第10話 五夜目 人もどきとの約束(2)


 しっかりと抱き留められて、相手の胸のうちに収まる。お日さまのにおいがする。いつか、どこかで知った感覚と感情がゆらゆらと脳裏で揺らぐ。

 なんか……どこかで……誰だっけ。


 頭頂部がくすぐったい。相手が髪の毛に鼻の先を押しつけて、ふんふんと匂いを嗅がれた。うわ、と思った。

 よく知りもしない他人に、匂いなんて嗅がれたくない。


「ちょっと、やめて」

「なんで?」


 驚いたような声で、相手が訊ねてきた。

 両手で胸をついて距離をとろうとする。先ほどまではあんなに強固にしがみついてきて、力でどうこうできるような相手じゃなかったのに、すんなりと身を引いてくれた。拍子抜けする。


 離れた相手は、長身を屈めてこっちを覗きこむ。きれいな目をしている。

 素直な、濁りのない視線。白目がほとんどない。やや吊り上がった、金色の大きな瞳。瞳孔が縦に細い。中央から放射状にひだを作る虹彩は、黄緑を帯びている。


 ああ、やっぱり。いつから紛れ込んでしまったのだろう。また、現実から非現実に切り替わる瞬間がわからなかった。

 これは夢のなかだと知る。


 頭の上についている大きな耳は、作りものなんかじゃない。その証拠に、懸命に音を追おうとしている。正面に向けたり、くるりと横へ向けて倒したり。器用なものだと思った。

 人間ならば、耳を自由に動かせる者はまずいない。まれに動かせたとしても、動物のように思いどおりというわけにはいかない。


 とうに失ってしまった機能を、当然のようにこなす。そのしぐさに惹きつけられる。


 頭部は人間なのに、耳は動物。不思議なものを見ている気分だった。しかも背後でなにかがゆらゆらとうねっている。まさか気味の悪いものでも隠しているのかと思えば、尻の上──尾てい骨の位置から縞柄の尻尾が生えている。


 手を伸ばす。緩く波を描くオレンジ色の髪。メッシュを入れたかのように色がまばらだった。よく見れば、茶トラの柄をしている。


 相手の頬に触れる。大きく目が見開かれ、見つめられた。

 こちらを見つめる瞳がゆっくりと閉じられ、開く。閉じるときに、目頭から瞬膜が目尻に向かって開くのが見て取れる。


 うれしげに口角が上がって、無邪気な笑顔を作り、猫がやるように手に顔をすり寄せる。

 私は、無造作な長髪へ手を差し入れた。予想どおりだったが、実際に目にすると驚きがあった。本来なら、いや、人間ならあるはずの位置に耳の形状が存在しない。


 頭上に耳介じかいがあるから。


 髪に隠れた、頭皮と繋がっている箇所をまじまじと観察していると、くすぐったそうにして耳を小刻みに動かしてみせる。


「あなた……誰なの?」


 相手は訊ねられた言葉を理解しようとして、びっくりした顔をすこし横に倒した。


「ぼくのこと、わすれちゃった?」

「忘れたもなにも……、あなたを見ても思い出すどころか初めて会ったとしか言えない」

 ああ、と合点が言ったように笑う。

「このすがた、はじめてだもんね」


 この姿──? ってことは、つまり……?

「もとは違うの?」

「うん」

 素直にうなずく。


「もしかして、ここ何日か会った……昨日は猫の顔をした執事さんだったけど、あれもあなたなの?」

「ううん」

 ふるふると首を振る。「あれはちがうよ」


 え、と声が出た。「じゃあ、あれは誰?」


「うーんとね、」と言いながら、目線が上を向く。本当にきれいな目だ。見とれるくらいに。半球状の角膜が透明に透き通っている。

「あれはね、いろいろおしえてくれる、かみさま」


「神様?」


 うん、と肯く。「えっとね、おまけなんだって」

「おまけ?」


 オウム返しで繰り返していた。なかなか要領を得ない。どういう意味だろう。


「ぼくは生まれてからがよくなくて、すぐにもどっちゃったから。それで、とってもこわくて、そとに出たくなくなっちゃって、ずっとこのままがいいって言ったら、いつまでもはだめって。だから、とくべつにたすけてくれるって、おまけ」

「……」


 これは──。まじまじと相手の顔を見つめる。にこりと笑って、相手は首を傾げた。

 見た目どおりじゃない。体の大きさも、年齢も、口調も。やたらに幼い。身長はあるし、容貌は大人並みに見えるけれど、中身はまったくの子どもだ。


「この鍵、あなたの?」


 握っていた手を開いて、相手に見せる。鍵についているラインストーンがきらりと輝く。


 青年が素直に頷く。「おまけ」

「おまけ……?」


「これをわたせば、かみさまがたしかめてくれるって言ってた」

 相手は右手を前に出した。ぱっと開いて、手のひらをこちらに向けてくる。

「うえからおっことしたら、じめんにうまっちゃって。みつけてもらえるかしんぱいしたの」


「──?」

「これだけ。このかいすうぶん、てつだってくれるって」


 え、と声が出た。五回。鍵の溝に掘られた本数。やはりこれは回数を表していたらしい。


「ってことは、本当はほかのひとにも使えたんじゃない? 私だけに全部使っちゃったの?」

「いいんだ。だって、ぼく、おねえちゃんしかしらないもん」


 ほかに知らないって、頼る人が他にいないってことなんだろうか。私ひとりに使って、いったいどうするつもりだったのだろう。


 残りの溝は一本。それも、いまここで使われているから、今夜で最後ということになる。


「これ、特別な鍵よね。夢のなかで扉を開けると、特別な場所に通じてる。不思議な鍵」


 問いかけてみるが、きょとんとした顔をしている。わかんない、とこぼす。

「たすけてあげるって言われたの。どうしたらいいか、おしえるって言ってた」


 助けるって言ったのは、夢のなかに登場したものたちのことだろうか。だとすれば、あれが神様たちってこと?


「一番最初に、私の夢のなかに出てきたのは?」

「かみさま、そのままがいいって言ってた」


 そのまま──ってことは、あれは猫の神様なのかしら。それでもって、そのままで現れたほうが良いって教えたわけか。


「そのわりに、ずいぶん巨大だったけど」

「おおきいはせいぎ」

 えっ、と声が出た。「大きいは正義?」


「にんげんは、おおきいとうれしいって言ってた」


「……」

 いや、ものによるけどね、と内心で思った。なんでもデカけりゃいいってもんじゃない。


 猫の耳の青年は、私の手のひらの上にある鍵を指さした。

「おたがいのおおきさが、かわっちゃう」


 扉を開けて、くぐると体の大きさが変わる。ああ、と気づいた。入り口は小さい。向こう側のものと、入るもののの大きさを変え、揃えて、はじめて対等になる。

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