自分のほうゆうがかつてその郷里から寄せた手紙の中に「この間も一人夕方に萱原を歩みて考え申し候、この野の中に縦横に通せる十数のみちの上を何百年の昔よりこのかた朝の露さやけしといいてはで夕の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人やしようようしつらん相にくむ人は相避けて異なる道をへだたりていき相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつつかえりつらん」との一節があった。野原の径を歩みてはかかるいみじき想いも起こるならんが、武蔵野の路はこれとは異なり、相わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然うことがあろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、まつすぐなること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるようなかいの路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじきじつがある。

 武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべきものがある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことによって始めてられる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処にわれらを満足さするものがある。これが実にまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。実に武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。

 されば君もし、一のみちを往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君のつえを立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小なる路を撰んでみたまえ。あるいはその路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地でこけむす墓が四つ五つ並んでその前にすこしばかりの空地があって、その横のほうに女郎おみなえしなど咲いていることもあろう。頭の上の梢で小鳥が鳴いていたら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んでみたまえ。たちまち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開ける。足元からすこしだらだら下がりになりかやが一面に生え、尾花の末が日に光っている、萱原の先が畑で、畑の先に背の低い林がひとむら繁り、その林の上に遠い杉のもりが見え、地平線の上に淡々しい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間にすこしずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮やかに映している。水のほとりには枯れあしがすこしばかり生えている。この池のほとりの径をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。

 もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き大声で教えてくれるだろう。もし少女おとめであったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、ぼうを取っていんぎんに問いたまえ。おうように教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。

 教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれがちかみちだなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解るだろう。

 まつすぐな路で両側とも十分に黄葉した林が四、五丁も続く処に出ることがある。この路を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮やかにかがやいている。おりおり落ち葉の音が聞こえるばかり、あたりはしんとしていかにもさびしい。前にも後ろにも人影見えず、誰にもわず、もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路は落ち葉に埋もれて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、こずえの先は針のごとく細くあおぞらを指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋しい。落ち葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。

 同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない。まさかに行き暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日はの背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪がしだいに遠く北に走って、終わりはあんたんたる雲のうちに没してしまう。

 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身にむ、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯れ林の梢の横に寒い光りを放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、


山は暮れ野は黄昏たそがれすすきかな


の名句を思いだすだろう。

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