四話
セラの魂を宿してから四日目――ファリアは町へ向かう道を歩いていた。
あの後、試行錯誤しながら、ファリアはセラと入れ替わる方法を見つけていた。それはただ目を強く瞑るだけなのだが、それにはお互いが入れ替わる意思を持っていないと上手くいかない。つまり、セラが入れ替わろうと思っても、ファリアがそれを許さない限り、入れ替われないということだ。
初めて入れ替わる体験をしたファリアは、不思議な感覚に戸惑った。自分の視界で自分の体なのに、手足は勝手に動いていく。周りの音も普段通りに聞こえ、体が自由にならないこと以外は至って普通だったが、入れ替わったセラが話すと、その声はいつも聞こえる自分の声だった。一瞬、自分はどこにいるのかと混乱しそうになるが、セラはファリアの体を使うのだから、声もファリアの声でなければ逆におかしいのだと気付いた。セラに代わったからと言って、声も体も男に変わるわけではないのだ。
他にも、体に感じた感覚は伝わらない、目を瞑られると自分も見えなくなる、お互いの思考は共有できない、睡眠などで意識がなくなる時は、自分の意識もなくなるなど、細かいことまでわかってくると、ファリアの戸惑いも次第に消えていった。セラも、自分でなければ難しい場面以外は、ファリアと入れ替わることはなかった。主導権を奪われるのではないかという余計な心配をかけさせないための配慮だった。この体は、あくまでファリアのもので、自分は時が来るまで、控えることに徹しようと考えていた矢先に、不逞の輩に襲われたのだった。
(……やっぱり、先生のところへ寄っていくよ)
夕焼け空の眩しさに手をかざすファリアの頭に、セラの声が聞こえた。
「先生って?」
(剣術学校のグラウ先生。ずっと教えてもらってたんだ)
「……勘が戻らないの?」
(いや、勘が戻らないんじゃなくて……やっぱり、自分の体じゃないから、どうも感覚が違うというか……)
ファリアの体をセラは思い通りに動かせてはいたが、かつての自分の鍛えた体とは違い、ファリアは一般的な女性の体だ。男性より筋力もなければ、動きに切れがあるわけでもない。セラより背が低いので、伸ばした腕の長さも違ってくる。届くと思っていた距離が、ファリアの腕では届かないのだ。いざという時、こんなことが起きたら、間違いなく大怪我を負わされるだろう。そうなる前に、セラはこのファリアの体の感覚に慣れる必要があった。
「そう……ごめんね。私、家事しかしてなかったから――」
(そ、そう言う意味じゃないって。ファリアの体でも、俺は十分闘えるよ。でも、もう少し慣れたいだけなんだ)
「ああ、そうよね……男の体から女の体になったんだもんね。最初から慣れてるわけはないか」
ファリアは納得したようにうなずく。
(感覚に慣れるまで、何日かかるかわからないけど、それでもいい?)
三ヶ月という短い期間しかなく、できるだけ犯人捜しに時間を費やしたいところではあったが、要であるセラを闘える状態に整えることもまた重要なことだった。ファリアは焦る気持ちを抑え、うんと返事をし、了承した。
太陽が山の向こうへ隠れた頃、二人は隣町オルドスに到着した。ここはセラが青年期を過ごしたところで、まさに剣術の腕を磨いていた場所である。二人の住むメーナス村より緑は少ないが、店や民家は多く立ち並び、住みやすい町ではあった。
暗くなった道を、ファリアはセラの誘導で歩いていた。
「……こっちでいい?」
(うん。まっすぐ行ったら、右に曲がって)
言われた通りにファリアは進んでいく。辺りに人影はない。心細い道を、ところどころ民家から漏れる明かりが照らしている。今は夕食の時間だろうかと考えていると、セラが声を上げた。
(あっ、あれだ)
あれだと言われても、建物はいくつも見えて、ファリアにはわからない。
(このまま、あの坂を上った先のところだよ)
坂の先に視線をやると、白っぽい大きめの建物が見えた。窓には明かりが見える。
「あれが、剣術学校?」
(うん。明かりがあるから、まだ誰かいるのかもしれない)
セラの声が弾む。ここにはたくさんの思い出があるのだろう。そう思うと、ファリアの足も自然と速まった。
坂を上り、剣術学校の目の前へやってきた。一階建ての建物は、周囲のものよりは大きかったが、学校と言うには少々小さめな印象がある。学問を教える学校とは違い、一度に数十人に教えるわけではないだろうから、建物はこんなものでいいのかもしれない。
ファリアは早速入り口の扉を叩いた。しばらくすると、中から足音が近付き、鍵が開けられる。そして扉が静かに開いた。
「……どちら様かな」
出てきたのは、白髪頭に口ひげを生やした、五、六十代の男性だった。
(グラウ先生!)
ファリアの頭にセラの喜ぶ声が響く。この人が目的の先生なのかと、ファリアは目の前の男性を見つめた。
「……あの、何かご用で?」
見つめてくるファリアを、グラウは不審な目で見る。
「あ、すみません。……私は、ファリア・トランスという者で、実は、お願いしたいことがあってうかがいました」
「はあ……何でしょうか」
グラウは腕を組む。剣術の教師だけあって、腕の筋肉は立派だ。
「私に、稽古をつけていただきたいのですが」
「……あなたに?」
グラウの片眉が上がる。
「正確には、私ではなくて、えー……何て言えばいいのか……」
上手い説明方法がわからず、ファリアは口ごもってしまった。グラウの目が、ますます不審そうに見てくる。
(ファリア、ここは代わってくれ)
セラの声に、ファリアは口元を手で隠しながら小声で返した。
「大丈夫なの? もっと怪しまれちゃうんじゃ――」
(平気だ。先生なら俺だってわかってくれる)
不安は拭えなかったが、自信を見せるセラにファリアは任せてみることにした。目を強く瞑り、入れ替わる――
「……改めまして、先生、お久しぶりです」
急にはきはきと話し始めたファリアに、グラウは怪訝な表情を見せた。
「久しぶりって、前にどこかで会ったことが?」
セラは笑顔を浮かべた。
「今は訳あって、妻のファリアの体を借りているんですが……俺はセラ・トランスです。憶えてますか、先生」
グラウの眉がひそめられる。
「……セラ・トランスという名は知っているが、彼は男だ。間違ってもあなたではないよ。悪いがお引き取りを――」
「せ、先生、だから今は妻の体を借りていて――」
「何を訳のわからないことを……。誰かをからかいたいのなら、他を当たってくれ」
グラウは扉を閉めようとするが、セラはその扉をしがみつくように押さえる。控えるファリアはこの状況を見ながら、交代したのは、やはりまずかったかと感じ始めていた。
「お願いですから、先生、お話を――」
「扉から離れろ。しつこいぞ」
力ずくで閉めようとするグラウに、セラは声を張って言った。
「先生が最初に褒めてくれたから、剣に興味を持てたんです」
「私は褒めた憶えなど、ない」
「一度だけ、まぐれですけど、先生に勝てたことは、今も俺の自慢です。それと、ここを離れる時に、代金を半分出してくれた剣は今もこうして――」
言いながらセラは、マントの下の剣を見せた。それを見て、グラウの手から力が抜ける。
「その剣は……確かにあの時、セラが買ったものだが……」
いぶかしむグラウがセラの顔をのぞき込む。
「私がセラに負けた話……なぜ知っているんだ」
「だから、俺なんです。こういう姿ではありますけど、話しているのはセラ・トランスなんです」
必死な顔で言うセラを、グラウはまだ信じ切れていないようだった。
「……本当にセラというのなら、私の質問に答えられるはずだな」
「もちろん。望むところです」
セラは自信ありげにうなずいて見せる。
「では、セラがいた当時、練習生は他に何人いた」
「四人です」
グラウは黙って続ける。
「セラが好んで読んでいた本の題名は」
「剣聖列伝」
「餌をもらいにやってきていた野良猫の毛の色は」
「白黒」
「ぼやを起こした時の、その原因は」
「料理の火の後始末」
「私の子供は何人いる」
「当時と変わっていないのであれば、一人もいません」
淀みなく答えるセラに、グラウは唸るしかなかった。
「……質問はどれも、ここにいた者でなければ答えられないはずなのだが……信じられん。本当に、セラだというのか?」
グラウは驚きを隠さず、セラを信じられない目で見つめる。
「剣の腕を見せれば、必ずそうだとわかってもらえるはずです。……ですが、今日はもう暗いですし、また明日に出直して――」
「宿をとっているのか?」
「いえ、これから探しに」
「それならここに泊まっても構わない」
セラは目を丸くする。
「……学校にですか?」
「三年前に私はここの校長になってね、管理はすべて任されている。私も時々寝泊まりすることもあるんだ。だからベッドの心配はいらない。それに、あなたがセラだというのなら、もっと詳しく話を聞いてみたい。どうだ?」
セラは満面の笑みを浮かべた。
「はい! ありがとうございます。俺も先生と話がしたいです!」
これに、ようやくグラウの顔にも笑みが見えた。セラを中に入れ、夕食を食べながら、二人は遅くまでお互いの話をしていた。それを黙って聞くファリアも、二人の思い出話に笑顔になる気持ちだった。
翌日、セラは言った通り、外の庭でグラウを相手に剣の腕を見せていた。長年指導していたセラの剣術の癖を、グラウはしっかりと憶えていて、それは目の前の女性がやはりセラなのだと認識せざるを得ないことでもあった。
「……ふーむ、懐かしくはあるが、何とも不思議な感じだ」
練習用の剣を下ろしながら、グラウは首をかしげる。
「これで本当に信じてもらえましたか?」
「そうだな……姿は奥方でも、中身はセラそのものだ。しかし……死んだ身とは到底思えないな」
セラは殺され、今は魂のみの存在だということは、昨晩すでに話していたことだった。そして、ここを訪れた理由もグラウには伝えてあった。半信半疑な部分もあるようだったが、大半はグラウも信じ、稽古をつけてくれることになっていた。
「全部ファリアのおかげです。こうして剣を振るえるのも、先生とまた話せるのも……。それで、俺の今の剣は、どう感じましたか?」
「全体的に見れば、腕は申し分ないだろう。だが、細かいところが気になるな。そういう部分を放っておくと、いずれ命に関わってくるだろう」
「はい。俺もそう思います」
セラは真剣な表情で答える。
「大事な奥方の体だ。傷だらけにさせないためにも修正していこう」
「はい。よろしくお願いします」
セラが再び剣を構えると、グラウは動きを交えながら手取り足取り教えていく。それを間近で見ているファリアには、セラが生き生きしているように感じた。まるで剣に夢中になっていた十代の頃に戻ったような、純粋に好きなことに没頭している雰囲気。そこにファリアが持つ、恨みや復讐心は見えなかった。ファリアはふと思う。セラは犯人のことをどう思っているのだろうか……。
五分の休憩になり、セラは学校の壁に寄りかかり腰を下ろす。袖で額の汗を拭うと、大きく息を吐いた。グラウは一旦学校の中へ戻ったのか、今は姿が見えない。
(お疲れ様)
ファリアの声に、セラは小さく笑う。
「疲れてるのは、ファリアの体なんだけどな」
(それもそうね。でも今はセラだから)
薄い青色の空から風が吹き、熱くなったファリアの体を冷ましていく。
(……ねえセラ、あなたは、犯人を恨んでる?)
「急に何だ? そんなの当たり前だろ」
当たり前という言葉に、ファリアはどうも納得いかなかった。
(私は二度とセラもハイメも見ることができない。だから家族を奪った犯人が憎くて仕方ないの。でも、セラには私ほどの感情が見えないから……)
地面を見つめて聞いていたセラは、顔を上げ、宙を睨むと言った。
「自分を殺した男なんだ。恨みはもちろん持ってるさ。だから俺は、ファリアがあいつを追うつもりなんだって知った時、止める気はなかった。夫としては妻を危険な目にさらすんだから、止めるのが普通なんだろうけど、俺はむしろ協力したいって思った。あいつをとっ捕まえて、俺の剣で――そうか。俺はファリアより、動機が一つ多いのかもしれない」
(どういうこと?)
「俺は恨みだけじゃなく、悔しさがあるんだ。剣を持っていなかったせいで、まともに闘うこともできず、一方的にやられた。あいつの剣技は確かにすごかったけど、剣同士だったら結果はわからない。このまま負けで終わったことが、俺は悔しいんだ」
自分の言葉に納得するように、セラはうなずく。
(再戦して、雪辱を果たしたいってこと?)
これにセラは鼻で笑った。
「馬鹿だと思うだろ? 男は。殺された恨みと同じくらい、闘いに負けたことが悔しいなんてさ。死んだ今じゃどうでもいいことなのに……。でも、こうして剣を振るえる機会を与えられると、やっぱり勝ちたいって気持ちが湧いてくるんだ」
(……稽古を見てて思ったの。あの時、剣さえあれば、セラは犯人に勝ててたはずよ。絶対に)
ファリアの力強い言葉に、セラの顔が曇る。
「……それはどうかな。あいつの動きは洗練されてた。剣も装備もなかった俺は、その分身軽に動けたはずなのに、あいつの隙をほとんど突けなかった。突いてもすぐに対処されて……」
セラの中には悔しさと共に、対峙する男の姿がよみがえっていた。
「あいつは多分、ただの剣士じゃない。田舎でくすぶってるような、見た目だけの剣士じゃないはずだ。あそこまで腕があるなら、都でも十分活躍できるだろう」
(じゃあ、犯人は王都に?)
セラは空を見上げ、息を吐いた。
「俺のただの勘だ。人殺しが好きな気違いって可能性もあるけどな。それなら殺しに来た理由にもなるけど、もしまともな精神の持ち主なら、俺とハイメはどうして殺されたんだか……」
難しい表情をしながら、セラは考え込む。
(セラには心当たりがないのね)
「うん。まったくない。あいつの一方的な恨みなのか、それとも――」
その時、セラは肩を叩かれ、顔を上げた。
「独り言中に失礼するよ。水だ。喉乾いただろ」
横に立っていたグラウは、持っていたコップをセラに渡す。
「これは独り言じゃなくて、ファリアと話しているんですよ」
セラは苦笑しながらコップを受け取った。
「奥方と? そんなこともできるのか」
「はい。先生の声も、ちゃんと聞こえているんですよ」
「ほお……そうなると、あまりセラをきつく叱ることはできなくなるな」
「叱られないよう、頑張りますよ」
一気に水を飲み干すと、セラとグラウは再び稽古へ戻った。
慣れない体の感覚を覚えるというのは、すでに自分の剣術を創り上げていたセラには厄介なことだったらしく、隅々まで思い通りに動けるまでに一週間もかかってしまった。傍観していたファリアには、二日目くらいで、もう十分に動けているように見えていたのだが、セラは妥協を許さず、自分が納得できるまで稽古を繰り返した。その結果が一週間だった。この間は稽古以外にも、犯人について住人に聞いて回ってもいたが、メーナス村と同様、ここでも目撃情報は得られず、二人は町を出ることを決めた。
「先生、本当にありがとうございました」
剣術学校の前で、セラはグラウと握手を交わす。
「老いぼれの指導は役に立ったかな」
「何を言ってるんですか。老いぼれだったら、あんな剣さばき、絶対出来ませんよ」
二人は揃って笑顔を浮かべた。
「……何はともあれ、ここから先が本番ということだ。セラの口振りからすると、捜している男はかなりの腕前のようだな。くれぐれも油断はするなよ」
「はい」
「それと、決して無理はするな。奥方を忘れてはいけないぞ」
「……もちろんです」
セラの表情が引き締まる。
「では、失礼します。またいつか……」
「ああ。またいつか、だな」
踵を返し、セラは坂道を下っていく。その後ろ姿をグラウは長く見送っていた。
町を出たセラは、ファリアとすぐに入れ替わった。久しぶりに戻ってきた自分の体の感覚を確かめながら、ファリアは畑の広がる道を進んでいく。
「……ところで、次はどこを目指すの?」
(一気に、カルバーネまで行こうと思う)
王都に次ぐ大きさがあり、第二の都市と呼ばれるカルバーネは、この辺りの町村からは一番近い都会でもある。
「前に言ってた、勘にかけてみるのね」
(……うん。それもあるけど、都会なら情報も集まってそうだしね)
ファリアに異論はなかった。次こそ手掛かりがあることを願いながら、カルバーネまでの長い道のりを、ファリアは黙々と進んでいった。
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