近すぎて見えぬは睫

穂津実花夜(hana4)

第1話 「空が落ちてくる瞬間」

 秋空が何処までも続いているように感じさせてくれるのは誰の為なんだろう?


 隣にいるキミとの距離は、肘と肘の間、約三センチ。


 捲りあげた袖から香る柔軟剤の香りと、校庭の砂っぽい空気をここで一緒に吸い込み始めたのは、いつからだったっけかな……




「このさ、銀色の柵って何のためにあんの?」

「さぁ?落ちない様にじゃね?」

「誰か落ちたんかな?」

「二階だし、最悪落ちても大丈夫そうだけどな?お前以外は……」

「わかる。あんたはもし落ちても、こう……シュタッて降り立てそうだけどさ?私は絶対アウトだわ」

「んじゃ、お前の為の柵だな」

「んだんだ。あーそっかぁ、私の為の柵だって知ってたら、中学の時落書きなんてしなかったのに」

「落書き?」

「そう。3のCの柵のここ、この裏側らへんに名前彫ったった」

「っちょ、言ってる側から危ねーな!そんな乗り出したら落ちるって」

「んあー、ありがと。おかげで助かったよ」

「こっちがビビったわ。それにあそこ四階だったろ?そこまでして自分の名前なんて彫ってくんなよ」

「自分のなわけないじゃん?好きな人のだよ!」

「いっちゃん?」

「うわっ?何で覚えてんの?」

「お前散々騒いでたし、高校入ってからもしばらくは『会いたい~』って言ってたし。つか、まだ好きなの?」

「そういや、いつの間にか好きな気持ちどっか行っちゃったな」

「薄情なヤツ……」

「あんたこそ、高校入ってすぐに理沙と自然消滅してたじゃんか?」

「あれは……まあ、大人になれば色々あるもんで」

「なに?私へのあてつけ?」

「そんなとこ。お前、彼氏どころか告った事すら無いだろ?」

「自慢じゃないが告られた事も無い」

「あーあ。俺の気遣い無駄にしやがって」

「ふふっ。優しさの無駄遣い?」

「慈善事業だよ」


 少しだけの沈黙が燻る。喋らなくてもずっとこうしていられるのに。

 親からも友達からも得られなくなってしまった程よい安心感が、頬を撫でて空に溶けた。


「あっ、そういえばっ!私この前あんたと付き合ってる夢見たよ」

「えー?出演料払えよ?」

「三百円で良い?」

「そんなくれんの?っつか、どんな夢?」

「なんかね、私は眠ってるんだけど、あんたがそこに馬乗りになってきて……」

「それって……」

「いや、エロい感じじゃない。二人で目が合ったら『何この状況~?』ってめっちゃ可笑しくて、大笑いしてたら起きちゃった」

「そんだけ?」

「うん」

「付き合ってる要素ないじゃん?」

「付き合ってるって設定だったの!なんかあるじゃん?夢ってそういう感じ?」

「俺、夢ってほとんど覚えてないからあんま良く分かんねーけど……でも夢ってさ、願望とかが現れるっていうじゃん?」

「そうなの?」

「女子なのに夢占いとか興味ないの?」

「私だよ?」

「そうだった。でもさ……ぶっちゃけホントは、お前、俺と付き合いたいの?」

「えっ?まさか。そんなこと考えた事も無かったけど……深層心理ではそうなのかな?」

「えっ?まじで返さないで……ありえ、なくない?」

「だね?あんたの顔全くタイプじゃない」

「ふっ、俺、イケメンなのにね?」

「ホントそれ。イケメンなのにね?ときめかない」

「残念なヤツめ……」


 居心地が良いのと、恋愛感情の好きって何が違うんだろう?


 好きを通り越したこれが恋愛の愛の部分だったとしても、誰にも教わったことが無い私にはわかるわけないし。


 思わず伸ばした手の先の空はすごい遠くて、私じゃ全然届かなかった。



「何やってんの?」

「いや、空って何で青いんかな?って思って」

「それはさ、人の目の構造上、光の反射を……」

「ストップ。だから、そういうとこ」

「なにが?」

「ときめかない。全然ときめかない」

「関係なくない?空が何で青く見えるか知りたがったのはお前だろ?」

「あーあ。ロマンチストな彼氏が欲しい」

「意味分かんねーよ」

「私がたまにアンニュイな気分になった時にはさ、彼氏にはそれを察して私のテンションに合わせて欲しいわけ。事実を伝えるとか、そんなつまんない男じゃ嫌なの」

「はいはい、つまんない男で悪かったな……でも、そんな奴いたらきっと、誕プレで自作の歌とか歌ってくるぜ?お前どうせ、それにはドン引きするんだろ?」

「まーね、そうだよね。私ってそういう感じだよね……あー、今世で誰かと付き合うのは無理かぁ」

「諦めの規模が大きくない?」

「なんか好きとか、もう大まかに恋とかの感覚?が間違えてないのかさえわかんなくなってきたよ。ねぇ……ちょっと、私に教えてみ?」

「は?つまんない男の意見なんて役に立たないだろ?」

「いじけんなって。こっちは猫の手も借りたくてウズウズなう。経験者の意見、はよ」

「っふ、しょうがねーな。俺の恋は──」


 あー、空って瞳の中にも映るのか。


 睫毛のでは無いこの影は、きっと鱗雲が反転して映り込んでいる。ゆっくりと移ろう空のカタチって、どんなに側に居ても私の目に映るのとは、全く同じものでは無いのかもしれない。

 別々の空を見上げ続ける者どうしが一緒に恋を始める瞬間を、死ぬまでには一度見てみたいのに。


「んー、そうだな。恋ってさ、落ちるって表現が良く使われるじゃん?俺はやっぱそんな感じなんだよね」

「例えば?」

「相手の存在?みたいのがストンって自分の中に落ちてきて、もうずっとそこに居座るの。そうすっと全身がそれを察知して、すぐに目が相手の事を探し出すし、耳なんて本人の声だけじゃなくて、誰かの会話の端に聞こえる名前まで拾い出すから……そこらへんで気が付く感じ?」

「好きだなって?」

「そう。どう?まさに恋に落ちたって事だろ?」

「どっちかっていうと、恋が落ちて来たみたいだけどね?」

「そうかも?うまいじゃん」

「いっちゃんの事『好きだな』って思った時は、そんなんじゃなかった気がするんだよなあ……」

「俺だって毎回同じ始まり方じゃないけどな?」

「ふーん。そんなもん?」

「そんなもんで良いんじゃね?お前は難しく考えすぎ」


 私の所にもポロっと恋が落ちてこないかな?


 もしも落ちて来ることの無いこの空みたいに、私の恋がずっと届かない場所にあるまんまだったら、私はそのうちに一人ぼっちになっちゃうのかもしれない。


 もう一度手を伸ばして掴もうとした秋空は、私の指の間をすり抜けてしまった。


「今度は何?」

「今、空を掴んどかなきゃいけない気がして」

「アンニュイの再来か?」

「そんなとこ。ってかさ、サッカー部。始まってない?実は、吹部今日はオフなんだよね」

「嘘だろ……?やばい」

「こっから見といてあげるよ?怒られるとこ」

「言ったな?じゃあ、俺が部活終わるまで責任もって見守っとけよ?」

「えー?」


 どうせもう怒られるのは不可避なんだから、さっさと行けばいいのに。


 教室のドアの側まで走って行ったと思ったら、振り返ったその顔は何故か余裕に満ちていた。



「あとさ、お前もう空を掴めてるよ?」

「なんで?」

「こっから見えるあの空の端っこは、誰かの頭の上なんだから。遠くから見たらココだって空の中なんだよ。それに、空気って『ソラ』に『キ』って漢字だし。お前も俺も、最初から空を吸って生きてんの。掴むどころの話じゃおさまんなくね?むしろ空に満たされてるじゃん?」

「なんだそれ」

「気付いた時には、恋も空ももう落ちて来てるって事だよ。それだけ。あー、とにかくっ!俺の部活終わるまではここで待機だからね?」

「はいはい。さっさと怒られに行ってきな?」


 何だか教室の空気が少し軽くなっちゃった気がして、物足りなくて窓辺に戻る。


 あれはロマンチストと呼んでいいのだろうか?


 ただ、不覚にも欲しい言葉を貰えてしまった気がする。こういうの、何て言うんだっけかな?


 私を上手く丸め込んだ様な顔をしてここから出て行った姿が、砂っぽい校庭を駆けて行くのが見えた。

 価値観が同じってやつか?悔しいけど、もうすでにココロヨマレてる様な気がする。あのたった一言がそれを私に示したせいで、私の手元に遠くの空が近付いて来ていた。


 一人で眺める空の中で、視界の隅にチラチラと映り込むその姿が、何故かたまにこちらをどや顔で見つめてくる。その表情に自然と口元が弛む。「ボール見ろよ」って怒られてる名前を、私の耳が少しだけ拾い始めていた。


「こんなもんか」


 独り言が私の周りの空気を揺らすと、勝手に茜色に染まっていく空が、私に向かって落ちて来た。

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