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わたなべ

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「百年経ったら、帰っておいで!」

 ユフカはそう言って笑った。今まで見た事もない、心の底からの笑顔だった。




 ひどく懐かしい夢を見ることがある。

 あれは、まだ私が高校生の頃の話だ。それも、夏前の数週間の話。

 あの頃、私にはササ・ユフカがいた。

 彼女と私の関係を形容する言葉を、私は持たない。多分、これから先も持つことはないだろう。私たちの関係は、言葉にすると陳腐化してしまう。より純粋な、あるいは、根源的な感情で、私たちは繋がれていた。

 私にとって、彼女だけが全てだった。彼女もそうだったかはわからないけど、少なくとも私にとっては全てだったのだ。それなのに、私は自分の手でそれを壊してしまった。限りなく、取り返しのつかない方法で。

 いまでもまだ夢に見るのだ。

 彼女が最後に言った言葉を。

 彼女の手がゆっくり引かれていく瞬間を。

 私の手の中で、少しずつ冷たくなっていく彼女を。

 幸福だった、日々のことを。

 今日の夢は特に酷かった。

 「僕ら」は屋上にいた。

 傍らには、缶のコーラを携えていた。眼前には、山から迫ってくる入道雲がある。風向きから考えて、多分二時間としないで、夕立が降るだろう。彼女は、それまでに帰るだろうか。そうしたら、僕はどうしようか。

 家は嫌いだった。一人でいると、思考が嫌な方向に暴走してしまう。外の景色が広すぎて、部屋の狭さが際立つようで、カーテンを開けることが出来なかった。この部屋の広さは、僕の心の狭さと直結しているように思えた。感覚だ。余裕がなくなってくると、段々と部屋の壁が迫ってくる感覚。ごちゃごちゃした観念だけが広がって、まともな思考の歩く場所なんてどこにもない。そのうち全部が嫌になってきて、部屋に火をつける想像をよくしていた。そうすれば、この雑然とした観念から逃げられるような気がしたから。

 家にはなるべくいないようにしていたから、平日も休日も、屋上だけが僕の居場所だった。保健室にいたこともあったけど、どこか馴染めなかった。それでも、窓際のベッドから見る景色は好きだったな。でも、長居はできないから、やっぱり居場所ではなかった。

 そうやって、ようやくできた居場所にするりと入り込んだのが彼女だ。彼女は、何も聞かなかったし、何も言わなかった。ただ、隣にいただけだ。でも、それが心地よくあった。僕らは、多分同じように居場所がなかったのだ。ただ、同じ宿り木に止まっただけの関係。だから、間違えたのは僕だった。そんな彼女に、助けなんて求めちゃいけなかった。

「僕は何も出来ないよ」

 彼女は、そう言っていたけど、結局僕のことを助けてくれた。わかっていたことだ。僕が助けを求めれば、彼女は助けてくれることなんて。だから、それだけはしてはいけなかったんだ。

 隣に座った彼女が立ち上がる。少し歩いて、フェンスに背を持たれて、視線だけは、どこか遠くを見ていた。それから、なにか言おうとして、

「――」

 何かを言って。

 それから、見たこともない顔で笑っていた。



 目覚ましの音がした。

 休みの日はあまり朝から起きていたくないから、目覚ましをかけないでいたはずなのに鳴っていた。僕は、枕元に置いたはずの携帯電話に手を伸ばした。朝の九時。土曜日だった。

 画面をつけた僕は、鳴っているはずの目覚ましがなっていないことに気づいた。よく聞けば、目覚ましは連続した音で、今聞こえているのは、途切れ途切れの音だった。それは来客を知らせるチャイムだった。こんな朝早くから誰だろうか。今日は宅配の予定はないから、勧誘か、それとも点検か。

 少し迷って、僕は布団から出る。インターホンをつけた。来客があればこれを見ればわかるから、いきなりドアを開けるようなことはしなくなった。僕も成長したんだな、と思ったら、少しおかしかった。

 妙なことに、インターホンには誰の姿もなかった。カメラに映らない位置に、訪問者がいる可能性もあるけど、でも、僕をそんな小さな子供が訪ねてくるなんてことはない。もしかしたら、故障かもしれない。もしそうなら、少し面倒だった。どこに電話したらいいかもわからないし、休日にきてくれるかも、定かではなかった。もし休みなら、僕は、平日が始まるまで、この騒音に耐えなくちゃいけない。それだけは避けたかった。

 とにかく誰も来ていないことを確認したかったから、僕は玄関のドアを開けることにした。それで誰もいなかったら、とりあえず管理会社に電話しよう。それから、今日は天気もいいから、朝から出かけるのもいいだろう。今日中に直らなかったら、そのまま遠くまで出かけて、泊まってもいいな。それから――

 

 「遅かったね」


 玄関を開けた先から声がした。

 思考が止まった。

 緊張で、口の中が勢いよく乾いていく。

 体中の筋肉の動かし方がわからなかった。

 もう聞くことはないと思っていた声だった。

 もう見ることはないと思っていた表情だった。

 もう、触れることはないと思っていた指だった。

 もう二度と会うことはないはずだった。

 ササ・ユフカ。

 何年も前に死んだはずの彼女が、僕の目の前にいた。



 「取り乱してごめん」

 彼女を見た瞬間、感情が抑えられなくなって、玄関先で泣いたまま倒れてしまった。

 部屋まで運んで、介抱してくれたのは彼女だった。彼女はいま、僕の目の前で、僕の淹れたコーヒーを飲んでいる。

 僕は、どうにもいられなくなって、キッチンへ逃げてきた。朝ごはんもまだだったから、正気を保つためになにか食べようと思ったのだ。彼女は、まるで珍しい獣を動物園で見つけたような表情でこちらを見ていた。

 相変わらず、何を考えているのかよくわからない表情だった。全部を見透かしたような。なにもかも、あの瞬間のままの彼女だった。

「いい部屋だね、ここ。前住んでたところより、ずっといい」

 彼女は、僕の部屋を見渡してそう言った。それから立ち上がって、そこら辺に積まれたままだった本をとっては、ペラペラとめくっていた。

「今は大学生だっけ」

「そうだけど」

「センカワ、頭いいから」

 彼女はそう言って笑って、また本に視線を落とした。

 薄気味悪かった。目の前の光景の全てに現実感がない。

 今、フライパンに落とされた卵も、鼻腔をくすぐるコーヒーの匂いも、段々焼けてきたパンも、なにもかも幻覚だと言われたら信じられる。そもそも現実なんてものが、脳が受けた刺激の産物でしかないから、その信憑性は主観でしかない。だとしても。

 夢だとしたら生々しい。でも、現実だとしたら浮き足立っている。

 冷蔵庫に余っていたベーコンもついでに焼いて、買い置きしていたミニトマトを器に入れた。食卓に並べる。ユフカも食べるだろうか。そもそも、この彼女は、実体はあるのだろうか。

「幻覚じゃないかどうかを疑っているみたいだね」

 まるで思考を見透かしているみたいに、彼女がそう言った。

「センカワは、どっちであって欲しい?」

 彼女はそう言って、少しだけ笑った。

 笑った顔なんて見たことなかったのに、今日のユフカはよく笑うらしい。

「わからないよ……」

 食べた食パンは、綺麗なきつね色で、それからなんの味もしなかった。



 その後も、彼女は消えることなくそこにいた。

 非現実的だと思っても、少しでも日常を進めるしかなかった。週明けには、レポート課題の期限があったから、僕はパソコンを広げて、それを少しずつ進めていた。彼女は、窓際にもたれて空を見ている。

 そうしているうちに、午前中が終わった。少しお腹がすいたから、コンビニにお昼ご飯を買いにいこう。朝は洋食だったから、お昼は和食がいいな、なんて考えて、それから、彼女はどうするのだろうと、少しだけ惑った。

「僕も行くよ」

 出かける旨を伝えると、彼女は立ち上がって僕に着いてきた。玄関の鍵を閉めて、アパートの階段を降りた。まだ春は遠い、澄んでいて冷たい空気の匂いがした。

「冬の匂いって、煙草の匂いに似てると思う」

 彼女はぼんやり歩きながら、そんなことを言った。

「つんとしてて、鼻の奥に抜けて、それから、少しだけ咳き込んでしまう」

 小学校の横を通って、裏路地へ。住宅街を抜けると、目的地はそこにあった。暖房が効いていて、少し暑い。

 彼女も、生きていた頃はこうやってコンビニとか来たんだろうか。あんまり想像できないな。ちょっとだけ面白い。

「見て、センカワ」

 彼女は、真空パックの惣菜を陳列した冷蔵庫の前にいた。手には、タラの西京焼きが握られている。

「こんなのまで売ってるんだね。食べるものに困らないなあ」

 そうやって、彼女は色んな商品を手に取っては、興味深そうに眺めていた。僕は、彼女の持っていた西京焼きが少し気になって、それをかごに入れる。

「ユフカは何食べるの」

 ユフカがものを食べられることは、朝ごはんの段階でわかっていた。彼女は、僕の作った朝ごはんを丁寧に食べたから。何年も一緒にいてきて、彼女がものを食べてるところを見るなんて初めてだった。好き嫌いとかあるのだろうか。あんまりジャンキィなものは食べなさそうだな、とか、ぼんやり思う。

「僕はいいかな。でも、これは少し気になるかもしれない」

 そう言って彼女が渡してきたのは、冷凍食品の果物だった。

「これで美味しかったら、わざわざ果物を買う必要もないね」

 レジで会計を済ませて、来た道を帰る。

 僕は歩きながら、この状況の異常さについてぼんやりと考えていた。

 ものを食べられるということは、きっと実体はあるんだろう。それに、よく観察したら、あの頃のままの彼女という訳ではないらしかった。形容し難いけど、あの日彼女が死ななかったら、きっとこういう風に成長するんだろうな、というか、つまり、僕と同じように歳を重ねたように見えた。

 僕より少しだけ背の高い彼女を見た。歩きながら、コーラに口をつけている。片手には、さっきコンビニで買った袋を下げていた。


 お昼を食べ終わって、僕もレポート課題が一段落したから、午後からは映画を見ることにした。

 誰を呼ぶ訳でもないのに買ったソファが来んなところで役に立つなんて、人生はなにがあるかわからない。でも、こんな状況になることすらも想定出来ていなかったのだから、むしろ、想定できていることの方が少ないように思えた。

 配信サイトで適当に選んだ映画は、かなり暗澹としていて、それでも、バッグミュージックに流れるドビュッシーだけは綺麗だった。

 隣に座った彼女は、買った冷凍の果物を溶かしながら食べていた。味を聞こうか迷っていると、彼女が視線を上げて、

「食べる?」

と聞いた。僕は、頷いて、それから彼女から一粒だけ貰って、それを口に運んだ。ぶどうだった。

 映画はいよいよ佳境だった。酷い目にあったヒロインが、全部投げ捨てて、空を飛ぼうとしていた。夕方の田園風景はあまりにも虚無的で物悲しい。鉄塔が、遥か彼方の空に向けて表情もなく伸びていた。

「センカワ」

 彼女が声をかける。見ると、彼女は真っ直ぐこちらを見つめていた。

「僕は君に謝らなくちゃいけないことがある」

 いつか聞いたようなセリフ。あの時は、僕がこれを言おうとしていたんだったかな。意識がぼんやりとしていて、思い出せないけれど。

 ただ、あの時と同じように、僕もそんなセリフ聞きたくなかった。あの時君が死んだのは僕のせいだから。僕が、全部を君に背負わせて逃避し続けたから。隣にいてくれただけで良かったのに、手を引いてもらうことまで求めたから。それなのに。

僕の手には、いつの間にか銃が握られていた。あの時と同じ銃だった。ハンマは降りている。多分、弾も込めてあるはずだ。

 贖罪。

 死ぬべきは僕だったという観念。

 彼女が何か言う前に、僕はこめかみに銃口をあてがう。

 引き金は素早く引かれる。

 そして僕は、微睡みから帰ってくる。


 映画は終わろうとしていた。

 ぼんやりとした頭に、アラベスクの軽やかなメロディが心地いい。机に置きっぱなしにしてあったコーヒーを口に含んだ。とうに冷たくなったコーヒーは、その苦みが強く感じられる。おかげで、少しだけ目が覚めた。

 横を見ると、彼女の姿がなかった。立ち上がって、部屋の中を探す。洗面所にも、ベランダにもその姿はなかった。

 僕は、妙に冷静な気持ちになって、部屋の中に立ち尽くしていた。それから、元の日常に戻っただけだ、と思い直して、コーヒーをもう一杯飲むことにした。

 お湯を沸かそうとキッチンに向かい、ドリップケトルに水を入れて火にかける。そういえば、と思って、人からもらってそのままにしていたコーヒーを戸棚から取り出した。

 コーヒーは豆のままだった。仕方がないので、買ったきり使ったことのなかったミルを引っ張り出してきて、豆を挽く。少し荒く挽いた豆をフィルターに載せて、ドリッパーにセットした。お湯を少しずつ注いで、コーヒーが垂れてくるのをぼんやりと待つ。

 不意に、涙が零れそうになった。受け入れられそうになっていた、得られるとも思ってなかった幸福は、こんなにもすぐに消えてしまうのだと思った。なにかしないと気が紛れそうもないのに、何もする気が起きなかった。

 コンロの脇に、何年も吸ってなかった煙草が置いてあることを思い出した。ご丁寧にライターまで置きっぱなしになっている。最後に吸ったのは、まだ高校に通っていた頃だったかな。なんでこんなところに置いておいたんだっけ。

 部屋が臭くならないように、換気扇をつけて、なるべく煙がそこに吸い込まれるように吐いた。久しぶりに吸った煙草は煙くって、ただ不味いだけだった。

「ただいま」

 不意に、玄関の扉が開かれる音がして、僕は驚いて、走って玄関に向かう。そこには、鼻も耳も真っ赤にして、寒そうに靴を脱いでいる彼女がいた。

「どこ行ってたの」

 僕は、思わず涙をこらえることが出来なくなって、泣きながら彼女にそう聞いた。彼女は、少し驚きながら、

「晩ご飯の食材を買いに行ってたんだ」

と言った。

 見れば足元には、野菜や肉の詰まった買い物袋が落ちていて、僕は、ゆっくりそれを拾い上げた。

「センカワ、ちゃんと食べてなさそうだから」

 彼女は羽織っていたコートを脱ぎながらそう言った。それから「コート借りた」とだけ言って、またテレビの前に戻っていった。

「まだ少し早いけど、夕方になったら一緒に作ろう」

 と、夕方のテレビショッピングを見ながら、ユフカが言う。



「玉ねぎは、みじん切りにしてから電子レンジにかけると早く火が通る」

 と、彼女が言うので、その通りにしてから炒めていた。部屋にはバターの匂いが充満していたので、彼女が窓を開けに行ってくれて、その間にも、鍋の中の玉ねぎは香ばしさを伴った茶色に変化していた。

 彼女が買ってきた材料はチキンカレーのものだった。パンに塗るために買っておいたバターが賞味期限ギリギリなことを思い出して急遽バターチキンカレーになったけど、彼女はそっちの方が好みらしい。鳥は皮を取らないで、そのまま炒めて、じゃがいもと人参と一緒に水に浸した。あとは、アクを取りながらじっと待てばいい。

 僕がアクを取っている間姿が見えなかったセンカワだったけど、しばらくしたら洗面所の方から顔を出した。「せっかくだからと思って」と、よくわからないことを言いながら炊飯器に向かい、そのまま炊けたご飯を混ぜていた。

 僕はといえば、煮込み終わったカレーにルーを混ぜていた。スパイスの匂いがする。混ざったところで火を止めて、シンクの引き出しにしまっておいたままの、少し大きめな皿を取り出した。ユフカが受け取って、適量皿に盛った。僕がそれにカレーをかけて、今日の晩御飯が完成した。

「聞かなかったけれど、甘口でよかった?」

 彼女は、バラエティをぼんやり眺めながらそう聞いた。

カレーはあんまり辛くない方が好きだったから、僕は短く返事をした。それから、少し喉に乾きを覚えて、キッチンでコップに水を汲んで、食卓に置いた。

「福神漬けとか買えばよかったかな」

 と、彼女はあんまり興味もなさそうに呟いた。


 洗い物が済んで、窓の外を見ながらぼうっとしていると、洗面所から出てきた彼女が、僕の手を掴んで歩き出した。脱衣所まできて、いつか僕がしたように、じっとこちらを見ることで、服を脱ぐことを促している。僕は諦めて、二人で入浴の準備をすることにした。

 僕の体は、昔ついた傷や痣がそのまま残っていた。あんまり思い出したくなくて、お風呂はいつも、頭がぼんやりしている朝に入ることにしていたけど、そんなこと今更どうでもいいことだった。二人で浴室に入って、向き合って、頭の上から暖かいシャワーを浴びた。

 彼女のへその下、僕がつけた刺し傷もそのままだった。今ではだいぶ薄くなってはいるけど、やっぱり消えることはなかったらしい。お互い傷だらけだ。違いとすれば、彼女の傷は僕がつけたもので、僕の傷に、彼女からつけられたものはないことだろうか。同じ傷でも、意味が大きく違うな、と思った。

 それから、二人で頭を洗った。椅子は一人分しかなかったから、彼女は椅子に、僕は湯船の縁に腰掛けて洗った。先に彼女の方が頭を流して、それから、そのまま僕の頭も流してくれた。

「センカワは髪、長い方が似合うね」

 と、トリートメントをしながら彼女が言った。

 

 「湯船に浸かりながらだと、あんまり色んなこと考えられなくなるらしいよ」

 体を洗い終わって、狭い湯船に二人で浸かっていた。

 「とはいえ、さすがに狭すぎるね、これ」

 単身者用の浴槽は、そもそも一人ではいるにも狭すぎるから、二人で入ったら壊れそうだった。仕方ないので、僕は足だけお湯に浸けて、縁に座る。

「前一緒に入った時は、センカワ泣いちゃって大変だったよね」

 彼女が笑いながらそう言った。僕は、あまり掘り返して欲しくなかったから、彼女とは逆の方向を向いた。

「センカワ、明日も休みでしょ」

 少し経った頃、彼女が僕にそう聞いた。

「海にでも行こうよ。天気良さそうだし」

 彼女のその提案には、すぐに同意した。海なんて久しく行ってなかったから。少なくとも、進学してからは一回も行ってない気がする。それに、ユフカと出かけるのは、とても魅力的に思えた。

 行先はすぐに決まった。それは地元の海だった。今の住居からだと、電車で一時間くらい。朝早めに出て、数年帰ってなかった地元を見て回ろうと、僕が言ったのだ。彼女も、対案すら出さずにそれに同意した。

 それからは、特に何も喋らなかった。彼女が「そろそろ出ようか」と言ったので、僕は「もう少し入ってから出るよ」とだけ言って、彼女が出ていくのを見送った。

 一人の浴室は、普段自分が感じているより広かった。彼女が選んだ入浴剤の、少し刺激のある匂いだけが鼻につく。

 顔まで熱くなってきたので、浴室の扉を少しだけあけて、外の空気を顔に受けた。生活の匂いがする。普段なら思わない匂いに、少しだけ感情が緩む。



 彼女は先にベッドで横になっていた。僕も、特にやることもないので、電気を消してベッドに潜る。

 それから眠りについたのは、日付が回る少し前だったはずだ。目が覚めたのは、もうすぐ日が昇るくらいの時間だった。僕はコーヒーを淹れて、ベランダに出る。外の空気は冷たくて、あんまり長くいたら、芯まで冷えてしまいそうだった。

 結局、コーヒーを二口くらい口に入れたところで耐えられなくなって、部屋に戻った。扉の音で目が覚めたのか、彼女が体を起こしてこちらを見ていた。

「早いんだ」

 まだ少し眠そうな声でそう言う。僕は「たまたま目が覚めて」とだけ言って、ベッドに腰掛けて、コーヒーの残りを飲んだ。

 彼女はは、二度寝するか迷ったように、それまで自分が寝ていたところをじっと見てから、またゆっくりと布団の中に潜っていった。朝弱かったんだな、この人。

 完全に目が覚めてしまったので、僕は昨日の残りのご飯と、カレーを、今日食べる分だけ残して保存容器に入れ、冷凍庫にしまった。それから、昨日コンビニに行った時に買っておいた豆腐を冷蔵庫から取り出す。顆粒だしを水に溶いて火をかけ、豆腐と味噌を入れて、煮立つ前に火を止める。それから、コンビニで多めに買っておいた焼き魚をレンジにかけた。あとは、彼女が起きるのを待つだけ。

 彼女はそれから一時間くらいして起きた。僕は、朝のバラエティをテレビで見ながら、まだ少し残っているカップのコーヒーの始末について考えていた。支度をしようとキッチンに戻ると、味噌汁が少し冷えてしまっていたので、温め直してから食卓に並べる。今朝はお茶がいいだろうか。ドリップケトルに水を入れて、弱火で火をかけた。

 

 電車の中は暖かくて、寝不足の僕には最適な睡眠環境だった。だから、乗ったところまでは記憶があったけど、次に目を開けた時にはもう目的地の一つ前の駅だった。

 電車は、大きな川を超えて、ついに僕たちが住んでいた街に差し掛かった。懐かしい。もう何年も帰ってなかったから、少し感傷的になってしまった。

 そのまま列車はゆっくりと減速して止まった。扉が開いたので、僕らはプラットフォームに降りる。改札を抜けて、駅前のロータリーに出た。数年ぶりに見た街並みは、多少変化があって、駅前に新しいビルが立っていたし、少し行った所には商業施設もできていた。ただ、今日の目的地はそこではないので、海に向かって歩き出す。

 街中を抜けて、川辺をぼんやり歩いていくと、大きな交差点に差し掛かった。信号が青になったのを確認してから、その交差点を直進する。喫茶店や、自動販売機を超えた先には高速道路の高架が走っていて、その脇の階段から僕らは海に降りた。

 天気のいい冬の海は穏やかだった。浜辺には、人がまばらにいて、堤防には、釣竿を垂らしている人の姿もあった。

「海なんて久しぶりに来た」

 と、彼女は深呼吸しながら言う。「前はよく来てたんだけどね」と続けた。

 それから僕らは、テトラポットに沿って少し歩いた。人のいる景色が遠くに見えるくらいまで来て、二人で腰を下ろす。彼女は、髪に砂がつくのも構わずに、砂浜に寝そべった。

「前に、センカワ言ってたよね」

 彼女が言う。

「こうやって空を見ていると、空に落ちていきそうになるって」

 そういえばそんなことも言ったかもしれない。

 あの頃の僕は、とにかく空を眺めていた。そこに救いがあると信じていたから。でも、空の上には何も無かったのだ。何かあると思い込んで、必死になってそれを追いかけたけれど、得たものは幾許かの自己満足と、虚無感だった。地上で生まれた僕たちは、地上でしか生きられない。そんなわかりきったことを理解するまで、僕には長い時間が必要だった。

 だから、ユフカの今言った言葉は、言ってしまえば妄言だ。人間は空には落ちていけない。万有引力と、遠心力を合成した重力がそれを許さない。

それでも無理矢理飛ぶためには、翼が必要だ。それと、体を空に推しあげるためのエンジンと、それから、それから。

 あの頃の僕は、空に行くためには身軽であればいいと思っていた。でも、それは間違いだった。知識が増えるにつれて、人間が空を行くためには、ひどく膨大な知識が必要だと知った。それから、その知識を得た人間は、純粋に空を飛ぶことが出来なくなることも。

 皮肉だった。空を飛ぶために得た知識で、人間は空を飛ぶことが出来なくなる。要らないものばかり身に慿いていって、凝り固まってしまう。そうなれば、二度と空を飛ぶことは許されない。自由に飛ぶことは出来ない。

 結局、人間は本当の意味で飛ぶことなど出来なかったのだ。空力作用で浮く翼に、エンジンで無理矢理風を当てて飛ぶのが精一杯で、そんなの、本当の自由じゃない。それに気付いた瞬間、僕はどうしようもない無力に襲われた。

 大学にも行かなくなっていた。学んでも意味なんてないと思ったからだ。知識なんて欲しくなかった。ただ、空の上までいければそれで良かったのだ。ユフカ。君のいるところにまでいければ、それで。

 生きているうちにもっと色んな話がしたかった。色んなものを一緒に見て、色んなものを感じて、同じ時間を生きたかっただけなのだ。空の上なんかどうでもよかった。ただ、君がいてくれればそれでよかったのだ。

 昨日から見えている彼女が幻覚だということには、とっくに気が付いていた。そりゃそうだ。だって作った食事は全部一人分だし、彼女が食べていたと思っていたものは全部僕が食べたから。実体があると思いたかっただけだ。カレーの具材だって、いつか僕が買ってそのまま玄関に置きっぱなしにしていたものだ。全部僕の一人芝居だ。最初から、僕の妄想だったんだ。

 なら、この目から流れる涙は一体なんだ。

 虚像から生み出されたこの悲しみも、虚像だとでも言うのか。

 ユフカは、気付いたら起き上がっていた。それから、僕の涙を手で拭って、僕をその肩に抱き寄せる。懐かしい、ユフカの匂いだった。何年も前に死んだ、ササ・ユフカの。

「僕はね、ユフカ」

 僕は、こぼれる涙を堪えることなく、優しく頭を撫でる彼女に言う。 「ずっと、君みたいになりたかった」

 ユフカは、小さく「うん」とだけ言う。

「貴女のように、なりたかったよ。ユフカ」

 全てを悟っても、それでも絶望しないでいたかった。

 この先の人生が一人だとしても、それでも生きていけるだけの強さが欲しかった。

 誰かのそばにいれるだけの優しさが欲しかった。

 誰かが倒れそうになった時に、支えられる人間になりたかった。

「形だけとか思って、一人称変えてみたけど、駄目だね」

 外側だけ取り繕っても、中身までは変わらない。僕の本心は、あの頃と変わらないまま、逃げてばっかりだ。逃げて逃げて、逃げ疲れて、人生が終わるのを待っている。自分を綺麗に殺し切れるだけの勇気も、力もなくって、誰かに殺されるのを待っている。

 「でもね、センカワ。僕も君のようになりたかったんだよ」

 彼女は、酷く優しい声でそう言った。

 福音だ、と思った。

「どんなに辛くても、凛と伸ばした背筋で、じっと前だけを見てる君みたいに、僕も」

 僕はそれを聞いて、思わず笑ってしまった。

 つまり僕たちは、互いに相手になりたがっていたのだ。もっと言葉を交わして、もっとお互いを知っていたら、きっとそういう風になっただろう。でも、そうはならなかったし、多分なれなかっただろう。だって僕たちは、互いに互いを知ることを拒絶したから。相手を、自分の興味なんかで傷つけたくなかったから。傷つけてしまえば、二度と関係が戻ることはないと、知っていたから。

 なら、と僕は思う。僕の見ているこの幻覚は、互いを知った後のユフカということだろう。彼女が、こんなにも柔らかく笑うことを、僕は知りたくないと拒絶したのだ。彼女が意外といたずらが好きなのも、寝起きが悪いのも、知ることを拒んだ。その結果が今の僕だ。こんな、どうしようもない僕だ。

「落ち着いた?」

 彼女は微笑みながらそう言った。僕は、少し爽快な気分になって、

「ありがとう」

 とだけ言った。

彼女は立ち上がって、それから海の方に向かって歩いていった。靴下を脱いで、足だけ海につける。蹴り出して、水を払った。水滴が、冬の日に照らされて、キラキラと光る。彼女は、心の底から、楽しそうに笑っていた。

「そろそろ行くよ」

 僕は、その光景を見て、元来た道を歩き出す。まだ、少しだけ涙が出るけど、仕方がなかった。ここにいちゃいけない。僕は、歩いていかなきゃいけない。いつか、彼女とまた会うまでは、必死に生きていかなきゃいけないから。その時は、色んな話をしようと思う。君の知らない、色んなことの話を。

「センカワ!」

 後ろで、彼女が叫んだ。

「百年経ったら、帰っておいで!」

 そう言って、笑った。

 多分、心の底から笑っていた。

 それを見て、僕も笑った。

 心の底から、笑った。



 部屋に戻って、最初に気がついたのは、窓が開けっ放しだったこととか、買ったきり結局一口しか食べなかった冷凍の果物の始末をどうしようかとか、そういうことだった。

 手を洗って、僕はコーヒーを淹れる。開けたままの窓際に腰掛けて、窓の外を見ていた。

 街の喧騒が聞こえた。それから、駆け上がっていく飛行機のエンジン音。

 深く青い空に、一筋の飛行機雲が浮いていた。

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