再び人形異変

 職工服の男は、つまらない毒口をきいたばっかりに、ついに一命を失ったか。いやいや、決してそんなことは起こらなかった。彼はやっぱりパンツのポケットに両手を突っこんだまま、さもおもしろそうに笑っていた。

 引き金は引かれたけれど、カチッという音がしたばかりで、弾丸は発射されなかったのだ。

「おや、妙な音がしましたね。ピストルが狂っているのじゃありませんかい」

 嘲笑されて、黒衣婦人はあわて出した。二発目、三発目と、ぶっつづけに引き金を引いたが、やっぱりカチッカチッというはかない音がするばかりだ。

「畜生め、それじゃあ、お前がたまを抜いておいたんだな」

「ハハハハハ、やっと合点がいきましたね。いかにもおおせの通り、ほら、これですよ」

 彼は右手のポケットから出して、手の平をひろげて見せた。そこには小さい弾丸が幾つも、可愛いらしいおはじきのようにのっかっていた。

 ちょうどその時、おりのそとにあわただしい足音がして、部下の荒くれ男どもがけつけてきた。

「マダム、大へんだ。入り口の見張り番をしていた北村が縛られているんです」

「縛られた上に気絶しているんです」

 さては、これも松公の仕業にちがいない。だが、どうして北村だけを縛って、ほかの者をそのままにしておいたのだろう。これにも何か特別のわけがあるのかしら。

「おや、こいつは一体何者ですい?」

 男どもは二人の潤一青年に気づいて、驚きの眼を見はった。

「火夫の松公だよ。何もかもこの松公の仕業だってことがわかったのだよ。早くこいつを引っくくっておくれ」

 黒衣婦人が援軍に力を得て、かん高い声をふりしぼった。

「なに、松公だって? こん畜生、ふざけたまねをしやがったな」

 男共はドカドカと檻の中へふみこんで、職工服の松公を捕えようとした。だが、なんという素早さであろう。松公はかさなり合って押し寄せてくる男どもの手の下を、ヒラリ、ヒラリとくぐり抜けて、アッと思う間に檻のそとに飛び出していた。そして、やっぱりニヤニヤ笑いながら、「ここまでおで」のかっこうで、手まねきをしながら、だんだんあとずさりをして行く。底の知れない不敵さである。

 黒衣婦人と荒くれ男どもとは、引かれるように檻を出て、ジリジリとそのあとを追って行く。無気味な移動撮影。コンクリート壁の地下道を、逃げるものはあとずさり、追うものは正面を切って、憤怒の形相ものすごく、毛むくじゃらの腕をボクサーのように構えながら、ノソノソとせまって行く。

 やがて、この不思議な行列が、剝製人形陳列所の前にさしかかった時、職工服の松公は突然ピッタリと立ち止まってしまった。

「おい、君たち、なぜ北村が縛られていたか、そのわけを知っているかね」

 彼はやっぱり、のん気そうに両手をポケットに入れたまま、薄気味のわるい質問を発した。

「ちょっとおどき、あたし、この人にたずねたいことがあるんだから」

 黒衣婦人は何を思ったのか、男どもをかき分けるようにして、松公の眼の前に近づいて行った。

「もしお前が松公だったら、これほどの人物を見そこなっていたことを、心からおびするよ。だがお前ほんとうに松公なの? あたし考えれば考えるほど信じられない。あなたは松公なんかじゃないでしょう。そのうるさいつけひげを取ってください。早くそのひげを取ってください」

 彼女はみじめにも、まるで嘆願するような口調であった。

「ハハハハハ、ひげなんか取らなくっても、君はもうちゃんと知っているでしょう。知っているけれど、僕の名を言い当てるのが怖いのでしょう。その証拠に、君の顔色はまるで幽霊みたいに青ざめているじゃありませんか」

 職工服ははたして松公ではなかった。言葉さえも、もはや盗賊の手下などのものではない。しかも、その声! その歯切れのよい口調には、何かしら耳なれた響きがあったではないか。

 黒衣婦人はあまりの激情に、身内がブルブルとふるえてくるのをどうすることもできなかった。

「それじゃあ、あなたは……」

「遠慮することはない。何をためらっているのです。言ってごらんなさい、その先を」

 職工服はもう笑っていなかった。彼のからだ全体に、何かしら厳粛なものが感じられた。

 黒衣婦人はジリジリと、わきの下を冷たいものが流れ落ちるのを覚えた。

「明智小五郎……あなたは明智さんでしょう」

 ひと思いにいってのけて、ホッとした。

「そうです。君はそれを、ずっと前から気づいていたではありませんか。気づきながら、君のおくびようがその考えを無理に抑えつけていたのです」

 職工服の人物は、言いながら、顔じゅうの付けひげをむしり取った。すると、その下から現われてきたのは、潤ちゃんらしい顔色にメーク・アップはしていたけれど、まぎれもない明智小五郎、なつかしの明智小五郎であった。

「でも、どうして……そんなことがあり得るのでしょうか」

「あの遠州なだのまっただ中に、ほうりこまれた僕が、どうして助かったかというのでしょう。ハハハハハ、君はあの時、この僕を、ほうりこんだつもりでいるのですか。そこに、根本的な錯覚があるのだ。僕はあの椅子の中にはいなかったのですよ。椅子の中へとじこめられていたのは、かわいそうな松公です。まさかあんなことになろうとは思わなかったので、僕は火夫に変装して探偵の仕事をつづけるために、松公を縛って、猿ぐつわをはめて、絶好の隠し場所、あの人間椅子の中へとじこめておいたのです。そのため、松公がああいう最期をとげたのは、実に申しわけないことだと思っています」

「まあ、それじゃあ、あれが松公でしたの? そして、あなたは松公に化けて、ずっと機関室にいらしったの?」

 さすがの女賊も毒気を抜かれて、まるで貴婦人のようにおとなしやかな口をきいた。

「それはほんとうでしょうか。でも、猿ぐつわをはめられていた松公が、どうしてあんなに物を言ったのでしょう。あの時、あたしたちは、クッションをへだてて椅子のそとと中とで、いろいろ話し合ったじゃありませんか」

「話をしたのは僕でしたよ」

「まあ、それじゃあ……」

「あの船室には、大きなしよう戸棚がおいてありますね。僕はあの中にかくれて物をいっていたのだ。それが、君には椅子の中からのように聞こえたのですよ。現に椅子の中でモゴモゴしているやつがあるんだから、君が勘違いしたのも無理はないのです」

「すると、すると、早苗さんをどっかへ隠したのも、あの大阪の新聞を椅子の上へのせておいたのも、あんたの仕業だったのね」

「その通りです」

「まあ御念の入ったことだわね。新聞の偽造までして、あたしをいじめようとなすったの?」

「偽造? ばかなことを言いたまえ。あんな新聞が急に偽造なんかできるものか。あの記事もあの写真も、正真正銘の事実ですよ」

「ホホホホホ、いくらなんでも、早苗さんが二人になるなんて、そんなばかばかしい……」

「二人になったんじゃない。ここへ誘拐されてきた早苗さんはにせものなんだよ。早苗さんの替玉を探すのに僕はどれほど骨を折ったろう。むろん無事に助け出す自信はあった。だが、親友の一粒種を、そんな危険にさらす気にはなれなかったのでね。君が早苗さんと信じ切っていたあの娘はね。桜山葉子という、親も身寄りもない孤児なんだよ。しかも少々不良性をおびたモダン・ガールなんだよ。不良娘なればこそ、この大芝居をまんまと仕こなすことができたし、あれほどの目にあってもがんばり通す胆っ玉があったのさ。葉子はあんなに泣いたりわめいたりしながらも、僕を信じ切っていた。僕が必ず救い出しにくるということを、確信していたのだよ」

 読者諸君は、この物語のはじめの方の「怪老人」という一章を記憶されるであろう。名探偵明智小五郎のぎまん作業は、実にあの時に行なわれたのであった。怪老人はつまり明智の変装姿にほかならなかった。そして、あの夜から、ほんとうの早苗さんは、明智だけが知っている、別の場所にかくまわれ、それと入れ違いに、早苗さんになりすました桜山葉子が岩瀬家に入りこんだのであった。その翌日から、早苗さんは一間にとじこもったきり、家人には顔を見られることさえいやがるそぶりを示した。岩瀬氏夫妻は早苗さんはうちつづく迫害に、一種のうつ症になったものときめてしまって、彼女がにせものだなどとは疑いさえもしなかった。葉子の名優ぶりはこの時からして、すでに抜群であったのだ。

 名探偵の、意外につぐに意外をもってする物語を聞くにしたがって、黒衣婦人はもう、心底からこの大敵の前にかぶとをぬいだ。明智小五郎という一個不可思議の大人物を、心から崇拝したいほどの気持になっていた。だが、彼女の部下の無知な荒くれ男どもは、決して彼を崇拝しなかった。それどころか、首領にまんまと一ぱいわした不届き者として、かつは彼らの同僚松公を海底のもくずとしたきゆうてきとして、かぎりなき憎悪と憤激を感じた。

 彼らはこの長話をジリジリしながら聞いていたが、問答が一段落したとみるや、もう我慢ができなかった。

「めんどうだっ、やっつけてしまえ」

 一人の叫び声が導火線となって、総勢四人の大男が、孤立無援の名探偵めがけて飛びかかって行った。女賊の威望をもつてしても、この勢いをはばむことはできなかった。

 うしろからのどをしめるもの、両手をねじ上げるもの、足を取って引き倒そうとするもの、いかな明智小五郎とて、この死にもの狂いの大敵には、全く力をふるうすべがなかった。あぶない、あぶない。せっかくここまでこぎつけて、最後のどたん場で、形勢逆転するようなことになるのではあるまいか。一代の名探偵も、ついにこの荒くれ男どものために、命を失うような羽目になるのではあるまいか。

 だが、実に奇妙なことには、この激情のさなかに、人もなげなる朗らかなこうしようが響き渡ったのである。しかしその哄笑の主は、四人の男に組み敷かれた明智小五郎その人ではなかったか。これはまあなんとしたことだ。

「ワハハハハハ、君たち眼がないのか。よく見るがいい、ホラこのガラスの中をとくと見るがいい」

 ガラスというのは、例のはくせい人形陳列場のショウ・ウインドウのようなガラス張りのことにちがいない。

 人々は思わずその方に眼をやった。彼らはうかつにも、そのガラス張りの中に、どんなことが起こっているか、少しも気づかなかったのだ。激情のせいもある。それに、格闘の行なわれた場所からは、陳列所が斜め向こうになっていたために、眼が届かなかったせいもある。

 見ると、そのガラス張りの中には、またしても驚くべき異変が起こっていた。人形どもが、今度は揃いも揃って、男の背広服を着せられていたではないか。剝製の男女が、元のままの姿勢で、しかつめらしい背広服を着て、すまし返っているのだ。

 むろん明智の仕業にちがいないのだが、一度ならず二度までも、なんというつまらないいたずらをしたものであろう。だが、待てよ。明智ともあろうものが、そんな無意味ないたずらをするはずはない。この奇妙な衣裳の着せかえにも、また何か、途方もない意味があったのではあるまいか。

 最も早くそれに気づいたのは、さすがに黒衣婦人であった。

「アッ、いけない」

 がくぜんとして逃げ腰になるすきもなく、人形どもがムクムクと起き上がった。衣裳だけが変っていたのではない。中身までも全く別物と置きかえられていたのだ。そこには剝製人形ではなくて、生きた人間が、さも人形らしいポーズを取って、時機のくるのを待ちかまえていたのだ。見よ、背広の男どもの手には、例外なくピストルがにぎられ、その筒口が盗賊たちに向けられているではないか。

 たちまち「ガチャン」と物のこわれる音、ショウ・ウインドウのガラスにポッカリと大きな穴があいた。その穴から背広の男たちが素早く飛び出してくる。

「御用だっ、『黒トカゲ』神妙にしろ」


 恐ろしく大時代なしつの声が鳴り響いた。現代の警察官にもこの有効な掛け声は、案外しばしば使用されているのだ。いうまでもなく背広の人たちは、明智の手引きで地底に侵入した、警視庁の腕利き刑事の一団であった。

 さいぜん明智は、入り口の張り番をしていた北村だけが、なぜ縛られたのか、その意味がわかるかとたずねたが、それは暗に警察官の来援をほのめかしたのであった。入り口をひらかせる合図の信号は、明智から電話で警視庁に知らせてあった。その信号によって、刑事たちはなんなく地底にはいることができたのだ。そして入り口をはいると同時にそこの見張り番の北村を適当に処理したまでのことであった。内部から明智が手伝ったことはいうまでもない。さっき、しばらく、潤ちゃんが行方不明になっていたあいだの出来事だ。では、彼らはなぜすぐさま、「黒トカゲ」の逮捕に向かわなかったのか。それは、この捕物を充分効果的にするための、明智の指図であった。刑事とて、洒落しやれを解せぬぼくねんじんばかりではないのである。

 いうまでもなく別の一隊は、水上署と協力して海上の賊船に向かっていた。もう今頃は、「黒トカゲ」の部下たちは、汽船もろとも一人残さず召捕られていることに違いない。地底の賊徒も、たちまちにして、刑事たちのピストルの前に頭を下げた。さしもにどうもうな荒くれ男どもも、この悪夢のような不意打ちには、どう手向かいするすきもなく、ことごとく縄をかけられてしまった。まっぱだかの潤ちゃんも例外ではなかった。だが、首領の「黒トカゲ」だけは、さすがにびんしようであった。まっ先に背広人形の意味を悟った彼女は、逃げ足も早く、一人の刑事につかまれた腕を振り切って、飛鳥のように、廊下の奥の彼女の私室へ逃げこんで、中からかぎをかけてしまった。

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