水葬礼

 黒衣婦人は、空しくもとの船室に引きあげて、例の長椅子にグッタリとなったまま、この解きがたい謎を解こうとして、長いあいだ冥想にふけっていた。

 これらの出来事には関係なく、機関は絶え間なく活動し、船は暗闇の空と水の中を、全速力で、東に向かって進んでいた。

 船全体を、小きざみに震動させる機関の響き、ひっきりなしに船べりをうつとうの音、ふと忘れている頃に襲いかかる大うねりの、すさまじい動揺。

「黒トカゲ」は、長椅子の一方の腕にもたれて、何か怖いものでも見るように、その長椅子の表面のかぎ裂きのあとを見つめていた。

 振りはらっても振りはらっても、湧き上がってくる恐ろしい疑惑をどうすることもできなかった。もうそのほかに考えようがないではないか。あらゆる隅々を探しつくしたのだ。たった一つ残っているのは、人々の盲点にかかったように、捜索を忘れられている、この長椅子のなかであった。

 心をすますと、機関の震動とは別の、かすかな、かすかな鼓動が、クッションの下から、彼女の皮膚に伝わってくるように感じられた。

 人間の心臓が脈打っているのだ。椅子の中にひそんでいるだれかの鼓動が聞こえてくるのだ。

 彼女はまっ青になって、歯をいしばって、今にも逃げ出したい衝動をじっとおさえていた。

 だが、そうしてじっとしているうちに、椅子の中から伝わってくる鼓動は、刻一刻その振幅を増して行くように思われた。彼女にはもう、波の音も機関の響きも聞こえなかった。ただ、おしりの下の、えたいの知れぬ鼓動だけが、まるで太鼓の音のように、異様に拡大されて鳴り響いた。

 もう我慢ができなかった。逃げるもんか、だれが逃げるもんか。たとえあいつがこの中にひそんでいたとしても、袋の中の鼠じゃないか。恐れることはない、ちっとも恐れることなんかありゃしない。

「明智さん、明智さん」

 彼女は思い切って、大声に呼びながら、長椅子のクッションをコツコツとたたいた。

 すると、ああ、はたして、椅子の中から、陰にこもった声が答えたのだ。

「僕は影法師のように、君の身辺をはなれないのだよ。君の作ったからくり仕掛けが、大へん役に立ったぜ」

 地の底からのように、あるいは壁の中からのように響いてくる。その陰気な声が、黒衣婦人を思わず身ぶるいさせた。

「明智さん、怖くはないのですか。ここはあたしの味方ばかりですよ。警察の手のとどかない海の上ですよ。怖くはないのですか」

「怖がっているのは、君の方じゃないのかい……フフフフフフフ」

 まあ、なんて気味のわるい笑い方をするんだろう。椅子から出ようともしないで、平気でいる。奥底の知れない男だ。

「怖くはないけど、感心しているのよ。あなたに、どうしてこの船がわかりましたの」

「船は知らなかったけれど、君のそばにくっついていたら、自然とここへくることになったのだよ」

「あたしのそばに? わかりませんわ」

「通天閣の上から君に尾行することのできた男は、たった一人しかなかったはずだぜ」

「まあ、そうだったの? すてきだわ。ほめてあげますわ。売店の主人が明智小五郎だったのね。あたし、なんて間抜けだったのでしょう。あのほうたいを中耳炎といわれて信用してしまうなんて、おかしかったでしょうね」

 黒衣婦人は一種異様の感動にうたれ、彼女のお尻の下に横たわっている人物が、敵ではなく恋人ででもあるような、奇妙な錯覚を感じていた。

「ウン、まあね。ばかすつもりでばかされていた君の様子は、少しばかり愉快でないこともなかったね」

 世にも不思議な会話が、ここまで運ばれた時、突然ドアがひらいて、事務長姿の雨宮潤一がはいってきた。彼は室内の異様な話し声に不審をいだいたのだ。

「黒トカゲ」は相手が物をいわぬうちに、素早く唇に指を当てて合図をした。そして潤一青年をソッと手招きすると、そばの卓にあったハンド・バッグから鉛筆と手帳を取り出して、口ではなにげなく明智に話しかけながら、手はいそがしく手帳の上を走った。

(手帳の文字)コノイスノ中ニ明智タンテイガイル。

「それじゃもしや、S橋の河岸で、妙な叫び声を立てたり水音をさせたりしたのも、あんたの仕草じゃなかったの?」

(手帳の文字)ハヤクミンナヲ呼べ。丈夫ナ縄ヲモッテコイ。

「お察しの通りだよ。あの時君が油障子から顔を出しさえしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないぜ」

「やっぱりそうだったの。で、それから、どうして尾行なすったの?」

 この会話のうちに、潤一青年は、ぬき足さし足、室外に立ち去った。

「自転車を借りてね、君の船を見失わぬように、河岸から河岸と、陸上を尾行して行ったのさ。そして、夜のふけるのを待って、小舟を頼んでこの本船に漕ぎつけ、暗闇の中で曲芸のようなまねをして、やっと甲板の上まで登りついたのだよ」

「でも、甲板には見張りの者がいたでしょう」

「いたよ。だから、船室へ降りるのにひどく手間取ってしまった。それから、早苗さんの監禁されている部屋を見つけるのが大へんだった。やっと見つかったかと思うと、ハハハハハ、ざまを見ろ、船はもう出帆していたんだ」

「どうして早く逃げ出さなかったの? こんな所にかくれていたら、見つかるにきまっているじゃありませんか」

「ブルブルブル、この寒さに水の中はごめんだ。僕はそんなに泳ぎがうまくないんだ。それよりは、この暖かいクッションの下に寝ころんでいた方が、どんなにか楽だからね」

 実にへんてこな会話であった。一人は椅子の中の闇に横たわっているのだ。一人はそのからだの上に、クッションをへだてて腰かけているのだ。お互いに体温を感じ合わぬばかりである。しかもこの二人はうらみかさなるきゆうてき。すきもあらば敵ののどぶえに飛びかからんとする二匹のもう。そのくせ、言葉だけは異様にやさしく、まるで夫と妻の寝物語のようであった。

「ねえ君、僕は夕食からずっとここに寝ているので、あきあきしてしまったよ。それに、君の美しい顔も見たくなった。ここから出てもいいかい」

 いかなる神算鬼謀があるのか、明智はますます大胆不敵である。

「シッ、いけません。そこを出ちゃいけません。男たちに見つかったら、あなたの命がありません。もう少しじっとしていらっしゃい」

「ヘエー、君は僕をかばってくれるのかい」

「ええ、好敵手を失いたくないのよ」

 そこへ、潤一青年を先頭に、五人の船員が、長いロープを持って、音をたてぬように注意しながらはいってきた。

(手帳の文字)明智ヲイスノ中ニトジコメタママ、ソトカラ縄ヲマキツケテ、イスゴト甲板カラ海ヘナゲコンデシマエ。

 男たちは無言の命令にしたがって、長椅子の端から、ソッと縄を巻きはじめた。黒衣婦人はニヤリと笑いながら、作業の邪魔にならぬよう、椅子を立ち上がった。

「おい、どうしたんだい。だれかきたのかい」

 それとも知らぬ明智は、椅子のそとの異様なけはいに、おひとしな不審をいだいている。

「ええ、今ロープを巻いているのよ」

 やがて、縄はほとんど椅子全体にまきつけられてしまった。

「ロープだって?」

「ええそうよ。名探偵をきにしているところよ。ホホホホホ」

 今や「黒トカゲ」は悪魔の本性を暴露した。彼女は一匹の黒い鬼の形相で立ちはだかると、女性とは思われぬ烈しい口調で指図を与えた。

「さあ、みんな、その椅子をかつぐんだ。そして甲板へ……」

 六人の男が、苦もなく簀巻きの長椅子をかつぎ上げると、ドタドタと廊下から階段へ急いだ。椅子の中では、可哀そうな探偵が、網にかかった魚のように、ピチピチと身もだえしているのが感じられた。

 甲板の上は星一つない闇夜であった。空も水もただ一面の黒暗々。その中に、スクリューで泡立てられた夜光虫のりんこうが、一条の帯となって、異様に白々と長い尾を引いていた。

 六人の黒法師が、かんおけのような長椅子をかついだまま、船べりに立った。

「一チ、二ッ、三ン」

 掛け声もろともげんそくをすべる黒い影。ドブンとあがる燐光の水けむり。ああ、名探偵明智小五郎はついに、あまりにもあっけなく、太平洋のくずと消え去ったのであった。

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