様に妻の女性にも目が向けられるも結局その線は薄いとされた。次に失踪した人々の人間関係を洗ったが、小さないざこざこそあれどれも事件に発展するほどの話は浮かんでこなかった。
仮に誰かしらが恨みから犯行に及んでも、ほかの事件までは説明がつかない。偶然の一致、同時発生といったシンクロニシティなる概念があるそうだが、警察がそんな確固たる証拠のない理由で納得して捜査をやめるわけにはいかないのだ。
行き詰った彼らは、この件を知り合いの探偵に託すことにした。これまで諸事情で様々な事件に首を突っ込んではすったもんだの大立ち回りの末に解決させてきたこちらの腕を見込んでのこと、という建前で実際のところは丸投げに等しい。
好きで事件に関与しているのではないのだが、それでも刑事の彼の顔を立てるだけの義理立てをする理由が少なからずある。
そんなこんなで、珍妙な失踪事件を調査することになった二人はとにもかくにもまずは件のカレーの正体を探るべく、この店に訪れたのである。
頭のなかで状況の再確認をしつつ、ゼノさんと話していると、やがて注文した二人分の料理が一気に運ばれてきて、食欲をそそるおいしそうな匂いが鼻腔をかすめる。
「あんがとさん」
彼がいかつい風貌に似合わず人懐こい笑みを浮かべる。
こちらも軽く会釈して礼を伝え、目の前に置かれたカレーを観察する。典型的な楕円形の深皿に白米とカレーが盛られ、比率はおおよそ四対六ほど。ほかほかの白米の脇には福神漬けが寄り添っていた。
どちらかといえばよく煮込んだソースのような色味をしたカレーの具材はみたところじゃがいも、玉ねぎ、にんじんと、ぶつ切りの肉に、なんといんげんらしき食材がまじっている。夏野菜カレーなら不思議には思わないが、彩り目的だろうか。ともかく、カレーには一見しておかしな点は見当たらない。
店に来たばかりのときはそんなに腹がすいているわけではなかったのだが、香辛料の利いたスパイシーな香りに思わず胃が動く感覚がした。
「あとでハンバーグ一口やるから、そっちのカレーと交換な」
「ん」
割り箸を割るゼノさんの前でジュウ、と熱い鉄板にハンバーグの肉汁が跳ねる良い音がする
別に、全部食べられる気はしていないし、どうせ彼は体が大きいぶん一人分の食事では満腹にはならないだろうし、一口といわず半分やる気でいたのだが。
「いただきます」
二人そろって手を合わせ、早速それぞれ料理に手をつける。湯気をたてるカレーを白米と一緒にすくいあげ、口に運んだ。
「お! うまいなこのハンバーグ! …瓏衣? どした、顔が険しいぞ」
嬉しそうに明るい声を上げた彼をよそに、口に運んだカレーをゆっくり数回噛み砕く。口が燃えるような、じわじわと蝕まれるような痛みにやはりダメだと悟るや否や、仕事帰りの会社員がビールを煽るように、お冷を勢いよく煽った。冷たい水が口内を冷やし、舌を冷やし、喉を冷やしていく。
ごくごくとコップ一杯の水を全てのみ下し、ぷは、と息を吐き出す。
「…おい、大丈夫か…?」
ぜえぜえと肩で息をしていると、気遣わしげに声がかかる。
やっとの思いで口を開く。
「…からい…」
「そういや、お前さん辛いものダメだったか」
誤解の無いように言えば、味自体はすごくおいしい。ただ、香りですでにスパイスは感じていたが、普通のカレーの数十倍はスパイスが利いている。それはもう、舌がぴりぴりと痛むほどに。とっさに水で冷やしたが、まだ傷口が熱を持っているように、舌先にじわじわと熱を感じる。
見かねたゼノさんがお冷のお代わりを頼んでくれたので、ちびちび飲みながら舌を冷やす。
「そんな辛かったか」
「少なくともオレには。やる」
「んじゃあ遠慮なく」
カレーをスプーンごとハンバーグ定食のわきに移動させると、早速味見といわんばかりに彼が手をつける。
すると、途端に彼の目が輝いた。
「な…、いや、これっ…、めちゃくちゃ美味くねえか…!?」
褐色肌の大きな手が何度もカレーを掬っては引き寄せられるように口へ運ぶ。その手はまるで止まる様子が無く、まるで限界まで腹をすかせた子供のように、あるいはなにかに憑りつかれたように一心不乱にカレーを頬張る。
あんなに辛い、というか、もはや痛い食べ物をそんなにも夢中に…、と若干白い眼を向ける瓏衣は新しく割り箸を出して、彼の食べかけのハンバーグを一口分割って口へ放り込んだ。
味はもはやわからなくなっていた。
*
他人から譲り受けたものではあるが、それでも人が多い店よりもやはり自宅であるこの事務所が一番落ち着く。話し合いに用いるため室内の真ん中よりに置いたソファーにもたれ掛かり、膨らませた風船から空気が抜けるように、ふぅ、と肩の力を抜く。
カレーを片付けた助手が次にハンバーグを平らげるのを待つ間、口直しにアイスを食べながら事件とカレーの因果関係について考えていたが、どうにも集中できなかった。
改めて考えてみる。
一口だけだが、食べたカレーはいささかスパイシーすぎることを除けば、いたって普通のカレーだった。変な味も匂いもしていなかったし、ゼノさんにいたってはお代わりを頼もうとしていたほどだった。
……逆にたった一度食べただけでそれほど人を文字通り病みつきにさせるなら、それはそれでなにかおかしなものが入っているのではと勘ぐりたくはなるが。
刑事の話では店の二人に前科などはなく、聞き込みでも特に気になるような話は出なかったそうだ。
ではなぜ、あのカレーを食べた客だけが次々と失踪しているのか。カレーを食べたことで、このあとになにか起こるのだろうか。
「……ん?」
不意に、嗅覚がなにかの匂いを察知する。なんというか、少し刺激的で香辛料を思い起こさせる。そう、ちょうど今しがた食べたカレーのような……。
匂いは扉を挟んで隣のキッチン兼給湯室から漂っている。よく見ると、扉が少し開いていた。
給湯室で物音などがする場合、大抵その正体は、
「ゼノさん、今日のおやつなに?」
「さっきアイス食ったろうが。今日はナシだ」
「うわ、けち。頭回んない」
やはり、オーソドックスな型の黒いエプロン姿の助手だ。
彼を助手として雇った際に一口から二口に買い替えたコンロで、なにか作っているらしい。おやつはまあ、いざとなれば隠しているへそくりお菓子を食べるとしよう。
隣から鍋を覗き込むと、なかでなにやらぐつぐつと煮立っている。匂いと色から察するに間違いなくカレーだろう。
この簡素なキッチン兼給湯室はおよそ五畳ほどと手狭なので、匂いの強いものを作ると、すぐに充満する。
店で味わった舌の痛みが蘇るようで、自然と眉根を寄せる。
「そんなに気に入ったの? あの店のカレー」
「そうだな。再現したくなる程度にはすっかり虜だよ」
彼は上機嫌な様子で、カレーをかき混ぜた。
そばに置いた小皿にカレーを少量すくい、味見をするがイマイチ浮かない顔だ。
「んー、なにかが違う気ィすんな」
「この試作を今日の夕飯にしたらクビにするからな」
「心配しなさんな。確かに俺の晩メシはコレだが、お前さんの今日の晩メシは麻婆豆腐だ」
「中華まで足伸ばすの早くないか?」
確かに中華にも様々なスパイスがあるが、もう手を出すとは。家事全般がこなせるのは長所だが、スパイス極める気か?
「店主のおっさんに作り方聞いとくんだったな」
言いながら、またスパイスや調味料を足して味を整え始めた。
こうなったら本当に刑事にあの店のカレーの成分を調べさせるべきか。
「いっそ、今度旅行がてらインドにでも行ってみるか。お前さんも来るか?」
「一日三食カレーになりそうだからい───、や……だ……」
かち、とそれまで噛み合わなかった歯車が不意に噛み合うような音が頭の中で響いた気がした。
「ゼノさん、今なんて言った……?」
「あん? だから、スパイスといやぁ、やっぱインドだろ」
過ぎ行く車窓の景色のように見聞きした全てがフラッシュバックして、バラバラに散らばっていた本が、規則正しく棚に戻っていく。
「ゼノさん、チョコ取って」
「お、なんかようわからんが閃いたか。そらよ」
顎に手を添えて目線を下げた瓏衣がなにかに気づいたことを察したのだろう。コンロの火を弱め、大きな体を折りたたんでしゃがみこんだ助手が棚下の納戸から板チョコを取り出して手渡す。
それを食べながら考えを巡らせるのが、彼の推理の仕方だ。
銀紙を剥がし、板チョコを齧りながら、空いている左手で電話をかける。
「……もしもし、兵藤さん?」
五コールほどでようやく聞こえた、電話越しの知り合いの声は掠れている。仮眠中だったか。
「そうそう、カレー行方不明事件の話。調べてみてほしいことがあるんだけど」
*
「───で結局、この店のカレーを食べたやつ全員が美味さのあまりインドに飛んで、スパイスの勉強に励んでたってのが、行方不明事件の真相だったわけだ」
後日。この前の洋食屋にて、同じ端の席に二人は腰掛けていた。
「辛い食べ物が好きなやつには爆ウケだったみたいだな」
刑事から調査の結果が届き、それはおおよそ瓏衣の推理通りの内容だった。
まず航空会社へチケット売買の履歴を調べるよう頼むと、やはり行方不明者全員の名前が履歴に残っていた。そしてその全員の行き先こそが、スパイスとカレーの本場、インドだった。
チケット売買履歴から彼らの足取りをつかみ、連絡を取ってみると、各々がスパイスへの愛を胸にインドの各地で栽培や料理を始めとするスパイス研究に励んでいた。
誰もがそれぞれに夢や目標、情熱を胸に、充実した日々を送っているとのことなので、なによりである。
「ともかく、平和な話で終わってなによりだな」
ずず、とゼノさんが味噌汁を啜る。
彼の目の前にはできたての豚カツ定食が置かれていた。
「そうだな。また、コレの謎にはたどり着けなかったけど……」
右手が自然と首もとを這う。その指先が硬い感触に触れた。それは一見すると黒と錆浅葱のシンプルなメタルチョーカーだ。
しかしそれは、瓏衣が自ら身に付けたものではなく、また瓏衣の意思で外すことはできない。ではどうすれば外せるのか。それを、探っている真っ最中だ。
今回の依頼もなにかヒントが得られればと思い引き受けたが、結局関係性は無かった。
呆けてぼやけた視界に、横から注文したエビフライ定食が映り込む。お待たせしました、という言葉と運んできた中年の女性に軽く会釈し、早速手を合わせた。
「でも、べつに……」
もし、もしも最悪、このチョーカーが取れなくても……。
「見つけてやる。絶対に」
もそもそとエビフライを食べているうちに下を向いていた顔を上げると、ゼノさんがどこか拗ねたようにむす、とした顔をして、大口で豚カツをかじっていた。
「あと半年、それまでに絶対、俺がお前を助けてやる。だから、んなつまんねぇ顔すんなっつったろ」
ギロ、と鋭い目つきで睨まれる。
瓏衣はただ笑って、味噌汁に口をつけた。
嘘か誠か、このチョーカーには人間の頭を簡単に吹き飛ばせるほどの爆弾が仕掛けられている。
その爆弾が起動するのは、二十になる誕生日。
二十になる誕生日までは、あと───半年。
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