赤い土の国

@koukou1

赤い土の国

 「ああ、来てしまった、、」

空港の到着ゲートをくぐると、大きな窓から外が見えた。

南国の抜けるような空の青さを予想してい

たのに、空は薄暗く重く広がっていた。

それでも、窓ガラスを通り抜けて照りつける太陽の強さと眩しさが、ここは日本ではないことを私に教えてくれた。

数年前、内戦が勃発し政情不安が続いていたこの国に、世界中から支援の手が差し伸べられた。私の彼は人道支援を目的とする国際機関から、数か月前にこの国に派遣されていたのだった。

その派遣は突然だった。

 学生の時に付き合い始めた彼とは、婚約を

済ませ結婚を目前にしていた。

「おれ、やっぱり行きたい」

と打ち明けられた時は、目の前がグラグラし

た。

学生の頃から社会問題に関心を持っていた

彼は、ボランティアや社会貢献活動に参加し、

日本だけでなく海外にも何度も行っていた。

就職を機に活動をやめたと思っていた私は、彼が活動にまだ未練を持っていたことに驚いた。そして、彼の気持ちに気づけなかった自分のうかつさを思い知らされたのだった。

理由はどうであれ、それは相談ではなく事後報告だった。もうすでに派遣先は決定し、出国を待つばかりだったのだ。

呆然としている私に構うことなく、同棲していたアパートを解約し実家に荷物を送り、彼はあっけないほどすぐに異国に飛び立っていった。

「じゃ。」

あっさりと言えば聞こえがいいが、あっさりにもほどがあるだろうと内心思いながら、お互い涙も見せず、目も合わせないようにして別れたのだった。

それからは睡眠不足になりながら、深夜の海外ニュースを見るのが日課となった。内戦

が続き、銃撃戦があった、地雷が爆発したと

いったニュースを聞く度に、不安で眠れなかった。だからといって気軽に国際電話をするには回線は不安定で、国際電話料金もおそろしく高額だった。情報不足と連絡不足が私を苦しめた。

 不眠が続くある夜、派遣後、初めて彼から国際電話がかかってきた。

 受話器に耳をかぶせるようにして、音声が悪く途切れがちの声を必死に聞き取ると、休暇が取れたので遊びに来いという。

あんまりうれしくて、後先を考えずに行くと即答してしまった。日程と待ち合わせの場所を何とか聞き取ると、すぐに電話は切れた。

 安全なのか、仕事は大丈夫なのか。

 聞きたいことは山のようにあったのに、どうしてすぐに切ったのだと恨めしい気持ちで受話器を見ているうちに、現実に引き戻された。国内旅行に行くのとはわけが違い、危険な異国への旅だということに気がついたのだ。

こんな適当な約束で大丈夫なのかと不安に

なったが、彼に会える喜びの方が勝った。私は、その不安を無理やり脇に押しやった。

翌日、フライトを予約し職場に休暇届を出した。スーツケースには彼が喜ぶだろう、日本食やテレビ番組のDVDなどをぎっしりと詰め込んだ。

親には心配をさせないように、友人と国内旅行に行くとうそをついた。それほど民間人が旅行に行くには、不安定で危険な国だった。

出国の日、深夜便に搭乗する為に重いスーツケースを引きずり到着した飛行場は、暗く閑散としていた。その暗さとさみしさが、今からの旅を示しているようだった。

やっと座ったエコノミーの座席は、両側を外国人に挟まれて窮屈だった。隣の席の男性の外国人がにぎやかに話しかけてくる。私の貧弱な英語から理解するに、この男性はアメリカ人でツアー旅行中であるらしい。

 深夜を過ぎているにも関わらず、お仕着せ

がましい機内食が出される。眠気で、とても食べる気にはなれない。見るからに固そうなチキンが、食欲をさらに失わせる。隣のアメリカ人は喜々として食べながら、私にも食べろとしきりに勧めてくる。何とか半分を食べ終わると、コーヒーを飲めとまた勧めてくる。断れずに、眠りたいのに飲む。

 他の乗客が楽しそうにしゃべっている。不安のない旅をうらやましく思っているうちに、ウトウトと眠ってしまった。

到着のアナウンスが流れて目が覚めた。隣のアメリカ人がここでお別れだねという。そう言われると、ひとりぼっちで異国に立つことが急に不安になった。それに何だか、別れがたい気持ちになるのはなぜだろう。

 狭い機内をにぎやかにアメリカ人たちが降りてゆく。その後ろを私は眠い頭でついていった。いつの間にかアメリカ人達とはぐれた私は、一人きりになった。

 搭乗ゲートをくぐり、生まれて初めて私は

この国に降り立った。

やけに甘ったるい、フニャフニャした耳慣れない言葉が漂っている。

同じアジアの国なのに、明らかに日本人とは異なる色濃く彫りの深い人々が集まって、何やら熱心に話している。

どこからか、日本では感じたことのない、鼻を刺激する香りが体にまとわりついてくる。

私は本当に異国に来たんだなぁと、ぼんやりとした頭で考える。

そして、この国では彼以外の知り合いはおらす、言葉も全く通じないことに気がつくと、急に不安になった。

彼には国際電話で飛行機の到着時間を伝えていたが、その後は連絡がつかず、確認ができなかったことが悔やまれた。

それでも約束通り、到着ロビーのベンチに座って彼を待つことにした。

不安にならないよう、彼に会ったら何を話

そう、彼は私に何を言ってくれるだろうかと

考えるようにしているうちに眠くなってきた。

異国で、しかも決して治安の良くないこの

国の空港ロビーで、スーツケースをかたわらにウトウトすることは危険極まりないと、のんきな私でも分かる。

それでも眠気は襲ってくる。漂う異国の言葉が余計に眠気を誘う。

だめだ、寝ちゃだめだと眠気と戦いながら、いつの間にか、寝てしまっていた。

目が覚めて気がつくと、一時間近くが過ぎていた。

どうして彼はまだ迎えにこないのだろう。

テロ、地雷、銃撃、嫌なことばかり頭に浮かぶ。彼に何かあったら、どうしよう。

それに迎えに来てくれなければ、私はこの

国で一人ぼっちだ。言葉も通じず、彼のオフィスも分からなければ、日本に帰る航空券の手続きも分からない。両替さえ自力でできるか疑問だ。今ならネットで検索すれば何とか方法を見つけることができるだろうが、内戦

で荒れたこの国ではネットの普及も遅れてい

た。今では考えられないような、不便な時だったのだ。

 考えれば考えるほど、不安は募る。

 旅行の約束をした時に感じた不安が、現実になったのだ。あぁ。

 ロビーでじっとしていることに耐えられなくなった私は、重いスーツケースを引きずって空港の出口に向かった。

 まぶしい日差しに目を細めながら空港の外に出ると、赤茶色の土がむき出しになった道が続いていた。

 日本では見たことのない、その赤茶色の土が、ここは異国なのだと私に言っているよう

に感じた。

ひび割れた石段の上に腰を下ろして、見るともなしに周りを見る。人々が赤茶色の道を埋め尽くしながら動いている。広くもない道の両側には今にも崩れそうで崩れずに立っている露店が並び、その脇には本当に動くのか

と疑問に思うほどの古びた車が並んでいる。

 どうやらタクシーらしい。顔を向けたとたん、運転手と思われる男達と目が合う。恐ろしいほどの鋭い目つきで睨まれる。お客を逃がすまいとするからなのだろうか、とにかく迫力が伝わってくる。

 声をかけられては大変と、すばやく目を背けた私に、彼らは興味を失ったようで、どこかに連れだって行ってしまった。

 ホッとした私は、いつ来るとは知れぬ彼を待つことにした。どうせ待つ以外、できる事も、行く当てもないのだ。

 しばらくすると赤茶色の道の向こうから、人並みと逆行してボロボロのトラックが一台、こちらに向かってくるのに気が付いた。

もとは白い車体であっただろうと、辛うじて分かるくらいに、赤茶色の土で汚れている。

それにおそろしく年季もいっている。

 どこからか、あふれ出てくる人々と荷車の流れに何とか逆らいながら、トラックはノロ

ノロとこちらに進んでくる。というより、二、

三メートル進んでは、人々に遮られて止まっている。まるで人と荷車の波に、翻弄されて漂うしかない難波船のようだ。

おまけに舗装されていない道のそこかしこにある穴や水たまりに、タイヤを取られているのだろう、車体が大きく右に左に何度も揺れている。

 何をしてるんだか。

 いったい、どんな人が運転しているんだろうかと目を凝らした。

 驚いたことに運転していたのは彼だった。

 あふれる群衆や荷車をよけようと、必死に前を見ている。時折、どいてどいてと言うように片手を振っている様子も見える。何だか、必死だ。残念ながら彼らには全く無視されていたが。

 困ったような照れたような。それでいて、ちょっと情けないような表情。

 あの表情。日本でいつも見ていたあの表情

が、私は大好きだった。

 彼の優しさと普段は隠している心の中を表しているように、私には思えたからだ。

 私は車の中の彼を見つめたまま、動けなかった。

 ギシギシときしみながらトラックが私の横でやっと止まった。

運転していたのは紛れもなく、彼だった。

私に気がついた彼は、運転席からぴょんと降りてきた。

「すまん、すまん。道が混んでいて進めなか

った」と照れながら私に言う。

これが数か月ぶりの再会の言葉だった。

どこか抜けていて、それでいて思いやりのある彼の声。

その声を聞き、私は彼に会いにこの国まで来たのだと、やっと実感した。そして、これで異国の夜をひとりで越さずにすむという

安堵の気持ちにも満たされた。

 少し落ち着くと、トラックに目が行った。

「大丈夫。ちゃんと動くからね」

言い訳めいた説明を聞きながら、私は車に乗り込んだ。車内も車体に負けないくらいに汚れていた。湿った赤茶色の土でザラザラのシートを気休めに手で払って座った。

 ホテルに向かう道も空港前と同じように、赤茶色でガタガタだった。

助手席から群衆がよく見えた。彼らはトラックが通り過ぎる度にじっと、こちらを見る。

運転しているのが、外国人だと気づいているようだ。彼らの目から、うらやましさや憧れだけではなく、国際支援を受けるしかない立場であることや外国人の特権への妬みなどが感じられた。

 それに何より、貧しかった。日本人である私には想像もできないほどの貧しさに目を瞠った。貧しさからは、悲しみや諦めだけでなく、生きるしかないという激しいパワーが伝わってきた。

 私は赤茶色の土を眺めながら、複雑で困難

なこの国の状況を考えざるを得なかった。

 帰国までの二日間、危険だと言うので観光はできなかった。ホテルと彼のオフィスの周りが異国の旅の全てだった。彼が予約してくれたホテルは、海外資本のチェーンホテルだった。国際支援や報道の関係者も宿泊する、非武装地帯として見なされた唯一の場所だった。そこだけが、周りの貧しい集落とは別世界だった。発展と破壊。貧困と富。世界のいびつさや格差を現しているようだった。

ホテルの窓から異国の光景を見ながら、私は彼がなぜ、この国へ来たのかを考えていた。

 優しくて穏やかな彼は反面、正義感と言えば大げさかもしれないが、弱い者いじめや世の中の不公平、不正を許せない性格だった。

特に戦争や貧困といった理不尽な理由で苦しむ人々を見過ごせなかった。黙っていられないといった方がいいかもしれない。

そして気持ちだけでなく行動する人だった。

 この国で銃撃戦に巻き込まれそうになった

時も、爆発した地雷の大きな穴に落ち込んだ

時も、押し寄せる群衆に石を投げられた時も。

どんなに危険で命が危険にさらされても、彼にはこの国を去るという考えはなかった。

そこには彼の性格だけでなく、理不尽な現実に打ちのめされ何ともできない、自分の無力さへの苛立ちもあるのかもしれない。

 そんな彼の性格とこの国の現実が、彼をとらえて離さないのだろうか。

 とうとう帰国の日になった。

ホテルから飛行場までの道を、来た時と同じように彼はトラックで送ってくれた。相変わらず、道はガタガタで車体は盛大に揺れた。

滞在中も帰国するという時になっても、彼は将来のことも私たちのことも、一言も話してはくれなかった。私も言い出さなかった。

 この旅を機会に、危険な任務をやめて帰国してほしいと私は話をするつもりだった。

でもこの国に来て彼の気持ちを考えてしまうと、何も言うことは出来なかった。

私は赤茶色の土の上に広がる異国の空を見

上げて、そっとため息をついた。

 私が帰国してからも、相変わらず彼からの連絡はなかった。毎晩、海外ニュースを見て、紛争や地雷の爆発で日本人が巻き込まれていないかと確認することしか出来なかった。

こんな状態がいつまで続くのかと、気持ちはどんどん落ち込んでいった。

 ある日、昼休みが終わり事務所に戻ってくると外線電話に出るよう言われた。実家で何かあったのかと、気になりながら電話に出た。

「よう。久しぶり。元気か。」

 彼の声だった。

 受話器を握り締め、私は棒立ちになった。

返事をすることも動くことも出来なかった。

「もしもし。聞いてる。あれっ。電話、切れたか」

彼の声だった。本当に彼の声だと分かった

私は、我に返った。

「えっ。どうしの。何かあったの。どこにい

るの。無事なの」

事故や病気で連絡してきたのかと、一気に不安が胸に広がる。

「いや。大丈夫。帰ってきたから、君に会おうと思って」

「えっ。帰ってきたって、日本に。今、日本にいるの」

信じられない気持ちで私は混乱した。彼の帰国を夢にまで見たというのに、彼の言葉が理解出来なかった。

「うん。ほんと。帰ってきた。日本。任期が終わった。仕事が終わったら、会えるかな。」

彼の言葉を聞くだけで、返事ができない私に、

「忙しかったら、また別の日にでも」

その言葉を聞いたとたん、今、返事をしないとまた会えなくなるのはないかと、激しい不安に襲われた。慌てて、

「大丈夫。六時には行けるから。絶対に待っ

ていて」

後ろにいる事務所のみんなが耳をそばだて

て聞いているのが分かったが、気にしてはい

られなかった。この電話が切れたら、約束をしなければ、二度と彼には会えないかもしれない。その不安は、長く離れていた私にとって切実なものだった。

 終業時間をイライラしながら待ち、大急ぎで駅に向かった。

 本当に彼はいるのか。電話は私の幻覚や幻聴ではなかったのではと、頭の片隅で考えてしまう。それでも、現実かもしれないという望みが私を駅に走らせた。

「よう」

 改札口に立っていた彼は、片手を上げて私に言った。

 いつものように、少し照れくさそうな笑顔だった。あの国で会った時より、少し痩せていて、周りの誰よりも日に焼けていた。

 その姿を見た途端、私は立っていられなくなった。

 目を閉じ口を押さえ、膝から崩れ落ちた。

帰宅ラッシュの駅の人混みの中で、しゃがみ

こんだ私は大声で泣いてしまった。

 驚いて私の側に駆け寄った彼は

「ごめん。すまんかった。」と小さく言った。

その夜、泊まったホテルの窓から見える、都会の高層ビル群の夜景を彼は飽くことなく眺めていた。

「日本ってすごいな。こんなビルがいくつも建っているなんて」静かに彼は言った。

 日本が素晴らしいというより、日本はこれでいいのか、自分がいていいのか、という疑

問が口から出た、というように感じた。

 何だか、疲れた、物哀しい顔が気になった。

 翌朝、出勤しなければならない私は、このまま別れたらもう、会えなくなるのではないかと、また激しい不安に襲われた。

「今日は、仕事、休んで一緒にいようかな」

心の中で彼と会えなくなるなら、仕事を辞めてもいいとさえ思っている自分がいる。

「いや。今日は、仕事の話をしに財団にいく

んだ。無職じゃ生活できないからね。夕方、

また会おうよ」

彼は無職で帰国したが、派遣先の財団から就職先を紹介されているのだという。

「だから、これから、一緒にいような。」

何を言っているか、分からない。

「俺、ちゃんと日本で働くから。もう、心配かけないから」

「ほんとに。もう、海外はいいの」

「うん。もう、できることはしたし。任期も終わったし」

彼の言葉をそのまま、受け取れない。彼に海外への未練が残っているのではないかという、不安があるからだ。

「私はうれしいけど、ほんとにいいの」

「うん。君に心配ばかりかけたし。もう、海外で好きなことするんじゃなくて、落ち着く時期が来たと思う。」

「だから、結婚、ちゃんとしよう」

信じられない気持ちでその言葉を聞いてい

た私に、彼は婚約指輪を出した。

そして、私の指にはめながら

「長い間、待たせてすまんかった」と言った。

寝起きでむくんだ顔が、涙でもっとぐちゃぐちゃになった。

 彼は言葉通り、紹介された会社で働き始めた。仕事に必要だと車を買い、マンションを借りる為に、一緒に不動産屋を周った。

そんなことでさえ、私にとっては夢のようで心が満たされた。

 「日本の道路って本当にすごいな。道がまっすぐで穴がない。どんなにすごいことか分かるか」運転すると彼はよく言った。悪路を泥だらけのトラックで走っていた、あの頃を思い出しているのが分かる。

 そんな時の彼を見ていると、異国に気持ちを残してきたのではないかと思ってしまう。

そして危険な国にまた行きたいと言うので

はないかと、不安を感じてしまうのだった。

でもどうすることも私には出来なかった。 私はただただ、安堵していたのだ。大切な人の命の心配をしなくていいということは、何と得難く有難いことなんだろうと。

銃撃戦や地雷を心配しなくてもいい生活を彼と一緒におくれるのだから。

 彼は仕事にも慣れ、上司や同僚に婚約者として私を紹介した。気恥ずかしかったが、彼が周りの人に、私との将来に責任を持つと宣言しているようで嬉しかった。

そして幸せを感じた。これが幸福というのだろうかと。

 だが、彼は少しずつ変わっていった。感情が表情に出なくなり、何を聞いても話しかけても、返事をすることがなくなっていった。

 何度も何度も呼びかけると、驚いたように

「何か言ったか」と低い声で言うだけだった。

 私は嫌な予感がした。

海外で自国と異なる文化や環境にふれ、生死の危険に直面する体験をした人の中には、

帰国しても、もとの生活に戻ることが出来な

い場合がある。帰国もせず、根無し草のように異国で漂う人生を選ぶ人さえいるのだ。

 まさに彼はそうだった。

 そんな彼の気持ちに気がつきながら、私はその気持ちを無視しようとした。このまま幸せな二人の生活が続くのだと、自分に信じ込ませようと必死だった。

 でも現実は容赦がない。

 帰国して半年を過ぎた頃だった。夕食を食べ始めようとした時、

「仕事、辞めるから。また海外に行く。現地の知り合いに電話をしたら、仕事を紹介してくれるって言うから。前より規模は小さいけど、もう政情は落ち着いて安全だって言うし」

 あぁ。やっぱり。

 相談ではなく、また事後報告。これで二度目だ。さすがに

「私はどうしたらいいの。結婚はどうするの。」

「うん。また待ってくれるか。悪いけど。海外で一緒に生活は無理だしな。」

「挨拶したのに、なんて言うの」

「俺が説明するよ。俺のわがままだからって」

双方の親には挨拶も顔合わせもすみ、結婚式の日取りを決めるばかりだったのだ。

 二度目の引っ越しをしながら、涙がでた。

私はこうなることを予感していたのに、何もできなかった。だからこそ、あんなにも幸せを感じていたのだろうか。

 彼はすぐに行動した。前回と同様にテキパキと荷物を片付け、退職届を出し引っ越しや渡航手続きを済ませた。彼の実家に荷物を運ぶのも二度目だ。

「ほんとに、いいの。あの子、帰ってこない

かもしれないわ」

母親の鋭い勘なのだろうか。彼の母からの問

いかけに、私は返事をすることが出来なかっ

た。

私の母は彼の説明を聞きながら、渋い顔を

していた。二度目の結婚延期なのだから当た

り前だ。

「もう、諦めなさい。無理だと思うわ」

これも母親の勘なのだろうかと、客観的には彼女たちが正しいのだと分かってはいたが、気持ちがそれを受け入れることを拒んだ。

とうとう出国の日になった。

空港へ向かう列車の中で、私達は無言だった。

 彼の頭の中はもう、異国に飛んでいた。そこに私はいない。私には痛いほど、それが分かり、余計に苦しかった。

「じゃあ」

私を見ないようにして、彼は搭乗口に入って行った。彼は振り返らなかった。すぐに人混みにまぎれて見えなくなった。

離陸する飛行機を見ながら、私はもう、涙も出なかった。

その後、彼からの連絡は途絶えた。

まあ、当たり前かと前回の派遣のことを思い出して諦めていた。そのうち、連絡があるの

を待つしかないのだと。

 だが半年しても連絡がないとさすがに、何かあったのではと心配になってきた。

何とか連絡をしなければと思っていると、彼のお母さんから電話があった。

「あの子から何か連絡はあるの。うちにはまったくないから。あなたのところにはあるかと思って」

「いえ。私にも何もありません。私も長い間、

連絡がないから心配しているんですが、、」

お互い、受話器越しに嫌な沈黙を感じた。

 とにかく明日、私が派遣先の団体に連絡を

することになった。

事故や病気というよりも、彼の中で何かが

あったのではないか。私にはそちらの方が気

になった。

昼休みに、彼から教えられていた派遣先の

団体に連絡をした。

驚いたことに任期はとっくに過ぎて辞めて

いた。辞めた後のことは分からないが、帰国

したのではないかと言うではないか。

 異国で彼は、行方不明となっていた。

 衝撃と、ああやっぱりという落胆が私を襲った。そして私は気がついてしまったのだ。事故などではない。彼の気持ちが理由だと。

 彼に会いたい。

いや、だからこそ、彼に会わなければ。彼の気持ちを知りたいと思った。

 私はまた、一人で異国に行くことを決めた。

 深夜の飛行場は侘しかった。必要最低限の照明しかない暗く陰気な空港は、気分をこれ以上なく滅入らせた。

眠れないフライトを終え、異国に到着した。

前と違い、待ってくれる彼はいない。

タクシーに乗ろうと空港ビルの外に出た。

彼の派遣先に行こうと思った。手掛かりといえば、その程度しか思いつかなかった。

 復興が本格的に始まったことを示している

かのように、露店の間に新しい住宅や店舗が

ポツポツと建っていた。だが、貧しさと赤茶

色の道は相変わらずだった。

 果てのない赤茶色の道を見ていると、彼を探していいのか、彼が探してほしいと思っているのか、私に会いたいと思っているのかさえ、私には分からなくなった。

 もう、彼に私は必要ないのではないか。

 そう考えることが、一番、恐ろしく不安だった。

 気が遠くなりながら、赤茶色の道を眺めた。 

 その時、果てない道の向うから赤茶色の砂埃を蹴立てて、トラックが近付いてきた。

ノロノロと動きが遅いのは、荷台に何か重いものが積まれているのだろうか。

 何だろうと目を凝らすと、揺れるトラックの荷台に乗っていたのは、人だった。

 日に焼けて、泥だらけの服を着た男たちだった。外国資本の土建業に雇われたのだろう。

狭い荷台に何人も詰め込まれ、みな、疲れ果てたように押し黙っていた。

 私は見るともなしに男たちの顔を見た。

 そこに知っている顔があった。

 彼だった。

 真っ黒に日に焼け、痩せこけ、よく見なければ彼と分からないほど、顔つきが変わっていた。

そして、もう日本人とは思えない何かを身にまとっていた。

 私は驚きと衝撃で金縛りにあったように動けなかった。声も出なかった。

早く声をかけなければ、行ってしまうと頭の中では分かっていたが、動くことが出来なかった。

 ただただ、彼を見つめた。目が離せなかった。

 すると、彼は私を見た。

 彼が私に気が付いたことが分かった。

私は息をのんで彼の目を見つめた。

 彼の目には私が映ってはいたが、彼は私を見ているのではなかった。私を通り越して、もっと遠くを見ているのだった。

 そこは私が決してついてゆくことが出来な

い、遠くの世界だった。その世界には私も日本も存在しない。何もない。

その目で分かったのだ。

彼と私には、もう、何も感じることなく、通じ合うものもないのだと。

 そして彼は日本に帰ることはないのだと。

 彼は私から、ゆっくりと視線を外した。

 彼を乗せたトラックはノロノロと走り去り、赤茶色の土煙の中へ消えて行った。


 彼を愛していた。だから遠く、遥か彼方のこの国まで来たのだ。

 でも、もう分からない。

 私は彼を本当に愛していたのか。愛されていたのか。

 日本に帰ればいいのか、彼を探し続ければいいのか。

 見上げた異国の空は、果てなく広がっていた。

 そして巻き上がった土煙が、空を赤茶色に染めていった。

                終り

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