黒蜥蜴

江戸川乱歩/カクヨム近代文学館

暗黒街の女王

 この国でも一夜に数千羽の七面鳥がしめられるという、あるクリスマス・イブの出来事だ。

 帝都最大のいんしん地帯、ネオン・ライトの闇夜の虹が、幾万の通行者を五色にそめるG街、その表通りを一歩裏へ入ると、そこにこの都の暗黒街が横たわっている。

 G街の方は、午後十一時ともなれば、夜の人種にとってはまことにあっけなく、しかし帝都の代表街にふさわしい行儀よさで、ほとんど人通りがとだえてしまうのだが、それと引き違いに、背中合わせの暗黒街がにぎわい始め、午前二時三時頃までも、男女のあくなき享楽児どもが、窓をとざした建物の薄くらがりの中に、ウヨウヨとうごめきつづける。

 今もいうあるクリスマス・イブの午前一時頃、その暗黒街のとある巨大な建物、外部から見たのではまるで空家のようなまっ暗な建物の中に、けたはずれな、狂気めいた大夜会が、今、最高潮に達していた。

 ナイトクラブの広々としたフロアに、数十人の男女が、る者はさかずきをあげてブラボーを叫び、或る者はだんだら染めのとんがり帽子を横っちょにして踊りくるい、或る者はにげまどう小女をゴリラのかつこうで追いまわし、或る者は泣きわめき、或る者は怒りくるっている上を、五色の粉紙が雪と舞い、五色のテープが滝と落ち、数知れぬ青赤の風船玉が、むせかえる煙草のけむりの雲の中を、とまどいをしてみだれ飛んでいた。

「やあ、ダーク・エンジェルだ。ダーク・エンジェルだ」

「黒天使の御入来だぞ」

「ブラボー、女王様ばんざい!」

 口々にわめく酔いどれの声々が混乱して、たちまちきゆうさんの拍手が起こった。

 自然に開かれた人垣の中を、浮き浮きとステップをふむようにして、へやの中央に進みでる一人の婦人。まっ黒なイブニング・ドレスに、まっ黒な帽子、まっ黒な手袋、まっ黒な靴下、まっ黒な靴、黒ずくめの中に、かがやくばかりのぼうが、ドキドキと上気して、赤いばらのように咲きほこっている。

「諸君、御機嫌よう。僕はもう酔っぱらってるんです。しかし、飲みましょう。そして、踊りましょう」

 美しい婦人は、右手をヒラヒラと頭上に打ち振りながら、可愛らしい巻舌で叫んだ。

「飲みましょう。そして、踊りましょう。ダーク・エンジェルばんざい!」

「オーイ、ボーイさん、シャンパンだ、シャンパンだ」

 やがて、ポン、ポンと花やかな小銃が鳴りひびいて、コルクの弾丸が五色の風船玉をぬって昇天した。そこにも、ここにも、カチカチとグラスのふれる音、そして、またしても、

「ブラボー、ダーク・エンジェル!」

 の合唱だ。

 暗黒街の女王のこの人気は、一体どこからわいて出たのか。たとえ彼女の素姓は少しもわからなくても、その美貌、そのズバぬけたふるまい、底知れぬぜいたく、おびただしい宝石の装身具、それらのどの一つを取っても、女王の資格は十分すぎるほどであったが、彼女はさらにもっともっとすばらしい魅力をそなえていた。彼女は大胆不敵なエキジビショニストであったのだ。

「黒天使、いつもの宝石踊りを所望します!」

 だれかが口を切ると、ワーッというドヨメキ、そして一せいの拍手。

 片隅のバンドが音楽を始めた。わいせつなサキソフォンが、異様に人々の耳をくすぐった。

 人々の円陣の中央には、もう宝石踊りが始まっていた。黒天使は今や白天使と変じた。彼女の美しく上気した全肉体をおおうものは、二筋の大粒な首飾りと、見事なすいの耳飾りと、無数のダイヤモンドをちりばめた左右のうでと、三箇の指環のほかには、一本の糸、一枚の布切れさえもなかった。

 彼女は今、チカチカと光りかがやく、桃色の一肉塊にすぎなかった。それが肩をゆすり、足をあげて、エジプト宮廷の、なまめかしき舞踊を、たくみにも踊りつづけているのだ。

「オイ、見ろ、黒トカゲがい始めたぜ。なんてすばらしいんだろ」

「ウン、ほんとうに、あの小さな虫が、生きて動きだすんだからね」

 意気なタキシードの青年がささやき交わした。

 美しい女の左の腕に、一匹の真黒に見えるトカゲが這っていた。それが彼女の腕のゆらぎにつれて、吸盤のある足をヨタヨタと動かして、這い出したように見えるのだ。今にもそれが、肩からくび、頸からあご、そして彼女の真赤なヌメヌメとした、唇までも、這いあがって行きそうに見えながら、いつまでも同じ腕にうごめいている。真にせまった一匹のトカゲの入墨であった。

 さすがにこの恥知らずの舞踊は四、五分しかつづかなかったが、それが終ると、感激した酔いどれ紳士たちが、ドッと押し寄せて、何か口々に激情の叫びをあげながら、いきなり裸美人を胴上げにして、お輿こしのかけ声勇ましく、室内をグルグルとまわり歩いた。

「寒いわ、寒いわ、早くバス・ルームへつれて行って」

 御託宣のまにまに、御輿は廊下へ出て、用意されたバス・ルームへと練って行った。

 暗黒街のクリスマス・イブは、この婦人の宝石踊りを最後の打ちどめにして、人々はそれぞれの相手と、ホテルへ、自宅へ、三々五々帰り去った。

 お祭りさわぎのあとの広間には、五色の粉紙とテープとが、船の出たあとの波止場のように、きたならしく散りしいて、まだ浮力を残した風船玉が、ちらほらと、天井を這っているのも物さびしかった。

 その舞台裏のように荒涼とした部屋の、片隅の椅子に、一かたまりのボロくずみたいに、あわれに取り残されている若者があった。肩の張った派手なしまのサック・コートに赤いネクタイ、どこやらきざな風体の、けんとう選手のように鼻のひしゃげた、筋骨たくましい、一くせありげな男だ。それが、ふうさいに似合わず、クシュンとしおれかえってうなだれているものだから、ついボロ屑にも見えたのだが。

(人の気も知らないで、何をグズグズしてるんだろうなあ。こっちあ、命がけのどたん場なんだぜ。こうしているうちにも、デカがふみこんで来やしないかと、気が気じゃありゃしねえ)

 彼はブルブルと身ぶるいしてモジャモジャの髪の毛を五本の指でかきあげた。

 そこへ制服を着た男ボーイが、テープの山をふみ分けて、ウイスキーらしいグラスを運んできた。彼はそれを受け取ると、「おそいじゃねえか」と叱っておいて、グッといきにあおって、「もう一つ」とお代わりを命じた。

「潤ちゃん、待たせちゃったわね」

 そこへやっと、若者の待ちかねていた人が現われた。ダーク・エンジェルだ。

「うるさい坊っちゃんたちを、うまくまいて、やっと引き返してきたのよ。さあ、あんたの一生に一度のお願いっていうのを聞こうじゃありませんか」

 彼女は前の椅子に腰かけて、まじめな顔をして見せた。

「ここじゃだめです」

 潤ちゃんと呼ばれた若者は、やっぱり渋面を作ったまま、沈んだ調子で答える。

「人に聞かれると悪いから?」

「ええ」

「クライム?」

「ええ」

「傷つけでもしたの」

「いいや、そんなことならいいんだが」

 黒衣婦人は、のみこみよく、それ以上は聞かないで立ちあがった。

「じゃ外でね。G街は地下鉄工事の人夫のほかには、人っ子一人通ってやしないわ。あすこを歩きながら聞きましょう」

「ええ」

 そしてこの異様な一対は、みにくい赤ネクタイの若者と、目ざめるばかり美しい黒天使とは、肩を並べて建物を出た。

 外は街灯とアスファルトばかりが目立つ、死にたえたような深夜の大道であった。コツコツと、二人の靴音が一種の節を作ってひびいていた。

「一体どんな罪を犯したっていうの。潤ちゃんにも似合わない、ひどいしょげかたね」

 黒衣婦人が切り出した。

「殺したんです」

 潤ちゃんは、足下を見つづけながら、低い無気味な声で言い切った。

「まあ、だれをさ」

 黒天使は、この驚くべき答えに、さして心を動かした様子もなかった。

いろがたきをです。北島の野郎と咲子のをです」

「まあ、とうとうやってしまったの……どこで?」

「やつらのアパートで。がいは押入れの中に突ッこんであるんです。あすの朝になったら、ばれるにきまってます。三人のいきさつは、みんなが知っているんだし、今夜あいつたちの部屋へはいったのは僕だということが、アパートの番人やなんかに知れているんだから、捕まったらおしまいです……僕はもう少ししゃばにいたいんです」

「高飛びでもしようっていうの」

「ええ……マダム、あんたはいつも、僕を恩人だといってくれますね」

「そうよ。あの危ない場合を救ってもらったのだもの。あれからあたし、潤ちゃんの腕っぷしにほれこんでいるのよ」

「だから、恩返しをしてください。高飛びの費用を、千円ばかり僕に貸してください」

「それは、千円ぽっちわけないことだけれど、あんた、逃げおおせると思っているの。だめよ。横浜か神戸の波止場でマゴマゴしているうちに、捕まってしまうのが落ちだわ。こんな場合に、を食って逃げ出すなんて愚の骨頂よ」

 黒衣婦人は、さも、そういうことには慣れきっているような口ぶりであった。

「じゃあ、この東京にかくれていろっていうんですか」

「ああ、まだしもその方がましだと思うわ。しかし、それでもあぶないことはあぶないのだから、もっとうまい方法があるといいんだけれど……」

 黒衣婦人はつと立ち止まって、何か思案をしている様子であったが、突然妙なことをたずねた。

「潤ちゃんのアパートの部屋は、五階だったわね」

「ええ、だが、それがどうしたというんです」

 若者はいらいらして答えた。

「まあ、素敵だ」美しい人の唇から、びっくりするような声がほとばしった。「うまいことがあるのよ。まるで申し合わせでもしたようだわ。ねえ、潤ちゃん、あんたまったく安全になれる方法があるわ」

「なんです、それは。早く教えてください」

 黒天使は、なぜかえたいの知れぬ薄笑いを浮かべて、相手の青ざめた顔をじっとのぞきこみながら、一語一語力を入れて言った。

「あんたが死んでしまうのよ。雨宮潤一という人間を殺してしまうのよ」

「え、え、なんですって?」

 潤一青年は、あっけにとられて、ポカンと口をあいて、暗黒街の女王の美しい顔をみつめるばかりであった。

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