コワレル・セカイ

福山典雅

第1章 ボクラノ・セカイ

プロローグ

 



 道端に唾を吐く若者。


 空に向かって何かを叫び、ただ泣きわめくメイド。


 跪く老人に親切に話しかけているおばさんが微笑んでいる。


 警察官がパトカーで走って、意味もなくサイレンを鳴らす。


 幼児の持つアイスクリームは落ちそうなくらい溶けて傾き、


 信号は光を失くし、猥雑なビラが交差点に舞っている。




「映画みたいに美しくはいかないですね」


 彼女はそう言って笑った。


 不安はないかと聞こうと思ったがやめた。




 ビルの広告では、浅ましいピエロがにやついている。


 遠くで何かのシュプレヒコールが轟いて、

 神経質なクラクションが怒りを込めて参加する。


 子供を抱きかかえた母親の瞳は虚ろで、

 父親は苛ついている。


 自動販売機は夏なのに暖かいジュースを売り、


 ヒステリックな女は気が狂ってハイヒールを折っている。


 誰もが落胆を出し尽くし、後悔は未だくすぶり続けている。


 犬は無邪気に飼い主を励まし、


 黒い日傘をさす女が、着飾って自慢げに歩いてゆく。


 商店街は喧騒を失い誰も歩いてないのに、花屋はまだ花を売っている。


 住宅街を古ぼけた電動アシスト付き自転車が走ってゆき、


 主人を見失った子供達のおもちゃが転がっていた。



 僕は彼女の肩をそっと抱いた。


 見晴らしの良い場所を探して、僕達は何を見ているのだろうか。


 風は穏やかに頬を撫で、陽光が白いシャツに眩しく反射する。



 何もかもが移ろいゆく中で、開店していない店の看板が明滅する。


 時計は正確に時間を刻み、電車は規則正しく走っている。


 スマホはサービスを止めたが、動画は相変わらずアップされ、


 世界中が好き勝手に動いている。でも、これは昔から変わらない。


 バチカンは祈りを捧げる人で溢れ、ロンドンは野蛮人が幅を利かし、


 アメリカは陽気なままで狂気を振りまいて、


 ロシアは沈黙して瓦解してゆく。


 海は静かに波を作り出し、

 その波打ち際で死んだクジラが腐臭を放つ。


 世界中で大勢の人々が黄昏を享受する。


 国境はもう意味を失い、希望は淡く儚い。


 オンラインで悲しみを共有するなんて陳腐だ。


 誰かに何かを伝えたいのなら、いますぐ会いに行けばいい。


 家族も恋人も友人も、そう呼べるうちが大事なのだ。


 夕日を見れるかどうかわからない。


 大多数の人が静かに時を過ごしている。


 君に見せない手紙を、僕は胸ポケットに入れている。


 古風な手書きが好きな君の為に。


 穏やかな朝はもう来ない。


 気だるい気分のまま僕は君を見た。


 僕の贈った指輪が君を守る様に輝いていた。


 もうすぐ僕達はお別れだ。

















「ダイヤモンドには4Cという基準がございまして……」


 厳かに落ち着いた店内で、僕の目の前には35億年前に生まれたという世界で一番硬くて美しい石が並べられていた。


 僕は22歳で来年大学を卒業する。四年間で学んだ事は、社会に出ればきっと数日で消費されてしまう程度に薄っぺらい。大人になるとはそう言う事だ。


 今日は二歳下の彼女に、小さくてなるべく安いイヤリングをプレゼントする為に宝石店に来ている。


 彼女の名前は莉子。とても古風な女の子で、今時ピアスすら開けていない。別にピアスを開けてないから古風と言うのではなく、彼女の僕に対するスタンスがそう言わしめている。


 僕がまず彼女の好きな所をあげるとしたら、名前を「さん」付けで呼んでくれる所。別に年上を敬えとかそういう意味じゃない。僕は彼女に自分の名前を呼ばれると、その何とも言えない響きがとても心地よかった。不思議で懐かしい感覚。呼び捨てよりも何故か親しくも近しく感じてしまう、そんな響きを感じた。


 莉子は控えめな性格だが、小さな所で積極的だ。僕のシャツの襟がよれていると必ず直すし、髪型が変だと優しく一生懸命に修正しようとする。気楽に車にジャケットを無造作に投げとくとキチンと畳むし、ペットボトルを飲む時は必ず蓋を開けてから渡して来る。


 彼女は僕をこまめに世話したがる。その癖初めて手を繋ぐ時は、僕がまるでニトログリセリン爆弾なのかってくらいに慎重に触られ、お祭りみたいに人が多いところでは手も握らず、僕の服の袖を心細く迷子みたいにつまむ。


 彼女は祖母に育てられた。だから「私は恋愛では、ずれてるかも……」なんてしょげて言う。でも僕には彼女の古風さが美徳に感じた。「莉子、今も昔も恋愛で人が考える本質なんて、大して変わらないよ」と返してあげた。


 どんな時代でも、人は誰かを好きになり、そして恋をして悩んで、どうにかして幸せを探すんだと僕は思う。人の心の有り様というのは、ジャンクフードみたいにやたらめったら季節毎に新商品を出すのと違う。


 彼女は僕に向け、「蒼介さんは、一体どこを見て恋愛をしてるんでしょう?」なんて真面目に困った顔をしていた。僕の恋愛観なんて単純だ。彼女に「僕は注意散漫な冒険家みたいに、あまり考えてない」と笑って答えておいたら、ますます困っていた。


 莉子は今時と比べれば古風だ。でもそれはとても美しくて慎重で、何よりも得難い個性だと僕は考えている。僕は莉子みたいに大切な物を丁寧に慈しむ様な、そんな心の距離感を持つ女性をとても愛おしく感じてしまう。


 主張の少ない彼女が唯一その個性を出して来るのは、甘い物を食べる時。フォークを片手に子供みたいに本当に幸せそうに食べている。僕はそういう顔を見ているだけで。素敵なラブロマンス映画のエンディングみたいに、とても満たされた気分になる。





「蒼介さん、どうしますか?」

「どうするも、こうするも……」


 気が付けば僕らは宝石店で、販売員の清楚で綺麗なお姉さんに「見るだけでいいですから……」と案内され、奥にある恭しそうなGケースに連れて行かれ、椅子にまで座っていた。


 店内のBGMはノラ・ジョーンズの「ドント・ノー・ホワイ」が流れていた。あまり婚約指輪を見るにふさわしい音楽とは言えないが、却ってリラックスしてしまうのは仕方ない。


 数十万もするエンゲージリングが、僕らの目の前で無責任にキラキラと輝いている。僕の動悸は密かに跳ね上がり、手汗まで掻いて、ドナルドダックみたいに騒いで逃げ出したい気分だった。


 僕が彼女にプロポーズするには、足りないモノが多すぎる。経済力も包容力も人格も全てにおいて不足しており、極めつけは女性を断固幸福にするという絶対的な覚悟が足りてない。


 結婚というモノは愛だけでは成立しない、と姉が言っていた。


 生活を共にするには最低限の「一緒にいる相性」というモノが必要で、洗濯物の出し方ひとつとってもそれが重要だと言う。まるでマックのポテトをナイフとフォークで食べなきゃいけないみたいな、そんな理不尽なマナーが結婚生活には存在しているらしい。僕にはとても理解出来ない。姉は「愛だけでは許されない事が多い」と断言する。


 みんな恋や愛については美しくも切なく、時に残酷に語る。でも結婚については、式までがそのピークであり、その後は随分と辛辣でシニカルな意見が多い気がする。僕はこれを時間の問題なんて言いたくはない。付き合う数年より、共に生活する数十年が、愛を嫌味なモノに変えてしまうなんて、酷い話だ。


 僕は恋や愛が極まった先がシニカルだなんて認めない。味気ないトニックウォーターにライムを絞る様に、恋や愛の先にはとても素敵な時間が待ち伏せしていると僕は思いたい。


「価格は55万円でございますが、石のグレードからすると、とてもお値打ちなお品になります」


 店員のお姉さん、名札には「倉橋」と書かれている。


 その倉橋さんが0,3ctのエンゲージリングを、白い手袋をはめた手で誇らしげに僕らの目の前に提示する。凄く高い。こんな高額な品を男性は愛の証として贈るのか? 


 僕は結婚という形が失望感でシニカルになる理由を、少しだけ理解させられてしまいそうだった。








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