ある新入社員の話。

おんせんたまご

ある新入社員の話。

「これが、俺たちの今日からの仕事か……」


とある企業の新入社員である背の高い男は、ため息混じりにそう呟いた。紺青のスーツに身を包み、新生活に期待に胸を踊らせていたのも束の間、男は課せられた仕事を目前に落胆せざるを得なかった。


「書いてばっかりじゃねえか……」


男と同じ新入社員の一人がぼやいたように、男らの仕事内容はひたすら書類に何かを書かされるものだそうだ。面接の時のあのくたびれた面接官たちの様子から、あまり先進的な企業では無いのは予想がついていたが、まさかここまで前時代的な、アナログな仕事を押し付けられるとは……。


男はオフィス全体を見回す。全体的に黒っぽく汚れていて、年季の入った内装だ。所々に紙切れなんかが落ちていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。ここで働くのか、と思うとやはり気が重くなる。


もう一度ため息をつきそうになるのをおさえ、少しばかりの不安を抱えながら、彼は初仕事に取り掛かることにした。



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仕事を始めてからしばらく経った。男はすっかり慣れていた。若者らしくトガっていた彼は仕事の経験を通じて少し丸くなっていた。相変わらず仕事はひたすら書くことの繰り返しだ。


働いているうちに、この職場自体はそこまでつまらないものでは無いことが分かってきた。同僚がなかなかに面白いのだ。


「サボってないで、きちんと働けよ!」


大声でそう指導するのは、うちでいちばん長く働いている上司だ。彼はあまり前線に出てくることは無いが、ひとたびスイッチが入ると鶴の一声のように男らを完璧に統率した。その堂々たる立ち振る舞いはまさに、職場の支配者(ルーラー)と言ったところだろう。


「あっここ、間違えてるよ。私があとで直しといたげる」


そう言って男のミスした書類をいつも訂正してくれるのは、透き通るような白い肌の美人上司。いつも来ている青いスーツが、彼女の上品さに拍車をかけていた。


「ごめんなさい、ありがとうございます」


「大丈夫よ、ミスなんて誰にでもあるし。実は私もこう見えて昔は結構トガってて、色々やらかしたこともあるのよ。今はすっかり丸くなっちゃったけど」


「そうなんですね。意外です」


男は面倒見の良く美人な彼女にすっかり見とれてしまっていた。わざとミスをしている訳

では無いが、そうやって彼女と会話をする時間が男にとってはオアシスだった。


そして、男が最も尊敬する同僚、通称「メカさん」。機械のように正確無比に仕事をこなし、おまけにフィジカルも強く同僚の中でいちばん長く残業して働いているのに疲れているのを見たことがない。見た目もかっこよくて、同僚の中でも一際輝いていた。


他にも、最重要書類ばかり任される人、書類をシュレッダーにかけてばかりの人、メカさんにコーヒーを入れてばかりの人など、個性の強い同僚が多い。そのおかげで男は単調な仕事を、少しずつ楽しめるようにはなっていた。


しかし、1つの疑問が男の頭に浮かんだ。それは彼らの仕事が何のためにあるのか、ということだった。デジタル化の現代にこんなアナログな作業をひたすらやらされるなんて、きっと何か特別な理由があるに違いない。


そういう思いを抱えたまま、それでもそれを詮索する気にもなれず、男は淡々と仕事を続け、いつしかベテランの書き手になっていった。





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男はひたすら働いた。何度も何度も身を削った。時には折れそうにもなった。体は黒く汚れ、あんなに高かった背は、いつの間にかすっかり縮んでしまっていた。紺青のスーツは色あせて、剥げている部分が目立つようになった。俺はもう立派な社畜だな、と自嘲しながら、それでも男は書き続けた。


職場のメンバーはだいぶ入れ替わったが、あの上司やメカさんやシュレッダーの人など、まだまだ現役で働いている人も多かった。優しかった女上司が男より先に“捨てられて”しまったときは非常にショックだった。


そして男はようやく気づいた。彼らは何かのために書いていたのではなく、“書くこと”そのものが仕事だったのだ。あの企業は、書くための企業だったのだ。そして、男は“書くために”生まれてきたのだ。


男は今までしてきた仕事の数々を思い出した。最初は間違えてばかりだった漢字。今では訂正されることも無くスラスラと書けるようになった。計算はとても速くなった。アルファベットという新しい文字は、奇妙で覚えるのに苦労した。書ける言葉がどんどん増えるのがうれしかった。自分の成長を振り返るうちに、男は胸がいっぱいになった。そしてある種の諦めのような感情が湧いてきた。それは自分の運命に対する、この世の道理に対する諦めだった。


男は職務を全うした。男は退職願を出した。同僚達は笑顔で送り出してくれた。しかし男の顔に笑顔は無かった。彼は“使い物にならなくなった”から仕事をやめたのだ。男はこれから“捨てられる”。今となってはその事実も受け入れられるようになっていた。







それが、鉛筆である男の宿命なのだから。





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