俺が誘拐したのは、殺人鬼かもしれない

リー・ヒロ

不運: 誘拐犯の視点 ①

 運命なんて当てにならない。あまりにもごちゃごちゃで、あまりにも回りくどくい奴だから。そんなことを思わされる瞬間は、人生のうちに何度も何度も巻き起こるらしい。

 九院寺累はまたしても見たくない夢を見てしまい、まぶたをこじ開けるように飛び起きた。

 数秒の間はついさっきまで落ちていた世界をかき消すことに必死だった累だが、自分がいる場所がホテルのベッドでも公園のベンチでもないことに気が付くと、首を傾げながら目元を擦ろうとする。しかし彼の両手は柱に鎖で縛り付けられており、数センチ程しか腕が持ち上がらない状態だった。

 酷いな、これじゃ痒いところもかけないじゃないかと思いながら、累は顔を上げて部屋を見回す。

 服装は昨晩まで着ていたコートとニット帽のままだったが、居場所は劣悪だった。コンクリート製の部屋に鉄柵を並べて作られた檻の中であり、床には薄いマットレスと空っぽの皿、水のボトルや簡易トイレも置かれていた。湿っぽい空気に満たされた部屋には窓すらなく、天井の方からは、バシャバシャと雨粒が打ち付けられるような音も聞こえてくる。

 どうやらどこかの地下室に幽閉されているようだと、累は目を細めながら天井を見上げた。

「やっと目が覚めたみたいじゃねえか」

 不意に声がすると累はイッ!?と声を漏らし、やや朦朧としていた意識に緊張を走らせた。

戸惑いながらも、声がした方に顔を向ける。声の主は真っ黒なハットを被ったスレンダーな男だった。ビール瓶を片手にこちらを観察し、累が発した驚きの声に、ケラケラと笑っていた。

長髪を肩まで下ろし、百合の花の模様が描かれた趣味の笑いマスクで目元を隠しているその男は、小柄な累と比べると一層背丈が高かった。男は瓶を机に置くと、逆の手に握った猟銃を檻の方へ向ける。

机の上には電話や携帯式のラジオも設置されていた。猟銃を手にしたまま何かをボソボソつぶやく男はいかにもな不審さを醸し出しており、何かを言おうとした累だったが、銃口を見つめたまま黙ってしまった。

「坊ちゃん。俺が誰だかわかるか?」

男がそう問いかけるが、当然このような状況から記憶を辿ることはできず、累は首を横に振る。

「わ…わからない…殺し屋、とか?」

累の言葉に男は何も答えず、彼の推察を鼻で笑うだけだった。

累は改めて周囲を見回す。すると、ちょうど檻の中から見える壁の一面に、写真や新聞記事のスクラップが貼られていることに気付いた。1番目立つ箇所に貼られている新聞には、『人喰い男の殺人、新たな犠牲者か』という見出しが大きく書かれている。悪趣味なアートか何かと思っていた累だったが、集められている記事や写真を眺めるうちに、どれも話題の人喰い男事件に関連したものであると認識した。

無残にも食い殺されたような死体の写真が目に入る。先程見ていた夢がフラッシュバックし、累の意識は少し遠のきそうになった。

「どうした?何か気付いたかあ?」

累が壁を見ながら混乱するような様子を見せると、男は再び口を開く。惨殺された死体や血溜まりなどのグロテスクな写真の数々を見つめながら椅子から立ち上がっては、からかうように累に近づいてくるのである。

「わ…わからない!わからないよ!アンタは一体…」

「おっと、口に気をつけた方がいいんじゃないのか?俺が誰だろうと、俺たちの関係は明白だ。『誘拐犯』と『哀れな被害者』。わかるだろ?」

そう言われて累は、男がこれ見よがしに設置している電話やラジオは交渉のための道具であり、自分は拉致されてここに閉じ込められているのだとようやく理解した。しかし尚更男の望みや正体が読めなくなり、事態を飲み込むことができない。

「じゃあこれは…お金のため?僕を殺すつもりはないの?」

累の言葉に少し舐められたと感じたのか、男は「あァ?」とガラの悪い若者のような声を出し、再び銃口を見せつける。

「だから口に気をつけろと言ってるだろうが。別にいいんだぜ?足の1本や2本吹き飛ばしたってよ」

男が脅し文句を垂れると、累は口をつぐみ、壁のスクラップに再度視線を移す。男は不敵な笑みを浮かべると、

「今はせいぜい大人しくしてろ。それとも、大きい袋でオネンネするか?」

と言って檻の中の累を見下ろした。

「前にここに入った奴も生意気だったなあ?ちょうどお前みたいに、ぺーぺーで金持ちの坊ちゃんって感じだったっけ」

男の言葉に累は顔を上げる。そして少し首を傾げながら「あの殺人は、アンタが?」と聞いた。男が口角を上げて少し頷くと、累はため息をついて目を反らした。ようやく状況を理解したかと満足したように男は銃口を下ろす。

『人喰い男』の犯行は、第一の被害者の発見からまもなく一年が経とうとしている現在でも、虻内市を騒がしていた。新たな犠牲者の発見も未だに続いている。男はわざとらしくスクラップの記事を読み聴かせては、「もっと詳しく話してやろうか?」とまで付け加えながらヒッヒッヒと笑った。

一方で累は、鼓動を落ち着かせるようにゆっくり呼吸しながら、数時間前の自分を思い出そうとしていた。

どれくらい眠っていたのかはわからない。だが、昨日負った脚の傷に鈍い痛みが残っていることからして、さほど長い時間眠りに落ちていたわけではなさそうだ。再び周りを見回しながら、数時間前のことを回想する。

累は昨夜、色々あって家を飛び出したばかりだった。

今頃父親や兄たちが彼を血眼になって探しているだろう。家族の仕事を終えた直後に隙を見てバイクを走らせ、食い止めようとする兄を振り切ったのは朝日が登り始めた頃。最後に時計を見たのは朝の5時頃で、疲れきってふらふらだった体をほんの少しだけ休ませようと、公園のベンチに座っていた。

そのままうっかり眠りについてしまい、いつの間にか目の前の男に誘拐されたのだと、累はやっと思い出した。

激しく疲労していたとはいえ、累はやすやすと捕まってしまった自分を責める。そして家族が今どのような行動に出ているのか考えると、繰り返しため息をつくしかなかった。

「お前が何の抵抗もせず、俺がちゃんと貰えるものを貰えたら、お家に帰してやるよ」

男は脅すように言ったが、累は不思議がるように目を大きく開けて、壁に貼られた血まみれの女の写真を見つめた。

「どうして身代金なんて欲しがるのさ?今までの殺人では、そんなことしてこなかったでしょ?」

膝を抱えて座る累に問われると、男は不機嫌そうな口調に戻る。

「殺人鬼だって金が必要になるんだ。ていうか…何を生意気なことを気にしてやがるんだ!」

そう言って男は猟銃を構えてるが、累は数十秒前ほど動じていない様子だった。眉を動かすこともせず、顔色も一切変えないまま、爪先で銃の引き金のあたりを指す。

「外れてないよ?」

「何だと?」

「安全装置。それじゃ撃てないんじゃないの?」

「え?」

つい素の声を漏らしてしまった男は一瞬ハッとして、慌てて悪党風の声色に喉の調子を戻そうとする。だがどうも調子が合わなくなってしまい、「それはどうもご親切にな!」とだけ台詞を吐いて机の方に戻ってしまった。息を整え直した男は、安全装置が付いたままの猟銃を立てかけ、代わりにナイフを握る。

「…勘違いするなよ。暴発しないようにしといただけだ」

「随分律儀なことするんだね」

「口に気をつけろと言ってるのがまだわかんないのか?」

「この水は飲んでいいの?」

「だからその口だ!話を聞けよ!」

男はまたしても立ち上がってナイフの刃先を向ける。しかし累は何も遠慮せず、手の指だけで器用にペットボトルを開けると、床に這うようにしながら水を飲み始めてしまった。

「いやまだ何も……クソッタレ。勝手にしやがれ」

すっかり調子をなくしてしまった男は結局もう一度机に戻ることになり、木製のイスに腰掛け足を組んだ。華奢でボンボンそうな坊ちゃんだと思って累を誘拐した男だったが、状況を理解してもらえているのか検討がつかず、酒瓶に注がれたコーラを荒々しく飲み干すほかなかった。

確か14…いや、15歳とかだったか?チビ野郎のくせに。このガキ、意外にふざけた態度を取りやがる。

男はそう思いながらラジオのスイッチを入れる。今のところは気象情報が放送されているだけであり、身代金を要求する電話すら入れていないこともあってか、この誘拐についてはまだ報じられていないようである。気を失ったように眠っていた累が起きるまで待っていたこともあり、現在の時刻は朝の11時頃になっていた。今のところは何の動きも見られておらず、男はひとまず安堵しつつも、今後の作戦を頭の中で練り始めた。

「ねぇ、僕の鞄は持ってきてないの?」

ふと累が体を起こして尋ねる。男は鬱陶しいと思いながらも、反対側の椅子に置かれた鞄を机の上に移した。

「これのことか?悪いが財布類は取らせてもらったぜ?」

「今は…ちょっと、薬を取って欲しいんだ」

男が「薬だと?」と聞き返すと、累は「常備薬だよ」と答える。いつまにか顔色が悪くなってきており、急に体調を悪くしたのか、緊張によるそれとは違う苦しそうな呼吸を漏らし始めていた。

「どうして俺がそこまでしてやらなきゃならないんだ?」

当然ながら男は断ろうとする。しかし累がうつ伏せに倒れたのを見ると無視し続けることができず、人質に死なれちゃ困るしな、と建前をつぶやくと、仕方なく鞄を開けた。

一度荷物を漁ったこともあり鞄の中はごちゃごちゃになっている。中身をひっくり返すように薬らしきものを探すが、薄い生地のシャツやペンケース、数枚の写真の束が散らばるだけで、錠剤も粉も姿を現さなかった。

「薬なんて入ってねーが?」

「そ、底をずらしてみてよ…パックと吸引器が…入ってるはずだから」

累の言う通り鞄の底は、まるで何かを隠しているかのような二重底になっていた。その下に入っていたケースを手にすると男は違和感を覚えたが、確かにその中には、薬らしい粉末が入った袋とチューブ状の吸引器が入っていた。

男が「これか?」と尋ねれば累は首を縦に振る。

「は…早くしてよ!傷が痛むんだ!」

 累はそう言うと足を伸ばし、足首に少し雑に巻かれた包帯を見せた。累を運び込んだときに男も傷を目にしており、つい先ほどまで出血もしていたのか、包帯の一部が赤黒く染まっている。

「落ち着けよ!今持っていくからよー…」

そう言って檻に近づこうとする男だが、袋の中を覗くと、粉がどこか見覚えのある色をしていることに気付いた。

内側にアルミ箔が貼られた袋には『レモンの香料』と書かれており、持ち上げれば異臭も鞄から漏れ出す。はじめは気のせいかと思っていた男だったが、手足を震わす累を見れば、中身が何か確信した。

「『レモンの香料』は…隠語だよな?…まさかだがこれ、コカインか?」

男がそう尋ねる。累は依然苦しそうなまま

「……常備してる、薬」

とだけ曖昧に答えた。

男は唖然とし、慌てて袋をケースに押し戻した。封をするようにケースも閉ざし、指に付着した真っ白い粉を払いながら、驚愕した表情を累に向ける。

「な…何を考えてやがる!?お前ジャンキーか!?誘拐された身分でコカインなんてやろうとする野郎がいるか!?」

「おい!何で閉じちゃってるのさ!」

体を起こした累は檻の中から叫ぶ。男がその声を無視しながらコカインのケースを床に放り捨てるのを見れば、鎖を引きちぎろうとする勢いで暴れだした。

「何をするんだよ!ほんの少しの情けもかけてくれないのか!」

「こんなものを吸わせてやることの何が『情け』だ、クズガキが!ガキのくせにこんなものに手を出してやがるのか!」

「誘拐犯が説教を垂れるのか!僕がクズならアンタは何だ!」

薬を吸えないとなると累は今まで以上に激しい口調で喚き散らす。男はとんでもない奴を誘拐しちまったと思いつつ鞄の中を荒らし、まだ薬物が入っていないか探した。二重底からは旅の荷物や写真がまたいくつか出てきたが、他に薬の類は持っていないようだった。

「黙ってろ!とにかくその檻の中じゃ、絶対に何も吸わせねぇ!」

そう言って男は檻の方を振り返る。だが累は急に静まっており、空っぽだったはずの皿に何かを乗せて、顔を押し付けている最中だった。再び唖然とする男を蚊帳の外に、累は激しく息を吸い込んで体を震わせている。

その様子を見て、彼のポケットに不自然な菓子の包み紙が入っていたこと、そしてそれを特に気にせず見逃してしまっていたことを、男は思い出した。

「…隠し持ってやがったのか」

累は息を整え直して顔を上げるが、その目はすでに、ちょっとだけハイだった。包みの中身は菓子でも洗剤でもなく、ひとつまみの『レモンの香料』だったらしい。

「常備薬、だから」

やかましい。異常なガキめ。

男は心の中で毒を吐きながら木の椅子に戻った。誘拐された立場でありながら散々喚いた挙句コカインまで吸い始める累に得体の知れなさすら感じて、頭はめまいまで覚えていた。

「1つ聞いてもいい?」

累は呼吸を整え直すと、鎖に繋がったまま壁に寄りかかるようにして起き上がって口を開く。男は駄目だと言ってもどうせ黙らないだろ、とだけ返して、取り出した煙草に火をつけた。

「じゃ聞くけど…アンタは本物なの?それとも役者さんなの?」

質問の内容が随分と飛躍したことに男は驚き、思い切り煙を吸ってしまってはゴホゴホと咳き込んだ。煙草を持つ手も動かなくなる。

「どうも僕を怖がらせたいみたいだけどさ、そこまで露骨に脅す必要ある?あんな趣味の悪いアルバムジャケットみたいな壁まで作って…」

男の様子も気にせず、まるで牢の中から見やすくなるように一面に貼られた写真を指しながら、累は話を続けた。料理にケチをつける専門家のような口調は、男に焦りと苛立ちを与えていく。

しばらくの沈黙が部屋を包む。何も答えない男の代わりに偶然1枚の写真が壁から剥がれ落ち、粘着テープの跡が見えるようになってしまった。

さらに累は床に置かれた陶器の皿を示しては、

「律儀にこんなものまで置いてるし、準備が良いのか悪いのか」

と付け加える。男は睨むような視線を作ったが、彼には臆する様子は全く見られなかった。

「それはイチャモンか?誘拐に対しての」

男はそう言ってナイフに手を伸ばすが、それでも動じない累は首を振る。そして突然に足を振り上げたかと思うと、床に置かれていた皿を、鉄格子の方に思い切り蹴り飛ばした。

勢いづいて飛んだ陶器の皿は、突き破りこそはしなかったものの、鉄格子に叩きつけられて砕け散った。耳を刺すような音が響き、割れた皿の破片が辺りに散らばる。

不意な行動と陶器が砕ける音に激しく動揺すると、男は手に持ちかけたナイフを落としてしまった。累は依然として、変わらない口調と冷静な表情で話を続ける。

「僕だったら、鈍器を牢の中に入れたりしないよ。本物の殺人犯だったら、それくらいの予想はつくでしょ?」

男は、ナイフを拾うこともせず黙り込んでしまう。焦りにしろ苛立ちにしろ口の形をへの字に曲げて、八つ当たりのように机を叩きながらも、思わず累から目を反らす。累は脚を組んで男を見つめた。

「アンタは本物の人殺しじゃない。でしょ?僕を監禁してるのはもっと別の理由があるからだ」

コカインを吸った後とは思えないほど低く落ち着いた声で、累は男の仕事の粗を指摘し言い放つ。推測するような言葉にはしていたものの、探偵が崖際で犯人を追い詰める際に使うような、確信に満ちた口ぶりだった。

男はまだ無言であり、眉間にしわを寄せながら累を見直す。しかし結局、どの質問にも答えを返すことができないままだった。

「誰かに頼まれてこんなことをしてるの?それなら…」

「黙れ!…それ以上喋れば、テメーの喉を掻っ切る」

男は精一杯の脅しを垂れて、累の言葉を遮った。

ようやく累は口を閉ざすが、もはや警戒心の欠片も見せてはいない。男は息をつき直して炭酸がほとんどなくなったコーラを飲みほしたが、かすかに残っている砂糖水の甘さすら感じられず、喉も酷く渇いたままだ。

男は自分の悪運のなさを呪った。

…畜生、図星だ。痛いとこを突かれるとはよく言ったもんだが、ほんの数分の観察だけでここまで滅多刺しにされることがあるか!

多少手荒に扱っても罪悪感が少なくて済む金持ちなんて、この街には何人もいるだろうに。何故ここまでネジが外れたガキを選んでしまったんだと、男は自分を問い詰める。やっぱり他の誰かにチェンジできないかなと、意味のわからない想像まで頭に浮かぶほどだった。

もはや明白ではあるものの、男は殺人犯でもなければ、雇われたプロの人さらいでもない。

男の名前は半崎京吾といい、果てしなく運の持ち合わせがない男であった。彼がここまでの犯行に手を染めた理由も、災厄とでも言うべき、不運の星の下に生まれついたことにあった。

 京吾はそこそこ裕福な家庭に生まれた。それなりに大きな都会に住み、1日に3度の食事と洋菓子を食べ、両親と5歳下の弟とともに、十分な幸せを享受していた。

彼自身も犬とホットドッグが好きな普通の子供として育ち、不幸せや生きづらさなどは一片も感じていなかった。さらに両親はなかなかの資産家であり、2人の息子だけでなく、誰にでも分け隔てなく愛を注ぐことができる人間だった。

京吾も両親に連れられてチャリティーに参加したことがあり、子供の頃の彼は、犯罪などとは無縁な、暖かな心の持ち主だった。人のために尽くすことができる両親がいることを、そしてそんな2人の下で暮らしていることを、彼と弟は子供ながらに誇りに思っていたのである。

だが12歳のクリスマスに、その全ては変わってしまった。

コース料理しか売られていないような高級店で夕食を食べた後、弟が早くプレゼントを開けさせてとねだったことで、一家は裏道を通って家へと戻っていた。普段であれば治安の悪さから通ることのない近道である。

お祝いに浮かれる弟に「着いてこい」と声をかけながら、彼は少し先を走っていた。だがその横を妙な男が通り過ぎれば、何故か京吾は不吉な予感を覚え、振り返って足を止めた。

真っ黒いコートに身を包むその男は2メートルはありそうな長身で、右手には大きな十字型の傷があった。その傷と男の雰囲気は、京吾にかつてない不気味さを抱かせた。

男が両親の方を睨みつけながら歩いているように見えた京吾は、体がゾワゾワとした恐怖に沈んでいき、両親と弟のもとに近づくことができなかった。しかし、「お前たちだな?」と男が声をかけられた両親の表情が凍りついたことだけは、少し遠くから見られた。

その後のことは、京吾の記憶にはほとんど残っていない。ただ、3発の乾いた銃声が響き、両親と弟が声すら発せず地面に倒れ込んだ光景を除いて、彼は何も思い出すことができなくなったからだ。銃に気付いてすらいなかった弟までも射殺した男は京吾には目もくれず、賑やかな街の影に消えていった。

その日から彼の時間は止まった。

これは後になってわかったことだったが、男は殺し屋だったようで、両親の社会的な善行をよく思っていなかったアジアン・マフィアによって送り込まれていた。京吾の両親が違法薬物の広まりに反対しようと運動を始めたことをマフィアが知り、余計な勢いを産む前に芽を摘もうとしたということらしいが、そんな理由は、京吾にとってはもはやどうでもいいことだった。

言うまでもなく、その後の彼の人生は、今までの生活から大きく変わってしまった。幸いにも母親は一命を取り留めたが、重症でまっすぐ歩くことすらできず、夫と息子を失った悲しみで精神をおかしくしてしまった。マフィアを恐れてか、親しかった人たちは皆離れていき、毎日聞こえていた家族の笑え声は消え、代わりに、母親がうめくように父と弟の名前を呼ぶ声だけが響くだけである。父が残した遺産は、親戚に騙されて持って行かれてしまった。

気づけば京吾は、酔いつぶれなければ生きられない青年になっていた。

チンピラも同然になっては、犯罪スレスレのことをしながら日銭を稼ぐ。弟を思い出したくないばかりに、意味もなく夜の街をふらつき、ときには浴びるように酒を飲むという日々を送るようになった。

一方で母親は心身ともに衰弱し続け、今では家のベッドにほとんど寝たきりになっている。喪失感だけが満ちる家ではなく設備が整った施設で治療を受けさせたいが、それには莫大な金がかかり、援助を受けられるあてもない。

必死に金を集めていた京吾だったが、手段を選んでいる余裕はないと覚悟を決めた。その意味では彼にとって、この誘拐作戦は、最後の幸福を掴むチャンスでもあった。母親を助けることができれば、自分の生きる道に意味を見出すことができると思ったのだ。

世間を騒がしている人喰い男の名を語り、それらしい話し方や、過去のケースを律儀に研究した。金さえ手に入ればすぐに逃げられるよう手筈を整え、早ければ明日には、何も知らずに家にいる母親の前で、札束を数えているはずだった。

しかしながら今のところ、計画は何ひとつ上手く行っていない。

人通りがないゴーストタウンの一角にあるボロ小屋を借り、地下室を檻に作り変え潜伏場所としていたが、そう長く身を隠せる場所ではない。騒ぎが大きくなって警察が動けば、逃げることも容易ではなくなるだろう。

どうしてこうなったんだオイ、と京吾は頭を抱える。細身でなよっちそいがお坊ちゃんそうな身なりのガキなら都合がいいぜと考えて九院寺累を誘拐したが、今では檻の中でコカインを吸わせてしまうばかりか、模倣犯であることまで看破される始末である。誘拐犯としての威厳や恐怖はもはや取り戻せそうもなかった。

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