グッドナイト
鈴木穂摘
第1話
あなたのことが好きでした。出会ってからずっと、あなたはわたしの大切な人でした。あなたもそうだと思っていたのに、残念です。他のひとを選び、結婚してしまった。会う機会も少なくなっていきました。ずいぶん都合の良い扱いを受けましたね。それでも、嫌っても、憎んでも、別れてもあげません。焦げついた思いを抱えたままわたしはあなたを愛していました。特別な恋を誰かのせいで失うわけにはいきません。残念です。私に殺されたりしなければ、一生好きでいられたのに…
急に呼び出されるのは珍しいことではなかった。驚いたのはその文面だ。「逃げたい、助けてくれ」ってどういうことだろう?自宅に呼び出されるのははじめてのことだった。相当大変なことなのだろうと思い、すぐ向かうことにする。
わたしが家に着いたとき、彼はまともな状態ではなかった。虚ろな目でどこか遠くを見ながらずっとなにかうわごとを言っている。なにか自分が何をしているのかもよくわかっていないようだった。それでも話しかけ続けると、彼は少しずつ正気を取り戻していった。なんとか聞き出せた情報によると、彼はひき逃げ事故を起こしてしまったらしい。彼の言い分を信じるなら、相手は重症ではないのだろう。それでも自分のしたことが怖くなって逃げてしまったそうだ。自分の罪と向き合うのが辛いと彼はいう。せめてその場で救急車を呼んでいれば… もう逃げてしまったのは仕方がないけれど。
頼むから代わりに自首してくれないかと言われても困る。うっすらと予想はしていたが本当に言われてしまうとは。どこまで都合の良い扱いを受けるのだろう。本当にわたしが自首してなんとかなると思っているのだろうか?わたしがやったという物証がない。相手に意識があるのなら彼のことを認識しているだろう。なおさら無駄だと思うけど…
それでも代わりにやってあげることにした。どうせ人生に意味などないのだし、彼を庇うことで私の薄っぺらなプライドが満たされるような気がした。
わたしの無実はすぐに明らかになるだろう。彼の罪は今よりもっと重くなる。私も罪に問われるはずだ、そうしたらもう会えない。見えている不幸をドラマチックだと思い込み、むしろ喜びさえ感じている自分が悲しかった。
とはいえそのまま警察に行くのも癪だ。自首する前に2人で何かできたらいいのに。そうだ、久しぶりに手料理を振る舞ってあげよう。奥さんには悪いけど、食材と調理器具は貸してもらおう。さまざまな大きさの包丁の中から、1番小さな包丁を選ぶ。赤いプラスチックの柄が可愛らしい。
台所を漁られて焦ったのか、彼がいきなり距離を詰めてきた。何かを言っているようだが、よくわからない。怖くなって両手で包丁を掲げて距離を取ろうとする。彼に肩が揺さぶられて、ぐらりと視界が歪んだ。一瞬のフラッシュバック。最悪の記憶が呼び覚まされる。
我に帰ると、彼の胸に包丁が刺さっていた。動かなくなった彼をみて絶望する。一瞬の転落ぶりに自分でも笑えてきた。今度はわたしが追われる立場になったというわけだ。
きっとすぐに捕まるだろう。でももう少しだけ時間が欲しい。でも、遅かれ早かれ奥さんが帰ってきてしまうだろう。時間を作るためには逃げるしかない。逃げるにはまず彼の遺体を持ち運ばなければならない。
どうしようかと思ったが、車内に置かれたクーラーボックスのことを思い出した。ある程度手足を曲げれば遺体も無理なく収まるはずだ。まめに洗っておいてよかった。彼を綺麗な状態で運ぶことができる。力なくだらりと伸びた手足はもう冷たくなっていた。運ぼうとするとずるりと滑ってしまう。できるだけ小さくしようとしたら体育座りみたいな格好になった。窮屈そうだし、少し苦しげだ。なんだか可哀想になってしまう。
なんとか体をクーラーボックスに収め、台車に乗せて家を出る。この時間は人通りが少ないらしい。裏に停めた車に辿り着くまで誰にも会わなかった。トランクに彼を積んで走り出す。窓を開けると冷たく湿った空気がほてった頬を冷やしてくれる。
しばらく運転していると、道の先にサービスエリアが見えてきた。休憩はとらないつもりだったが、気を張っていたせいか思った以上に疲れているらしい。万が一ということもある。念のため休憩することにした。目立たないかどうか心配だ…。幸い、わたしのほかにも乗用車は何台か停まっており、それだけで目立つということはなさそうだった。これなら彼をひとり残しても大丈夫だ。
施設内の売店のメニューを物色する。こうしていると、ふたりでドライブに行ったときのことを思いだす。彼はいつからか運転をしなくなってしまった。そのことが少しさびしい。たしかに、少しひやっとすることはあった。いつか事故を起こすかも、と。まさか現実になるなんて。
ふと彼のスマホを見ると何件か着信が入っていた。すべて奥さんからのものだ!奥さんはもう何もかもわかっているのかもしれない。じわりと汗が滲み出すのを感じる。スマホが震える。何度目かの着信をやり過ごしたあと、諦めて電話に出ることにした。「初めまして葛城沙代子さん。夫の遺体は無事ですか?」わたしの名前も、彼を殺したことも全部知られている。もう何もかも無駄なんじゃないかと思う。淡々と語る声からは悲しみや悔しさのようなものが滲んでいて、罪悪感に襲われる。なんてことをしてしまったんだろう。泣きながらこれまでのことを話す。動機について聞かれたところで言葉に詰まった。どう話せばいいだろう?どんなに言葉を尽くしても伝わらない気がした。それでも言葉を紡ごうとする。
「彼から逃げたいって連絡が来たんです。ひき逃げ事故を起こしてしまった。俺はもう駄目だって…心配になって家を訪ねたら、彼は私に、代わりに自首して欲しいと言いました。それが彼の望みならば叶えてあげたかった。うまくいくとは思ってませんでしたけど。刺したのは単なる事故です。でも、苦しんでいる彼をみて逃げたいという言葉が胸を掠めた。それで助けるのをやめました。今とても寂しいけれど、後悔はしていません。彼は近いうちに捕まったでしょう。被害者が生きていればなおさらです。たとえ捕まらなくても、生きている限り罪の意識からは逃れられない。本当に逃げ切るなら、死ぬしかないと思います。」
考えて考えて、でもこれが正直な思いだった。自分でも、あまりにも身勝手だと思う。
それでも嘘はつきたくなかった。大切な存在を奪ったのだ、その程度の誠実さは持っていたかった。途切れ途切れになりながら、なんとか奥さんにこれまでの経緯と理由を伝える。電話口の彼女は何も言わなかった。わたしに呆れて絶句していたのかもしれない。通報するのは明日まで待ってほしいと頼み込んで、明日の明け方までは待ってもらえることになった。もう時間がない。すぐにでも出発しなければならない。わたしはまた走り出す。
走っている最中、何度も辛くなった。涙で視界がぼやけそうになって、必死で拭おうとする。なんだか息が苦しくなってきた。もう挫けそうだ。彼が安心させてくれればいいのにと思う。大丈夫だよって少し掠れた声で優しく言って。色白のほっそりした手で軽く頭を撫でて。でもそれは叶わない。わたしが奪ったから。きっと獄中でもこんな気持ちになるのだろう。
そろそろ絶望にも飽きようかというころ、ようやく目的地に着いたのだった。空はもう明るくなってきていた。そこは郊外の住宅街で、眼下には墓地が広がっている。その中のひとつにわたしの母の墓がある。
母が亡くなったのは高校生のころだ。わたしが殺した。殺されそうになって、抵抗した結果だった。母はわたしと心中するつもりだったらしい。わたしの人生は楽しいものではなかったし、価値もやりがいも感じられなかった。それでも勝手に奪われるのは嫌だった。今は後悔している。結局何も得られなかったじゃないか。
なんとか幸せになりたかった、その末路がこれか、と思う。もうふたりも殺してしまった。未来はもう見えない。もしも彼が本当にわたしを愛してくれたなら、わたしの罪ごと愛して欲しかった。でも、他人に背負わせるには重すぎることもわかっていた。だから言えなかった。後悔ばかりだ。彼と付き合ってすぐ、せめて彼が結婚する前に来るべきだった。彼にゆだねるのが怖くてできなかった。それでも向き合うべきだったと思う。結果として別れることになっても、互いに誠実なままいられたほうがよかった。でもそうはならずに、わたしは焦げついた思いを抱えたまま…
朝が来る。日の光とともに意識がぼやけていく。奥さんはもう通報しただろうか、と思う。警察はきっとすぐわたしを見つけるはずだ。贖罪へ向かうときがくる。
グッドナイト 鈴木穂摘 @SuzukiHozumi
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