名探偵の敗北

 探偵の職にある者が、手ごわい犯罪者を捕えた時の喜悦は、常人の想像にも及ばない。その喜悦のあまり、彼がつい気をゆるし過ぎてしまったとしても、あながち無理ではなかった。

「黒トカゲ」は敗北にうちひしがれながらも、持ち前の鋭い頭脳をびんしように働かせて、この窮地を脱する計画を思いめぐらした。そして、とっさのまに一つの冒険を思い立ったのだ。

 彼女はやっと引きつった表情をやわらげ、明智探偵を笑い返すことができた。

「で、どうしようっていうの? 僕を捕縛しようとでも思っているの? ホホホホホ、それはちっと、虫がよすぎやしなくって?」

 なんという傍若無人。かよわい女の身で、味方は一人、相手は、病人同然の早苗さんを除いても、屈強の男が四人、その中には制服いかめしいおまわりさんもまじっているではないか。

 逃げ路はたった一つ、廊下に通ずるドアしかない。しかもそのドアの前には、今はいってきたばかりの明智の部下と警官とが、通せんぼうをして立ちはだかっている。窓から飛び出そうにも、ここは階上だし、そのそとは、グルッと建物でかこまれた内庭なのだ。一体全体、彼女はどんな方法で、この窮地を脱するつもりなのだろう。

「つまらない虚勢はよしたまえ。さあ、警官、この女をお引き渡しします。遠慮なく縄をかけてください。これが今度の誘拐団の主犯です」

 明智は「黒トカゲ」の挑戦を黙殺して、入口の警官に言葉をかけた。

 よく事情を知らない警官は、この美しい貴婦人が犯人と聞いて、面くらったように見えたが、捜査課で信用のあつい明智の顔は見知っていたので、いわれるままに、緑川夫人のそばに近づこうとした。

「明智さん、右のポケットをさわってごらんなさい。ホホホホホ、からっぽじゃなくって」

 緑川夫人の「黒トカゲ」が、近づく警官をしりにかけながら、かん高く叫んだ。

 明智はハッとして、思わずそのポケットへ手をやった。ない。確かに入れておいたブローニングがない。女賊「黒トカゲ」は指先の魔術にもたけていたのだ。さいぜん、寝室での騒ぎのあいだに、用意周到にも、明智のポケットから、そのピストルをちゃんとぬき取っておいたのだ。

「ホホホホホホ、明智さん、スリの手口もご研究にならなくっちゃだめだわ。あなたの大切のもの、ここにありますのよ」

 女賊はにこやかに笑いながら、洋服の胸から小型のけんじゆうをつまみ出してキッと前に構えた。

「さあ、皆さん、手をあげてくださらない。でないと、あたしだって、明智さんにおとらない射撃の名手なのよ。それにあたし、人間の命なんて、なんとも思ってませんのよ」

 今一歩で彼女に組みつこうとしていた警官が、立ち往生をしてしまった。

 残念なことには、誰も飛び道具を持っているものはなかった〔注、そのころの警官はピストルを持たされていなかった〕。

「手を、さあ、手をあげなっていったら」

「黒トカゲ」は眼をすえて、あかい唇をなめながら、男たちに向かって次々と筒口を向けて行った。引き金にかけた白い指が、今にもギュッと力を入れそうに、ブルブルふるえている。

 彼女の殺気ばしった、というよりは一種気違いめいた表情を見ると、いわれるままに手をあげないではいられなかった。大の男が意気地のない話だけれど、警官も、明智の部下も、岩瀬氏も、名探偵明智小五郎さえも、ばんざいを中途でやめたようなかつこうをしないわけにはいかなかった。

 緑川夫人は(その時も例の黒ずくめの洋服であったが)あだ名の「黒トカゲ」そっくりの素早さで、サッとドアのそばへけ寄った。

「明智さん、これが、あんたの第二の失策よ。ほら」

 言いながら、あいている左手をうしろにまわして、さっき明智がドアをあけた時、かぎあなに差したままにしておいた鍵を抜き取ると、キラキラと顔の前で振って見せた。

 まさかこんなことになろうとは想像もしなかったので、あわただしい折りから、明智はなんの気もなく鍵をそのままにしておいたのだが、それを見のがさず、とっさに利用することを考えついた女賊の知恵のするどさ。

「それから、お嬢さん!」

 彼女はもうドアをあけて、片足を廊下にふみ出しながら、しかしピストルは油断なく構えたまま、今度は早苗さんに声をかけた。

「あんたはほんとうにかわいそうだと思うけど、日本一の宝石屋の娘さんに生まれついたのが不運とあきらめてね。それに、あんたは、あんまり美し過ぎたのよ。僕は宝石もご執心だけど、宝石よりも、あんたのからだがほしくなった。決して断念しないわ。ねえ、明智さん、僕は断念しないよ。お嬢さんは改めてちようだいに上がりますよ。じゃ、さよなら」

 バタンとドアがしまって、そとからカチカチと鍵をかける音。早苗さんと四人の男とは、部屋の中へとじこめられてしまった。鍵は一つしかない。それを持ち去られたのでは、ドアをたたき破るか、高い窓から飛び降りるほかに、ここを脱け出す方法はない。

 だが、たった一つ、電話という武器が残っている。

 明智は卓上電話に飛びついて、交換台を呼び出した。

「もしもし、僕は明智、わかったね。大急ぎだよ。ホテルの出口という出口に見張りをさせてくれたまえ、そして、緑川夫人、緑川夫人だよ。あの人がいま外出するから、つかまえるんだ。重大犯人だ。どんなことがあっても逃がしちゃいけない。早く、支配人やみんなにそういってくれたまえ。いいかい。ああ、もしもし、それからね、ボーイにね、岩瀬さんの部屋へ合鍵を持ってくるようにいってくれたまえ。これも大急ぎだよ」

 電話をかけ終ると、明智は地だんだをふむようにして、部屋の中をったり来たりしていたが、また、せっかちに受話器を取った。

「もしもし、さっきのこと、うまくやってくれたかい。支配人にそういってくれたかい。ウン、よしよし、それでいい。ありがとう。じゃ、ボーイに合鍵を早くって言ってくれたまえ」

 それから、彼は岩瀬氏の方に向き直っていうのだ。

「ここの交換手はなかなか気が利いている。手早く計らってくれましたよ。出口という出口には見張りがついたそうです。あの女がいくら早く走っても、ここから階段までは相当距離があるんだし、階段を降りて出口までもなかなか遠いのだから、多分、ええ、多分大丈夫ですよ。まさかあの有名な緑川夫人を見知らない雇人はいないでしょうからね」

 だが、この明智の機敏な手配それ自身が、またしても一つの失策であった。

「黒トカゲ」は大急ぎで階段を降りると、実に意外にも、出口に向かおうとしないで、自分の部屋へはいってしまった。

 三分間、かっきり三分間であった。

 再び彼女の部屋のドアがあくと、そこから一人の意外な青年紳士が出てきた。恰好のいいソフト帽、はでな柄の背広服、気取った鼻目がね、濃い口ひげ、右手にはスネークウッドのステッキ、左手にはオーバーコート。

 これがわずか三分間の変装とは、お染の七化けもはだしの早業、魔術師と自称する「黒トカゲ」でなくてはできない芸当だ(そういう変装用の服装は、いつも旅行かばんの底に用意されていたのだ)。その上、なんとまあ抜け目のないことには、トランクの中の宝石類は、一つもあまさず、その背広服のポケットにおさまっていたのである。

 青年紳士は廊下の曲がり角で、ちょっとちゆうちよした。表からにしようか、それとも裏口からにしようかと。

 その時分にはもう、合鍵が間に合って、明智たちは階下へ降りていたが、まさか表玄関から逃げ出しもしまいと、その方は支配人にまかせ、手分けして幾つかの裏口の見張りをしていたのだが、「黒トカゲ」は早くもそれと察したのか、大胆不敵にも、胸を張り、ステッキを振りながら、靴音も高く表玄関を通ってそとに出た。

 そこには、支配人をはじめ三人のボーイが、ひどく緊張して見張り番を勤めていたのだけれど、なにをいうにも百人に近い泊まり客、そこへそれぞれそとからのお客様があるのだから、一人一人の顔を見覚えているわけではないし、それに、目ざすは緑川夫人と、女客ばかりを注意していたものだから、ニッコリえしゃくして通り過ぎたこの青年紳士を、まさかそれとは思いもよらず、「どうもお騒がせいたしまして」と、丁寧にお辞儀までして、送り出したのであった。

 青年紳士は、玄関の石段をコツコツ降りると、おひろいで、口笛など吹きながら、ゆっくりと門のそとへ歩いて行った。

 ホテルの塀にそって、薄暗いペーブメントを、少し行った所で、煙草を吹かしながら様子ありげにたたずんでいる一人の洋服男に出会った。

 青年紳士はなに思ったのか、いきなり男の肩をポンと叩いて、快活にいった。

「やあ、君はもしや明智探偵事務所のかたじゃありませんか。なにをぼんやりしているんです。今ホテルでは賊が捕まったといって大騒ぎですよ。早く行ってごらんなさい」

 すると、案のじょう、その男は明智の部下であったと見えて、

「人違いじゃありませんか。明智探偵なんて知りませんよ」

 とさすがに用心深い返事をしたが、こつけいにも、言葉と仕草とはうらはらに、青年紳士が二、三歩行くか行かないうちに、もうアタフタとホテルの方へ駈け出していた。

「黒トカゲ」は、クルリと廻れ右をして、そのうしろ姿を見送ったが、こみ上げてくるおかしさに、ついわれを忘れて、

「ウフフフフフフフ」

 と、無気味な笑いをもらすのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る