シスターコンプレックス

 小学校に上がる少し前、母が病気で亡くなった。


「下の子はまだ小学生にもなってないんですってね」


「幼いのに。可哀想……」


 通夜や葬式の日のことはよく覚えていないけれど、周りから聞こえてくる哀れみの声だけは覚えている。その声は、小学校に上がっても続いた。唯一の救いは、幼馴染の希空の存在だった。彼女だけは変わらずに接してくれた。

 七つ年上の姉は、母が亡くなってから部活を辞めた。高校も行かずに私の面倒を見ると言ったらしいが、父が止めたらしい。とはいえ、母が亡くなってから私に対して過保護になったことに変わりはない。姉の想いが重くて、私は度々、希空の家に逃げ込んだ。

 中学生になって初めての夏休みが始まる頃、初めて彼氏が出来た。相手は大学生だった。姉には心配されるから話さなかったが、夜な夜な電話していることがバレてしまった。


「……実は彼氏が出来た」


 素直に話すと、意外にも好反応だった。受け入れてもらえるかもしれないと期待して年齢のことも話すが、その瞬間態度は一変した。


「大学生!? えっ、ちょ、どこで出会ったの!? 変なアプリとか入れてないでしょうね!?」


「入れてないよそんなの。落としたハンカチ拾ってくれて……それで仲良くなったの」


「なにそのシンデレラみたいな……」


「ねー。運命みたいだよね」


「運命ってあのねぇ……相手は翼が中学生だって知ってんの? 知ってて付き合ってんの?」


「うん」


「……別れなさい」


「は?」


「中学生だって知ってて付き合うなんてろくな大人じゃない。別れなさい」


「はぁ!? なにそれ! 会ったこともないのに決めつけないでよ!」


「なら、会わせて」


「やだよ。なんでそこまでしなきゃいけないわけ? ずっと言おうと思ってたけど、お姉ちゃんは過保護なんだよ。私はもう子供じゃない」


「まだ子供だよ。翼は。なんもわかってない」


「なんもわかってないのはお姉ちゃんの方でしょ! 恋愛経験ないくせに偉そうに!」


「たしかに無いけど! けど、付き合うってことがどういうことかってことは、翼よりは分かってる」


「はぁ!? なにそれ」


「翼、相手から変なことされてない?」


「変なことって……」


「えっちなこと、されてない?」


「……」


「……まさか、何かされたの?」


「……お姉ちゃんには関係ない」


「関係なくないよ! 翼は私の大事な妹だから! 何かあったらって「うるさい! 重いんだよ! 私のため私のためって、自分のこと全部後回しにして、部活までやめてさ、高校も大学も、本当はいかないつもりだったんでしょ。なんで私のためにそこまでするわけ? 私はそこまでしてほしいって頼んでない! もう放っておいてよ!」


「待ちなさい翼! どこ行くの!」


「うるさい! 追いかけてくんな!」


 勢いのまま、私は家を飛び出した。彼の家に行こうと思ったが、足は別の方に向かっていた。私は薄々気付いていた。彼が良い人ではないということを。姉と喧嘩する少し前、私は彼に胸を触られた。それが何を意味するかは、なんとなくだが分かっていた。だけど付き合って一ヵ月も経っていなかったし、なにより私はまだ中学生だ。拒否すると彼は言った『じゃあ、大人になるまで待つよ』と。拒否しなかったらどうなっていたのかと思うと怖かった。だけど、その時はまだ、彼を疑う方がよっぽど怖かった。

 逃げた先は希空の家。家出をする時の行き先はいつもここだった。


「つばさねえちゃんまたいえでしたの?」


「喧嘩の原因は? 彼氏?」


「……希空には言いたくない」


「ああそう。分かった。じゃあ聞かない」


 希空はいつもそうだった。あっさりしている。だけど、心配していないわけではないことは伝わる。


「……翼、クッキー焼いたけど、食べる?」


「……ありがとう。月斗つきと兄さん」


 焼きたてのクッキーを皿に分けてくれたのは希空の兄の月斗さん。二つ年上だが、中学生とは思えないほど大人びている。私の初恋の人で、彼が中学生になったばかりの頃に告白したが『もう少し大人になったらね』とフラれた。だから私は大学生の彼と付き合ったのかもしれないと、今では思う。彼が好きだったわけではなく、子供扱いされないことが嬉しかっただけなのではないかと。


「にいちゃんのすくない」


 弟の星羅せいらが言う。この時月斗さんは、弟達の分が減らないように自分の分から私に分けていた。それが姉の過保護さと重なって、意地を張ってクッキーを突き返そうとすると、星羅が月斗さんに自分のクッキーを渡した。


「ぼく、すくなくていいよ」


「てか、この枚数なら四人で割れそうじゃない?」


 そう言って希空が四つの皿のクッキーを均等に分け直す。おーと拍手する星羅。


「……余計な気遣いだったな。ごめん。翼」


「……いえ。……ありがとうございます。……クッキー食べたら、帰りますね」


「そうか。良かった。りょうさんと仲直りできると良いな」


「……うん」


 その日は大人しく家に帰ったが、翌日も同じことで喧嘩をした。


「お姉ちゃんのわからずや! もう知らない!」


 私は再び家を飛び出して、一度は希空の家に向かった。しかし、その日はなんとなく、希空達に優しくされるのも嫌だった。しばらく当たりをふらついてたどり着いたのは一件のバー。愛華の母親の海菜うみなさんが働いているバーだった。


「いらっしゃ——翼ちゃん!?」


「あ、あの……ごめんなさい……未成年は入っちゃ駄目ですよね……」


「そうだね。本来ならあまり未成年が来るべき場所ではないね。けど、立ち入り禁止ではないよ。どうしても困ったことがあって来たんだろう?」


 仕事中にも関わらず、彼女は私の話を真剣に聞いてくれた。この人なら、私の恋を応援してくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて彼氏のことを話すが、反対されてしまった。何も知らないくせにと癇癪を起こす私に、彼女は未成年と大人の恋愛の何が駄目なのかを丁寧に説いた。自分がまだ子供であることを嫌でも思い知らされたが、反発する気にはなれなかった。それは姉に同じ説明をされていてもきっと反発していただろう。


「じゃあ百合香、あとはよろしくね」


「ええ」


 愛華のもう一人の母親に引き継がれて、その日は愛華の家で夜を過ごした。何故か希空も一緒に。愛華が先に寝ると、希空は私に話しかけてきた。


「本当は、翼が心配で来たんだ」


「……ありがと」


「うん。……目、覚めた?」


「……私はまだ何も知らない子供なんだって分からされた。海菜さんに。……私、みんなから反対されてやけになってた。誰も分かってくれないって、悲劇のヒロインぶってた」


「みんな翼が心配なんだよ。ボクも愛華も、それから涼さんも」


「分かってるよ……でもさ、過保護すぎると思わない? あの人、私のために部活辞めたし、高校も行こうとしなかったんだよ? 重いっつーの……」


「……そうだね。それはちょっと重いかも」


「でしょ? ……でも、私は結局、まだまだ子供なんだよね。お姉ちゃんの言う通り。なんもわかってない」


「謝れよ。ちゃんと」


「分かってる。……ねえ」


「なに?」


「……ありがと。私のこと心配してくれて」


「それ、涼さんにも言えよ。ちゃんと」


「分かってるってば。うるさいな……わ……」


 隣で寝ていた愛華の腕が伸びてきて、私を抱きしめた。「翼……大丈夫……」と寝ぼけた声で言いながら、私の頭を撫でた。私より一回り以上小さな彼女の身体がやけに大きく感じた。





 翌日。私は彼と別れの電話を済ませて、愛華と希空に付き添われながら家に帰った。姉からはこっ酷く叱られた。だけど姉は最後に、泣きながら私を抱きしめ、そして謝罪した。


「ごめんね。うざいお姉ちゃんで。ごめん」


「……もう、いいよ。私もごめん。お姉ちゃんの言う通り、私はまだ子供だった。けど……私のために部活やめたり、学校やめようとしたり、そういうのはもうやめて。確かに私はまだ子供だけど、それは認めるけど、何も出来ないわけじゃない。だから……私のためにって、自分を犠牲にしようとするのはもうやめて。私だって、お姉ちゃんのこと大事だから」


「翼……」


 言ってから、恥ずかしいことを言ったことに気付いて「今のなし。忘れて」と言うが、姉は「やだ。忘れない」と悪戯っ子のように笑った。


「な、何よその嬉しそうな顔……うざ……」


「私も翼が大事だよ。翼が居たから私は、お母さんが居なくなっても頑張れた。翼は私にとって、生きる希望だった」


「……だから、そういうのが重いんだってば。自分のために生きなよ。自分の人生なんだから」


「……うん。そうだね。ありがとう翼」


「……私もありがと。彼氏——元カレのこと、止めようとしてくれて」


「うん。次はまともな人を好きになりなよ」


「お姉ちゃんこそ、いい加減恋人作ったら? どうせ、私のことばっかりで恋とかしてる余裕なかったんでしょ」


「それもあるけど……恋って無理してするものでもなくない?」


「……まぁ、それは一理ある」


「でしょ。でも、恋人が出来たら翼に一番に教えるね」


「別に一番じゃなくて良い」


 それ以降、姉は私のためにと無理をすることはなくなった。以前の過保護な姉よりは随分とマシになったが、口うるさいのは相変わらずだった。

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