どうする家康はどうすれば良かったのか?四話で脱落した私が考える「大河ドラマどうする家康」の問題点
正当な時代劇はもはや大河ではなく朝ドラにある。大河ドラマ「どうする家康」と朝ドラ「らんまん」の比較と「どうする家康」のお市の描き方に対する個人的な考え
正当な時代劇はもはや大河ではなく朝ドラにある。大河ドラマ「どうする家康」と朝ドラ「らんまん」の比較と「どうする家康」のお市の描き方に対する個人的な考え
私は現代劇である朝ドラは基本的に見ないのだが、「どうする家康」が酷すぎて同じ時代劇系統である朝ドラが始まるというのでそっちを見てみたら、これがもうすごく良く出来ていて惹きつけられた。まだ始まったばかりだが、現状傑作と言っても良い。
「どうする家康」で失望した私に、そうそうこれだよ!これ!という気持ちにさせたのが朝ドラ「らんまん」である。
なので「どうする家康」に失望した方には「らんまん」をお勧めしたい。
特に、仕事ではなく別のものに惹かれている。或いは惹かれた経験がある。そんな方には深く刺さる物語である。
そして何が良いって、まずちゃんと時代劇しているのである。
個人的な考え方として、時代劇は、その時代の考え方や背景を元にして物語を作りながら、現代にも当てはまるような描写を入れるのが脚本家の腕の見せ所だろうと思う。
その逆は無いのだ。
現代の問題や思考を、無理やり時代劇の中に組み込むべきではない。
現代の思想を時代劇の中のキャラクターが語るなら、それはファンタジーかコスプレをした現代劇なのである。まさに「どうする家康」はこれに陥っている。
「どうする家康」には他にもあらゆる問題点があるが、今回は戦国大河ドラマとして大きな部分「どうする家康」には戦国大河でありながら合戦が端折られてしまっているという問題点を上げる。
これはもう正直、戦国大河ドラマに期待されていたものの大部分の欠落だと思う。けれど、それよりも問題なのは、合戦を描いていないにもかかわらず、では浮いた時間をつかって人間を描けているかと言うと、まったく描けていない点である。
それは「らんまん」を見ればわかる。勿論「らんまん」にも合戦は無いが、にもかかわらず人間を深く描けているから、そのような合戦や剣戟シーンなど無くとも、十分に満足のいく物語に仕上がっている。
どちらも実在した人物の人生を描いているのに、描き方(脚本)によって完成度がこうも変わるかと驚愕するぐらいである。
「らんまん」は「どうする家康」には出来ていない登場人物たちの葛藤や喜び。キャラクター造形に基づく行動原理や、展開される物語で、キャラクターたちがどう変化していくのが実に見事に描かれている。
自らがしたい事と、求められている事。その差異に生じる葛藤。それを主人公だけではなく主要人物たち全員が抱えている。
戦国時代で、選択が生き死に直結する「どうする家康」よりも余程どうするか?どうすべきか?をキャラクターたちが思いつめるように考えている。
(「どうする家康」では正直主人公である家康が何を目指して戦っているのかさえ良く分からない。端的に言えば、歴史上そうなっているから「どうする家康」の家康はその道筋を辿っているようにしか思えないのである。キャラクター造形と展開が乖離しているとさえ感じる)
「らんまん」では主人公たちを導いていく登場人物たちも魅力的だ。台詞一つとってもそのキャラクターの考え方や人生が表現されており、そしてそれが主人公の人生に確かに引き継がれていく。
そのように巧みな脚本があり、演出があるからこそ、その上に立つ役者さんたちも皆、実によい演技を魅せてくれる。
登場キャラクターはなぜそのような考え方や行動をとるのか?
それは視聴者が何故そのキャラクターに惹かれるのか?何故その言動や、行動に情動を動かされるのか?にも繋がっていく事である。
大河ドラマ{どうする家康」製作班は「らんまん」を見て学んで欲しい。
そして素人である私には断定できないが、恐らくこれで製作費は朝ドラである「らんまん」より大河ドラマである「どうする家康」の方が当然高いのであろうから、酷い話である。
かたやそれほど多くない製作費で、素晴らしい物語を描き
かたやある程度割り振られているだろう製作費で駄作を垂れ流している。
「どうする家康」は主人公である家康を情けない男として描き、けれど、それでも家康を主人公として完全な無能にしない為に、周りの登場人物を嫌な奴か、無能として描く事で成立させている。これがまた酷い。
私が見た勝ったのは、優れた登場人物たちが鎬を削り、その中で各キャラクターの思惑や葛藤が入り交じり、時には必然、時には偶然で勝者が決まる。そして、あらゆる出会いと出来事に影響されて、主人公が歩んでいく、そんな戦国大河ドラマであった。
正直「どうする家康」の脚本家はもう二度と時代劇に手をかけて欲しくない。
さて、ここまで述べてきたように、「どうする家康」は「らんまん」と違いキャラクター造形が稚拙で、展開によってコロコロとキャラクター造形が変わってしまうのだが、中でも展開として解りやすいのがお市だと考え、此処に「どうする家康」におけるお市の扱いをどうすればよかったかという個人的な見解を記す事にする。
まず「どうする家康」のお市は強さに憧れながら、男ではないからそれが叶わないと考えている女性として登場した。
そもそも「どうする家康」ではどうしても女性の活躍を描きたい様であるが、それは前述した、時代背景を無視し現代的な思考や行動をするキャラクターを作品に登場させるという現象を引き起こしている。
改めて少し触れておくと「らんまん」では時代背景を踏まえながらも、活躍したいと願う女性が上手く描けている。一方「どうする家康」は違う。活躍したいと願っているのではなく、その途中の段階も時代背景も無視して、とにかく活躍させてしまうのだ。
話を元に戻すと、「どうする家康」では様々なオリジナルキャラクターの女性を活躍させているが、そんな事をせずともお市をメインに当時の女性の、苦悩や無念を描けばよかったのではないかと個人的には考える。
例えば、お市を、才があるのに女である事によって思うように出来ないキャラクターとして描けば、女である事によって自らがそうできない事を十分理解しているお市が、浅井の謀反を兄である信長に伝え、奇襲ではなく真っ向からぶつかって勝った方に従う。
或いは正面から信長を倒す事が出来ないのなら、浅井は滅ぶべしとでもいう展開に出来ただろうし
(本作におけるお市の、兄である信長を助けたいのか?それとも倒したいのか?その整合性の問題解決法として)
また、史実として最終的にお市が秀吉ではなく柴田勝家の元に至った理由として、お市が秀吉の優位や、勝家が勝てないだろう事を理解していても、男である事とその才によって成り上がってきた秀吉に対する憎悪を描く事が出来た。
理性では秀吉についた方が良いと解っていても、感情が秀吉を受け入れられないという展開である。
お市が成りたくて、成りたくて、けれどたった一つ、性別の違いによって成れなかったもの、それを体現するのが秀吉(「どうする家康」のキャラクター造形ではなく有能な人物としての秀吉)だと描けば、秀吉とお市を対照的なキャラクターとして描けた。であれば負けると解っていてもそうするしかないお市の無念に、憎悪に、狂気に、そして美しさを描けた。私はそのように考える。
なので私は「どうする家康」をスターウォーズ続三部作をそうしたように存在し無かった事にして「らんまん」を見ていく。
どうする家康はどうすれば良かったのか?四話で脱落した私が考える「大河ドラマどうする家康」の問題点 祈Sui @Ki-sui
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