自慢の母達

 彼女と付き合い始めて初の週末。今日からゴールデンウィークに入る。学校が休みだから少しでも長く彼女と一緒にいたくて、朝から彼女の家に向かった。たまたま庭で花に水をやっていた彼女に「おはよう」と微笑まれる。彼女は付き合うことになったその日まで声が出なかった。彼女の声でおはようと言われたのは久しぶりな気がする。


「希空?」


「……あ……ごめん。なんか、おはようって言われたの久しぶりだなって思って」


「ふふ。そうだね。おはよう。希空」


「おはよう。声、だいぶ良くなったね」


「おかげさまで」と彼女は笑う。声が出るようになった直後はまだ掠れていた。あれから数日経った今では、つい最近まで声が出なかったとは思えないくらい元通りだ。だけど、学校にはまだ来れない。行こうとすると足が動かなくなると語っていた。学年が上がってからも同じクラスだが、まだ一度も学校に来ていない。「仮病だ」「大袈裟だ」「構ってほしいだけだ」一部の人たちはそう好き勝手に囁いている。今目の前にいる彼女のこの元気そうな姿を見れば余計にそう思ってしまうだろう。

 彼女が学校に来れなくなったのは今日の今頃だ。ボクらはもう三年生になった。受験を意識し始めた学年の空気は以前より少しピリついている。この先受験に近づくにつれてきっと、みんな彼女に気を使う余裕などなくなっていくだろう。もう一度一緒に授業を受けたい。そう思っているのはボクだけではない。だけど、この間桜庭くんが言った通り諦めた方が良いのかもしれない。


「……希空、何かあった?」


 彼女に顔を覗き込まれてハッとする。


「とりあえず、お家入ろうか。ね」


「……うん。お邪魔します」


 彼女の後について家の中に入る。リビングのソファで肩を寄せ合って並んで談笑していた彼女の母親二人に挨拶をする。振り返り、おはようと微笑む二人。二人は彼女と血が繋がっていないが、雰囲気はよく似ていると最近思う。家族として一緒に暮らしていると似てくるものなのだろうか。

 そのまま彼女に連れられ、彼女の部屋に入る。棚の上に置いてある狐と猫のぬいぐるみは彼女の母二人が互いをイメージして作り、互いに送り合ったものらしい。その二体の間には愛華をイメージして作られた子犬のぬいぐるみが置いてあったのだが、無くなっている。どこに行ったのだろうと思い探すと、勉強机の上の棚に居た。その隣にはこの間の誕生日にボクが彼女にあげたチワワのぬいぐるみが。そして机には、広げっぱなしのノートと教科書。学校に行けなくなった後も学校の時間に合わせて、最低でも一日六時間は勉強しているらしい。


「それで希空、何かあった?」


「……マナはさ」


「うん」


「……学校行くの、諦めるの?」


「……ううん。諦めることはしないよ。でも、行かなきゃって思うのはやめにした。……ごめんね」


 空気が重くなってしまった。俯く彼女に伸ばした手を咄嗟に引っ込める。


「いや……こっちこそごめん」


 沈黙が流れる。やはり学校の話はすべきではなかったと思っていると「座って」と彼女が言う。言われた通り、その場に座る。すると彼女も座って、ボクの胸に頭を寄せた。


「……ぎゅってして。希空」


「……大丈夫?」


「うん。今日は大丈夫な気がする。して」


「……うん」


 恐る恐る、彼女の頭を胸に抱く。ふー……と彼女が震える息を吐く。


「大丈夫?」


「うん。……この間よりは平気」


「……そっか。無理しちゃ駄目だよ」


「……うん」


 彼女の呼吸が少し落ち着いてきたところで、彼女の頭に手を乗せる。彼女は一瞬びくりと飛び跳ねた。手を離すと、彼女は恐る恐る頭を擦り付けてきた。割れ物を扱うようにそっと撫でる。


「大丈夫? 怖くない?」


「うん。大丈夫。ちょっとびっくりしちゃっただけだよ。あのね、今日ね、夢を見たの」


「どんな夢?」


「いつもの悪夢。けど……途中で君が助けてくれたんだ。いつもは大体お母さんだったんだけど今日は君だったの。大丈夫だよって、抱きしめてくれた。夢だけど、凄く安心したの。だから、今日はきっと現実で君に抱きしめられても大丈夫な気がしたんだ」


「……そっか」


「……うん」


「……ボクの心臓、うるさくない?」


「……ふふ。ちょっとうるさい」


「ごめん」


「ううん。平気だよ。……私もドキドキしてる。だから、お互い様」


「そっか」


「うん。……好きだよ。希空」


「ボクも。好きだよ。大好き」


「……うん」


 そのまましばらく彼女の頭を撫でていると、背中に回されていた彼女の腕からふっと力が抜けた。声をかけると「んー」と寝ぼけたような返事が返ってきた。どうやら今日は相当リラックスしているらしい。この間過呼吸になりかけていたのが嘘みたいだ。この様子なら今日は大丈夫そうだ。


「眠たい? ベッド行く?」


 問いかけるが、返事はない。代わりに寝息が聞こえてきた。起こさないように気をつけながら、そっと抱き上げてベッドに下ろして布団をかける。

 彼女の顔にかかった髪を手で避ける。指先が柔らかい頬に擦れる。


「……」


 視線が柔らかそうな唇に吸い込まれる。思わず息を呑む。


「……マナ」


 ベッドに身を乗り出す。自分の影が彼女の顔を覆ったところで、部屋の扉をノックする音が聞こえて正気に戻る。自分がしようとしたことに嫌悪感を抱きながら、彼女の上から退いて扉を開ける。扉をノックしたのは海菜さんだった。


「あれ。希空ちゃん。愛華は?」


「寝ちゃいました」


「そっか。お昼何がいいか聞こうと思ったけど……まぁ、寝かせとくか。ふふ」


 微笑ましそうに彼女は笑う。理由を聞くとこう答えた。


「いや……恋人になった君の前で眠れるくらいには落ち着いてきたんだなって思ってね」


「愛華から聞いたんですか? 付き合い始めたこと」


「いや。聞いてないけど、見てれば分かるよ。君、昔から愛華にベタ惚れだったし」


「む、昔からって! いつからですか!」


「愛華が友達紹介するって言って連れてきた時から」


「初対面の時じゃないですかそれ……」


「あははっ。これからも愛華のことよろしくね」


「……」


「ん?」


「いや……ボクは……彼女に相応しいのかなって」


 思わず弱音を吐いてしまうと、彼女はしゃがんでボクと目線を合わせた。


「なに。どうしたの急に弱気になって」


「……」


「何があったかは知らないけど……不安なら、本人に聞けばいいんじゃないかな。自分は君に相応しい? って。まぁ、選んだのはあの子だし、答えは聞くまでもないと思うけど」


「……違うんです。分かってるんです。聞くまでもないって。でも……その……彼女に触れたいっていう気持ちが、いつか彼女を傷つけてしまいそうで……怖いんです」


 海菜さんにそう打ち明けてから、恋人の親になんて相談をしてるんだとハッとする。


「いや、あの、違うんです。愛華のことえっちな目で見てるとかそういうのじゃなくて。いや、邪な気持ちがないと言えば嘘になるんですけど。えっと、あの……き、聞かなかったことにしてください……」


「……」


 黙り込む海菜さん。終わった。完全に終わった。そう思っていると、彼女は口を開いてこう言った。


「私は妻のこと常に性的な目で見てるけど」


「……はい?」


 視線を彼女の方に戻す。穏やかな笑みを浮かべている。そんな顔をして何を言うんだこの人は。


「あははっ。ごめんごめん。まぁ……その、なんだ。あんまり自分を責めなくていいと思うよって話だよ。君が欲に負けてあの子を傷つけることなんて想像出来ないよ私には。あの子に触れたいっていう下心はそりゃあるだろうけど、それだけじゃあの子のためにここまで出来ないだろうし」


「……」


「それに、あの子だって分かってるはずだよ。君が自分をそういう目で見てるってことくらい。分かってて君の手を取ったと思う。あ、だからといって相手の同意を得ずにキスをするのは——「し、してないです! しそうにはなりましたけど!」


 思わず言ってしまった。今度こそ終わったと思ったが、海菜さんは優しく微笑み、続ける。


「それがいけないことだってちゃんと分かってるなら大丈夫だよ」


「大丈夫……ですかね……」


「大丈夫だよ。君はあの子を裏切らない。というか、裏切れないでしょ。やばいと思ったら気持ちが萎えること想像しな。愛華のこと親戚のおじさんだと思いこむとか」


「それは……萎えますね……」


「でしょ。人間だから欲を抱くことはある。こればかりは上手く付き合っていくしかないよ」


「……はい。頑張ります」


「おう。頑張れ。あの子のこと、愛してくれてありがとう」


 そう言って彼女はボクの頭を撫でた。そのタイミングで愛華の部屋のドアが開く。出てきた彼女はボクと海菜さんを交互に見て、頬を膨らませて海菜さんを睨んだ。海菜さんはボクの頭から手を離し、誤解だよというように苦笑いしながら両手を上げた。


「あ、それより愛華、お昼何食べたい?」


「えっ。もうそんな時間?」


「そんな時間です。希空ちゃんはどうする? せっかくだし、食べてく?」


「えっと……はい。良いなら是非。ちょっと、聞いてみます」


 昼食の用意はもう済んでしまっているのか母に確認を取る。まだと返信がきたため、ご馳走になることにした。


「あっ、希空が食べていくなら作ってよ。私が好きなやつ」


「ん。あぁ、ね。ふふ。了解」


?」


「私の思い出の味。君にも知ってほしいなって思って」


 リビングに移動する。海菜さんはソファに座っていた百合香さんを連れてキッチンに入って行った。彼女の家のキッチンはカウンターキッチンになっており、席からキッチンの様子が見える。材料はウィンナー、ピーマン、ケチャップ、味噌、そしてパスタ。ナポリタンっぽいが、味噌が気になる。隠し味だろうか。


「アレって、ナポリタン?」


「そう。まだ施設にいた頃、この家に初めてお泊まりした時の夕食がナポリタンだったんだ。だから、思い出の味。誕生日の夜はいつもこれなんだ」


「そうなんだ」


「うん」


 身体を揺らしながら足をパタパタさせる彼女。よっぽど好きらしい。

 スパゲッティを茹でる海菜さんの隣で、百合香さんは別の鍋で野菜を炒めている。しばらく炒めて、そこにトマト缶と水を加えた。

 ぐううーと腹の音が鳴り響く。おかしそうに笑った彼女のお腹からも同じ音が鳴る。


「ふふ。二人とも、もうちょっと待ってね。もう出来るから」


「とりあえず先にスープどうぞ」


 二人分のミネストローネが出てきた。


「これも思い出の味?」


「うん。ナポリタンとミネストローネ」


「トマト尽くしだね」


「トマト嫌い?」


「いや、好きだよ」


「ふふ。私も好き」


 そう微笑まれ、思わずドキッとしてしまう。


「はい、二人とも。ナポリタンお待ち」


「わーい。いただきます」


「いただきます」


 スパゲッティをフォークで巻いて、口に運ぶ。


「美味しい?」


 隣に座る彼女がボクの顔を覗き込み、感想を求める。「美味しい」と答えると自慢げに笑った。


「なんで君がそんな自慢げなんだよ。作ったのお母さんじゃん」


 思わず笑ってしまうと、彼女はそのままの笑顔でこう答えた。「私の自慢の母達ですので」と。

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