再び、君に会うだろう。

@asatonasu_

再び、君に会うだろう。

「人は死んだらどうなるんだろう」

 小林怜奈は僕に問いかけ、

「もし私が死んでも、忘れないで欲しいな。他に好きな人が出来て、恋人を作ってもいいから、忘れないで欲しい。今の私は、幸大が恋人のままで死んでいくんだもん」

 と、言った。話すたびに白く姿を見せた息は、宙を舞うように消えていった。


 僕が怜奈を好きになったのは、単純に顔が可愛いと思ったからだった。よく笑うのに、本当はつまらなそうな顔をしている彼女が気になって、知りたくなった。

 ありきたりな言葉を並べるのも恥ずかしくて、僕は手紙を書いた。俗に言う「ラブレター」だ。書き始めるまでは時間がかかった。それでも書き始めたら止まらなくて、書き終えたときは、達成感よりも、羞恥に苛まれたことを覚えている。渡し方は考えていなかったから、僕は朝一番に教室に入ると、誰もいないその空間を、僕一人だけのものにした。そして彼女の机の引き出しに、隠すように手紙を置いた。

 気付かれないのならそれでもいいと思った。失恋する前提だった僕は、抱いている好意と、プライドから来る羞恥を誤魔化すために、過去形だらけのラブレターを書いていたのだ。だから、時が経って、いらなくなったプリントと共にまとめて捨てられてしまえばいいと思った。

 だけどその日、怜奈は、何故かいつもより早く登校してきた。彼女はいつも、電車の都合で時間がギリギリになることを知っていた僕は、不自然な早さに戸惑いを隠せなかった。教室のドアが開いた瞬間、彼女は「おはよう」よりも先に、「早くない?」と僕を見て言った。一年の冬の話だ。人の熱気の無い教室は、外よりは温かいがまだ寒い。僕が緊張のあまり、暖房を入れ損ねていたからだ。

「寒いー」

 怜奈はマフラーに顔を埋めて、席に着いた。

そこから、彼女に声を掛けられるまで、僕は彼女がどんな顔をしていたのかを、知ることはなかった。

 廊下から校全体に響くように、声と足音が聞こえ始めた。澄み切った空気は音をよく拾うせいで、僕は少し離れているその声が、やけに近く、鮮明に聞こえていた。だから、突然破られた紙の音には、衝撃が走った。僕は「手紙が破られた」のだと思った。が、すぐにシャープペンシルが机を突いた。不揃いなリズムは、彼女の心情を表しているようで、僕はまだ、顔を上げることが出来なかった。

 電車はいつも決まった時間に来る。そこから高校まではおよそ十五分ある。だから、次にクラスメイトが来るまでの時間は、大まかに予想が付いた。彼女が来てから、二十分ほどしか猶予はなかったのに、僕にはそれが三十分にも、一時間にも感じた。とても長い時間だった。

 不揃いな音が止まると、彼女は席を立って、机に伏せ、寝たふりをしていた僕の腕と机の隙間に滑り込ませるように、一枚、四つ折りにされた紙を置いた。

 彼女が席に戻ったのを感じると、僕は手紙を開いた。

 一時期流行った丸みのある可愛らしい文字……ではなく、達筆とまでは行かないが、水が流れているような字だった。


 僕は、彼女を知った。そして知れば知るほど、彼女のことがわからなくなることを知った。彼女は、まるで何も知らない子供のように、僕に「好き」だと言う。その姿は愛らしく、ふいに僕を縛り付けた。


 僕らの始まりが手紙なら、終わりも手紙だった。力のない、本当に水に流れて行ってしまいそうな、か弱い字をしていた。

 最後の一文は、

『私を忘れてしまっても構わないから、新しい恋をして。』


 だから、僕は新しい恋をした。

「人は死んだら、どうなると思う?」

「急に何ですか?」

 僕は少しだけ、酔っていた。だから三田晴美は、「飲み過ぎですよ」と笑った。彼女は会社の後輩だった。親しくなったのは、ただ偶然、僕が彼女の教育係という名前だけの役職をもらったからだった。

「昔、恋人……だった人と、そんな話をしたんだ」

「で、その人とは、どうなるって話になったんですか?」

「答えはなかった。ただ、自分は僕の恋人のまま死ぬから、新しい恋をして、恋人が出来ても忘れないで欲しい、とだけ言われた」

「その人、その……亡くなったんですか?」

「うん。高二の冬に、三年になる直前だった」

「高校のときなんだ」

 僕は気が付かなかったが、店員が新しい酒を持ってきた。そして三田のそばに置いてあった空のグラスを下げた。会話を始めたときはまだ満タンに等しかった三田のグラスは、すでに空になっていたらしい。

「――今でも忘れられないんですか? もう十年経とうとしてるのに」

「忘れてもいいと言われたんだけど――忘れて、新しい恋をしてほしい。彼女はそう言ってた。だけど、ひどい話じゃないか、そんな彼女を忘れるなんて。大学生のときに付き合った人からは、元カノを忘れてくれないのが耐えられないと、振られたことがある。僕も彼女を好きになれていたのか、わからなかったから、振られてしまうのは仕方がないと思った」

 僕の話を聞いて、三田晴美は黙った。「――あぁ」と、溜め息と一緒に、三田の声が漏れた。

「立花さんも、その人を忘れられないんじゃなくて、忘れたくないんじゃないですか?」

 三田の言葉に、僕は、小林怜奈を「忘れられない」のだと過信していたことを知った。三田の言う通り、僕は小林怜奈を「忘れたくなかった」のだ。それでも「忘れられない」ということにしないと、僕が辛かったのかもしれない。

「立花さんの一番が自分じゃないって気付くのは悲しいと思うけど、でも、忘れたくない人を、他人が忘れさせるのは、少しばかり酷だと思います。だから、忘れたくないならそれでいいと思いますよ。その彼女がいたから、今があるんだし……それに、何も知らなかったけど、私は好きですよ」

 三田は伸びた前髪をかき上げると、三田の頬が火照っていた。三田は三分の一を飲み干すように、酒を一気に流し込んだ。

「先輩として」

「わかってるよ」

 三田は、大皿に取り残された二つの唐揚げの一方を、一口で頬張った。少し膨らんだ頬と、閉ざされた口を手で隠しながら、彼女は「どうぞ」と、唐揚げを指差した。僕は何も言わず、残された唐揚げを、口に投げ入れた。噛むたびに口に広がる乾いた肉。かけられてたレモンの香りは鼻を抜けた。口に残った唐揚げの味を流し込むように、僕は残りの酒を一気に飲んだ。

 空になったグラスは、僕みたいだった。

 グラスに残された氷はすぐに、微かに効いていた暖房が溶かし始めた。

 体を巡るアルコールが、抱く羞恥を掻き消した。だから、自然とこぼれた言葉は過去形にはならなかった。

 三田晴美は、一瞬驚いた。丸い目をいつもよりも丸くして、そして、愛らしく笑った。


「今、僕は君が好きみたいだ」

「偶然ですね。私も、好きみたいです」


 彼女の赤くなった頬の理由は、酒なのだろうか。僕は、その理由が「僕ならいいのに」と思った。自覚したのは、今、この一瞬だった。だから抜けていた肩の力は、いつの間にか十分すぎるほどに入っていて、肩から首にかけて硬直してしまうくらい、僕は緊張していた。心臓の位置は鼓膜のすぐ横だと誤認するほど、僕の心臓は人一倍、早く、大きく鳴らした。空になったグラスは、結露した水滴をテーブルに落とした。口内に流れてきたのは、レモンの味がしない、ただの少量の水だった。

「でも、お酒入ってるから、後でやり直してくださいね」

 三田は最後まで、よく笑った。それは心地が良くて、僕を溶かしていくようだった。

「おかげで酔いが覚めたよ」


 * 


 この話を祖母から聞いたのは、祖父である立花幸大の七回忌のときだった。祖父は、私が小学五年生のときに亡くなった。二世帯住宅ではなかったし、近くに住んでいたわけではなかった為、思い出という思い出はなかった。が、祖父は私に優しく接してくれて、祖母に見合った温かい人だという記憶だけは、私の中で鮮明に残っていた。

 祖母は、祖父との馴れ初めと、祖父の初恋の話を初めてしてくれた。高校生だった私は、胸が痛くなっては、キュンとして、一つの小説を読んでいるようだと思った。

「それで、死んだらどうなるってことになったの?」

「結局、答え合わせはしなかったわ」

「なんで?」

「死んだあとの答えなんて、誰にも分らないじゃない」

「えぇ……」

「でも、人生は巡り会わせだから、私たちが出会う運命なら、また会うことが出来るはずじゃない? だからそのときに、またこの話をしよう、ってあの人は言ったの」

 答えを出さなかった二人に、もどかしさを感じた。だから私は、せめて祖母が、怜奈さんをどう思っているのかは、聞きたくなった。

「おばあちゃん、れいなさん? にヤキモチ妬かなかったの?」

 そう尋ねると、祖母は「どうして?」と首を傾げた。

「妬かないわ。私はこの話が好きなのよ。一度、怜奈さんに会ってみたいくらい、私は幸大さんの話す怜奈さんを好きになったの」

 予想外の答えに、私は唖然とした。恋人が自分以外を見ているなんて、考えたくもない。そう思うのは、おかしいことなのだろうか。

「私なら嫉妬しちゃう。好きな人が自分じゃない人を想ったままって、ちょっと辛い」

「出会いは人を作るのよ。私は怜奈さんに出会っていない幸大さんを好きにはならなかった。きっとそう」

 そう話す祖母は、「そうしないとヤキモチを妬いてしまう」「自分は大丈夫」と、考えを正当化しようとしているように感じた。だけど、そんな姿も、とても愛らしいと思った。

 老いた身体は、時折辛そうだと感じることがあったが、祖母は本当によく笑うから、年を重ね刻まれた、目尻の皺さえも綺麗だと思った。何より、祖父の話をする祖母は、恋する乙女のように優しい笑みを見せて、私の知らない顔をさせた。そんな祖母の話を聞いていた私の心は、毛布に包まれ、温かくなるような、そんな感じだった。


 ――と、いう話すら、すぐに思い出になってしまった。

 祖父の七回忌から三年後、祖母が亡くなった。祖母の訃報は聞いたのは、母からの電話だった。大学生になった私は、一人暮らし真っ只中だった。もうすぐ迎えるお盆になったら会いに行こうと思っていたのに、夏休みを迎えてすぐ、私は訃報を聞いた。だから今年は祖母に会うことが出来ないまま、二度と会うことのない別れを迎えてしまった。それは私にとって無くすことのできない、大きな後悔となった。

 それでも、私は祖母の死を悲しいと、感じることが出来なかった。何も知らなければ、悲しく、涙を流すことが出来たのだろうか。


 二年前、祖母は、帰り際の車の中で言っていた。

「死んだらどうなるのかって話の続き」

「うん」

「私は、待ってるんじゃないかなって思うの。その時が来るのを待っていて――だから、きっと怜奈さんは幸大さんを待っていて、やっと会うことが出来たんじゃないかしら」

 祖母は、出せなかった答えを、私に教えてくれた。

「じゃあ、おじいちゃんは、おばあちゃんのこと待ってるんじゃないかな」

「えぇ?」

「だって、れいなさんにとっておじいちゃんは恋人のままだけど、おじいちゃんにとっておばあちゃんは、奥さんのままなんだよ。れいなさんを忘れることがなくても、おじいちゃんが最後に愛したのはおばあちゃんだもん」

「……そうね。そうなら、いいわ。そうしたら、その時が来るのも怖くないわね」

 私は「不謹慎なこと言わないで」と、少し怒ったが、祖母は安心したような顔をしていたのを覚えている。


 だから私は願った。祖母が向こうで祖父に会えるますように、と。いつか必ず終わる人生なら、死んだ後の話は幸せなものであってほしい。そう思ったのは、祖母が生きていた間、祖父の一番にはなれなかったからだ。だから私は、悲しむよりも先に、二人の再会を願ったのだと思う。

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