クモと胡蝶と

 大阪の南の郊外、南海電車沿線H町に、大宝石商岩瀬庄兵衛氏の邸宅がある。このごろそのやしきをとりまくコンクリート塀の頂きに、一面にガラスの破片が植えつけられた。

「どうしたんだろう。岩瀬さんは、あんな高利貸みたいなまねをする人柄じゃないんだが」と、付近の人々はいぶかしく思わないではいられなかった。

 だが、岩瀬邸の異変は、それだけにとどまったのではない。ず第一に、門長屋の住人が変った。これまでは岩瀬商会の古い店員が住んでいたのに入れかわって、土地の警察に勤務している剣道の剛の者と噂の高い、某警官の一家が引越してきた。

 庭園には所々に柱を立てて、明かるい屋外電灯が取りつけられ、建物の要所要所の窓には、さも頑丈な鉄格子がはめられた。その上、従来からいる書生のほかに、筋骨たくましい二人の青年が、用心棒として邸内に寝泊まりすることになった。

 岩瀬邸はいまや小さい城郭であった。

 そもそも何を恐れて、これほどの用心をしなければならなかったのか。ほかではない、女アルセーヌ・リュパンとまでいわれる、女賊「黒トカゲ」の襲来が予知されていたからだ。岩瀬氏の最愛のお嬢さんの身辺に、世にも恐ろしい危険がせまっていたからだ。

 東京のKホテルでは、名探偵明智小五郎にさまたげられて、女賊の誘拐の企ては失敗に終ったけれど、それであきらめてしまったのではない。彼女はかならず、かならず、早苗さんをうばい取って見せると揚言しているのだ。いずれはもうこの大阪へ潜入しているにちがいない。ひょっとしたら、H町の岩瀬邸の間近くまで忍び寄っていないとも限らぬのだ。

 魔術師のような女賊の手なみのほどは、Kホテルの事件で肝に銘じている。岩瀬庄兵衛氏ならずとも、これほどの用心をしないではいられなかったに違いない。

 当の早苗さんは可哀そうに、奥の一間、例の鉄格子を張った部屋に、監禁同然の身の上となった。次の間には、早苗さんお気に入りの婆や、そのもう一つ手前の部屋には、東京から出張してきた明智小五郎が寝泊まりをして、玄関わきには三人の書生、そのほか数人の男女の召使いたちが、早苗さんの部屋を遠巻にして、事あらばわれ一番に駈けつけんものと、手ぐすね引いて待ちかまえていた。

 早苗さんは部屋にとじこもったまま、一歩も外出しなかった。時たま庭園を散歩するのにも、必ず明智なり書生なりが付きそっていた。

 いかな魔術師の「黒トカゲ」でも、これでは手も足も出ないにちがいない。それかあらぬか、早苗さんたちが本邸に帰ってから、もう半月ほども経過したけれど、女賊のけはいは全く感じられなかった。

「わしはどうやらおくびようすぎたようだわい。あいつのおどし文句をまに受けたのは、ちとおとなげなかったかもしれんて。それとも、あいつは、こちらの用意を知って、とても手出しができないとあきらめてしまったのだろうか」

 岩瀬氏はだんだんそんなふうに考えるようになった。

 だが、賊の方の心配が薄らぐと、今度は娘のことが心がかりになり出した。

「わしの用心はちと手きびし過ぎたかもしれない。娘をしきろうへなどとじこめるようにしておいたのがいけなかったかもしれない。それでなくてもビクビクしている娘を、一そうおじけさせてしまった。あれのこの頃の様子はまるで人が変ったようだ。青い顔をしてふさぎこんでばかりいる。わしが物をいっても返事をするのもいやそうにして、そっぽを向いてしまう。どうかして、少し気を引き立ててやりたいものだが」

 そんなことを考えていた時、岩瀬氏はふと、きょうでき上がってきた、応接室の洋家具のことを思い出した。

「ウン、そうだ。あれを見せたら、きっと喜ぶにちがいないて」

 洋家具というのは、ぜいたくな椅子のセットで、と月ばかり前それを注文する時、椅子に張る織物を、早苗さんが選定したのであった。

 岩瀬氏はこの思いつきに元気づいて、さっそく奥の早苗さんの居間へやって行った。

「早苗、お前の好みで注文した椅子が、きょうできてきたんだよ。もう応接間にすえつけてある。一度見にきてごらん。思ったよりも立派な出来栄えだったよ」

 ふすまをあけて、部屋をのぞきこみながら声をかけると、机にもたれていた早苗さんが、ビクッとしたように振り向いたが、すぐまたうなだれてしまって、

「そうですか、でも、あたし今……」

 と、いっこうに気乗りのしない返事だ。

「そんなあいそうのない返事をするものじゃない。まあいいからきてごらんなさい。婆や、ちょっと早苗を借りて行きますよ」

 岩瀬氏は、隣室の婆やにそうことわって、進まぬ早苗さんの手を取るようにして、つれ出して行った。

 婆やのつぎの明智探偵の部屋は、あけ放ったままからっぽになっていた。彼はやむを得ない所用があって、午前から外出したまま、まだ帰らないのだ。彼が出掛ける時、岩瀬氏の在宅をたしかめ、召使いたちにも、早苗さんから眼をはなさぬよう、くどく注意を与えて行ったことはいうまでもない。

 やがて、早苗さんはお父さんのあとにしたがって、広い応接間にはいった。

「どうだね、少し派手すぎるくらいだったね」

 岩瀬氏は言いながら、その新らしい椅子の一つへ腰をおろした。

 丸テーブルをかこんで、ソファ、アームチェア、婦人用のもたれのない椅子、木製のもたれの小型の椅子など、つごう七脚のセットが、はでやかに並んでいた。

「まあ、きれいですこと……」

 無口の早苗さんがやっと物を言った。いかにもその椅子が気に入ったらしい。彼女は長椅子に腰をかけてみた。

「少し固いようですわ」

 何かしら普通の長椅子とは、掛け心地が違うような感じがした。

「そりゃ、こしらえたてには、少し固いものなんだよ。そのうちになれて柔らかみが出てくるだろう」

 もしその時、岩瀬氏も早苗さんと並んで、その長椅子に腰かけてみたならば、彼とても不審をいだかないではいられなかったにちがいない。長椅子の掛け心地は、それほど異様であった。だが、彼は一つのアームチェアに沈みこんだまま、ほかの椅子を試みようともしなかったのだ。

 そうしているところへ、小間使いがドアから顔を出して、電話を知らせた。大阪の店からの用件らしい。岩瀬氏は奥の居間の卓上電話へといそいで出て行った。だが、さすがに用心深く、書生部屋に声をかけて、応接室の早苗さんを注意するようにと命じることを忘れなかった。

 主人の声に二人の書生が廊下へ出て、そこで見張り番を勤めた。その廊下の突きあたりが応接間のドアになっていた。書生たちの前を通らないでは、だれも早苗さんのいる部屋へはいることはできないのだ。

 むろん応接間には、庭に面していくつかの窓がひらいていたけれど、それにはすべて、例のいかめしい鉄格子がはめてある。庭からも、廊下からも、早苗さんの身辺に近づく道は、全くぜつされていた。でなくては、いかに急用の電話とはいえ、岩瀬氏がその部屋に早苗さんを一人ぼっちで残して行くはずはなかった。

 電話の結果、岩瀬氏は急に大阪の店へ出向かなければならなくなった。彼は大急ぎで着がえをして、夫人と小間使いに見送られて、玄関に出た。

「早苗に気をつけてくださいよ。今応接間にいる。書生たちに見張りを言いつけておいたけれど、お前もよく注意してください」

 彼は小間使いに靴のひもを結ばせながら、夫人に幾度も念を押した。

 夫人は主人が自動車におさまるのを見送っておいて、娘の様子を見ようと応接間に近づいたが、気がつくと、ピアノの音が聞こえている。

「まあ、早苗さんがピアノをひいている。近頃にないことだわ。いいあんばいだ。じゃソッとしておいてやりましょう」

 彼女はなんとなく軽やかな気持になって、書生たちに見張りをおこたらないように注意を与えた上、居間の方へ引き返して行った。

 応接間の中の早苗さんは、父親が行ってしまうと、一つ一つの椅子の掛け心地をくらべてみたり、立って窓のそとを眺めたりしていたが、やがてピアノのふたをひらいて、でたらめにキイをたたきはじめた。叩いているうちに興が乗って、童謡の曲になったり、それがいつの間にかオペラの一節に変っていたりした。

 しばらくはピアノに夢中になっていたが、それにも飽きて、もう居間へ帰りましょうと立ちあがって、ひょいと振り向いた時、彼女はそこに、実に思いもかけない恐ろしい物の姿を発見して、ギョッと立ちすくんでしまった。

 ああ、どうしてこんなことが起こり得たのであろう。窓からも廊下からも、その部屋へ忍びこむ道は全く杜絶していたのだ。ピアノとか長椅子とか、そのほかの調度のうしろには人がかくれるほどのすき間はないのだし、近頃の低い椅子では、その下へひそむことなど思いもよらぬ。つい今し方までこの部屋には、早苗さんのほかに生きたものとては、猫一匹さえもいなかったのだ。

 それにもかかわらず、今早苗さんの眼の前に、一人の異様な人物が立ちはだかっていたではないか。モジャモジャの髪の毛、顔じゅうを薄黒くした無精ひげ、ギラギラと油断なく光る恐ろしい眼、ところどころに破れの見えるきたない背広服……どこをどうしてはいってきたのか、このおばけみたいな男は、考えてみるまでもない、女賊「黒トカゲ」の手下のやつにきまっている。

 ああ、とうとう、予期したものがやってきたのだ。しかも、人々がやや油断しはじめた虚につけこんで、魔術師のような怪賊は、やすやすと警戒を突破し、幽霊みたいに、ドアのすき間から忍びこんできたのだ。

「おっと、声を立てちゃいけないよ。手荒なことはしやしない。おれたちにも大切なお嬢さんだからね」

 くせものが低い声で、おどしつけた。

 だが、そんな注意を受けるまでもなく、かわいそうな早苗さんは、恐ろしさに、からだじゅうがしびれたようになって、身動きも、叫び声を立てることもできなくなっていた。

 賊はニヤリと無気味な微笑を浮かべて、素早く早苗さんの背後にまわり、ポケットから丸めたハンカチのようなものを取り出すと、やにわに彼女におどりかかって、そのハンカチで口をおさえてしまった。

 早苗さんは、肩から胸にかけて、蛇にしめつけられたような、いやらしい圧力を感じた。口はハンカチのために、にわかにムッと息苦しくなった。いくらなんでも、もうじっとしてはいられない。彼女はかよわい少女の力のあらんかぎり、曲者の手からのがれようともがいた。クモの糸にかかった美しい一匹のちようのように、みじめに、物狂おしくはね廻った。

 だが、やがて、彼女のかつぱつに動いていた手足が、徐々に力を失い、いつしか、ぐったりと静まり返ってしまった。麻酔剤のききめである。

 曲者は、蝶が羽ばたきしなくなると、そのからだをソッとジュウタンの上に寝かせ、はだかった着物のすそを合わせてやりながら、美しく眠った早苗さんの顔を眺めて、またしてもニヤニヤと、底気味のわるい微笑を浮かべるのであった。

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