死なずのベティ

クラン

死なずのベティ

「ご苦労なことで」

 号外から目を上げ、男は欠伸をひとつ漏らした。カウンターに片肘を突いて眺める店内は、普段通り退屈な喧騒に満ちている。魔犬の低い唸り。人面鳥の甲高い鳴き声。きゅるきゅるとネジを巻くような声で会話するピクシー。

 男は舌打ちをして、店内の左右の壁に沿うように天井まで積まれた魔生物の檻を睨む。商品たちは今日も今日とて元気いっぱいだが、朝から客の姿はない。すでに陽も陰ってきて、雨まで降り始めている始末。通りに面した入り口側は、ドアの縁や取っ手を除いて全面ガラス張りになっていて、表に吊るされたガス灯に照らされて雨粒がオレンジに染まっていた。

 男が孤独に営業を続ける魔生物屋『ペットガーデン』は、裏通りに店を構えている。後ろめたい理由があるのではなく、単に家賃の問題だ。ひと月に銀貨六枚。破格の安値だが、当然人通りは少ない。おまけに街の大通りには『ペットガーデン』よりも十倍は規模の大きい魔生物屋がせっせと商いをしているのだから、客などほとんど来ないのが当然である。数年前はそんな驚異的な商売敵もおらず、のんびりと黒字を出し続けていたのが夢のようだと、男は一日に何度もため息交じりに回顧する。

「一等地ともなりゃ銀貨百枚――つまり金貨一枚か。ひと月に払える額じゃねえっての。お前らもそう思うだろ?」

 魔犬が、ぐぅるる、と鳴いた。腹が減ったのかもしれないし、単に唸っただけかもしれない。男には分からなかったが、どちらでも構わなかった。

 あと半時間で店じまいにしよう。そう思って男は再び号外に目を落とす。

「黄金の勇者ねえ……」

 紙面には『我らがベティ、黄金の勇者を返り討ち!』の見出しが躍っている。目出度いことには違いないものの、細々と商いを続ける男にとってはまるで興味の湧かない話だった。勇者だの魔王だの、どうでもいい。

 男は号外をカウンターに投げ出して立ち上がった。重たい足取りで、カウンター裏の扉を開けてバックヤード兼事務所に入る。売り物の餌袋や鋼の檻、ピクシー用の衣装が詰まった箱、魔犬用に魔法加工を施した人骨、人面鳥の調教に使う笛。埃をかぶった商品の数々が目に入り、男はうんざりした気分でジャケットの内ポケットから煙草入れを取り出した。

 手の甲で唇を拭って唾液の湿りを取ると、男は紙巻き煙草を咥え、マッチを擦った。肺が圧される感覚。頭頂部をやわく掴まれる感覚。煙を吐き出し、男は事務机に備え付けられた簡素な木製の椅子に乱暴に腰かけた。灰皿として使っているペット用の小皿は、すでに灰と吸い殻でいっぱいになっている。不精なので一週間は交換しないのだ。四服目を吸って落とした灰は、薄汚い灰色の小山を転がって机にこぼれた。

 ドアベルが鳴ったのは、男がちょうど床へと灰を払った直後のことである。店に続くドアと火の点いた煙草を交互に見比べ、一瞬の逡巡ののち、灰の山に煙草の先端を慎重に突っ込んだ。

 閉店間際にわざわざ入ってきたことをむしろ迷惑に感じながら、店へと続く扉を開け放つ。

 天井から吊るされた丸い照明が放つオレンジの下で、やけに背の高い女が檻をじっと見下ろしていた。しゃがみ込むような素振りはなく、最下段の魔犬に視線を注いでいることは男にもすぐ分かった。が、はっきりと視線の行方が知れたわけではない。彼女の付けた髑髏の仮面がちょうど最下段へと向いていただけのことだ。

「いらっしゃい」

 男が言うと、女は顔を上げ、ほんのりと会釈をした。真っ赤な羽根がひとつ付いた鍔広の帽子。黒のコートは見るからに仕立てが良い。金ボタンをキッチリと首元まで留めている。

 召使いでも探しに来た魔女だろうか、と男は訝った。が、女が再び魔犬へと視線を落とすのを確認して、すぐに考えを打ち消した。こいつはペットが欲しいだけの金持ちだ。身なりもいいし、口元以外は仮面で隠しているあたり、どこかの世間知らずな令嬢かもしれない。

「ペットをお探しで?」

 ぐぅるるる! 女の足元に近い位置で、魔犬が唸る。頼むから大人しくしろよ駄犬、と男は内心で舌打ちをした。

 魔生物のなかで、魔犬はとびきり不人気だ。蜘蛛に似た複眼と紫色の毛、そして鋭い牙と爪を除けば犬と同じ風体。なのに餌代は犬の何倍もかかるうえ、頭が悪く、調教が困難とされている。取り柄といえば忠誠心くらいのものだ。それなりに希少なので値段も張る。

 安価に仕入れることが出来て餌代もほとんど不要、知恵も愛嬌もあるピクシーのほうが何倍も需要はある。

「この子にしようかしら」

 女の指が、すらりと魔犬を指す。その仕草に見惚れていた店主は、思わず聞き返した。「え?」

「この子をください」

 しめた、と男は口元に笑みを浮かべる。ピクシーは売れても大した金額にならないが、魔犬は別だ。それに、見る限り女は魔生物に詳しくない。魔犬など選ぶあたり顕著である。身なりもいいし、上手くすれば大金をせしめることが出来るかもしれない。

「では、魔犬の飼育について詳しくお教えしましょう。せっかく選んでいただいたのですから、より素敵な日々を送れるようにグッズも見繕って差し上げますよ」男は入り口まで足を運び、表の看板をCLOSEに変えた。「どうせこれ以降はお客も来やしません」

 男は先ほどまでの倦怠など一切感じさせない笑顔で、カウンターの向こうに椅子を移動させた。そして自分用にと、事務所から一脚の椅子を持ってくる。

「随分と親切ですのね」

 女はほんのりと微笑して、髑髏の仮面を外す。刹那、男は「ぉ」と短く声を上げてしまった。ぱっちりした目は瞳が宝石のごときブルーで、鼻は一般よりも少々高い。肌は雪のような白で、染みも黒子もなかった。齢は二十代にも三十代にも見える。童顔の四十代にも見える。いずれにせよ、男の抱いた感想はひとつ。

「すげえ美人だ」ぽかんと思ったままを口に出してから、男は焦って捲し立てた。「あ、いや、すみません。ついお美しかったもので、へへ」

 気を悪くして帰られたら今夜は後悔で眠れそうにない。なんとしてでもこの女には不良債権たる魔犬を買い取って貰う必要がある。そんな一心で男は必死に取り繕った。女はと言うと、ニッコリ小首を傾げただけである。それがなんとも天然自然の媚態に感じ、男は調子に乗りそうになる自分を抑えるのにひと苦労だった。

「まあ、とりあえずお掛けになってください。まずは契約書をご用意します」

 棚から契約書を取り出し、カウンターに置いた。

「コートを脱いでも?」

「ええ、もちろん。ハンガーは事務所ですから、帽子と仮面も一式お預かりします」

「ありがとう」

 女の自然で親密な笑顔に、男は頬がゆるむのを必死で抑えなくてはならなかった。相手は女である以前に客だ。ここで魔犬を処理出来たら今月の赤字も回収出来る。

 バックヤード兼事務所に入り、ドレッサーを開け、コートをハンガーにかける。仮面と帽子も収めたときに、コートのポケットがちらと見えた。内側に煌めく光を男は見逃さなかった。

 金貨。それも一枚や二枚ではない。少なくとも五枚。

 ピクシーは銀貨十枚。人面鳥は銀貨五枚。魔犬は銀貨九十枚が相場である。男がこっそり変装して大通りの魔生物屋に行った際も、個体ごとに違いはあれど概ね差異はなかった。

 呼吸を整えて店へと戻ると、女はしゃんとカウンターの向こうに腰かけていた。熱っぽい視線で魔犬をじっと見ている。

「お待たせしました」

「いえ、大丈夫ですよ」

 女は豊かさと寂しさの入り混じった、どこか艶っぽい微笑を目と口に浮かべた。

「それでは、魔犬についてご説明しましょう。その前に、値段をお伝えした方が宜しいですかね?」

「ご随意に」

 女の返事には余裕があった。金額を気にしている雰囲気は少しもない。

「魔犬は大変忠誠心が強く、そして希少です。貴女が熱心にご覧になっていた種は特に、あー、特に、希少です」

 この店にいる魔犬は一体だけである。しかも先代の置き土産だ。先代が仕入れたらしく、店を継いでから数日後に突然魔犬が届いたので驚いたのを男はぼんやりと思い出す。

「それで、値段ですが」唇をそれとなく舐める。唾を呑み込む。「金貨……二枚の価値がございます」

 つい相場の倍以上の値付けをしてしまったことを、男は苦々しく思った。本当は金貨一枚と言うつもりだったのだ。それでも充分吹っかけたほうなのだが、『金貨』と言った瞬間に、ポケットの内側の金色が頭を過ぎり、一枚が二枚になっていた。

 さすがに断られるだろうと踏んだが、女はよほどの世間知らずなのか「構いません」とあっさり言ってのけた。金貨三枚でも快諾しそうな雰囲気があった。

 魔生物の購入に関して細々と記された契約書。その種別欄に『魔犬』、金額に『金貨二枚』と走り書きすると、男は契約書を反転させた。「それではまず、こちらにサインを」

 女はペンを受け取ると、さらさらと動かした。女は契約書の内容をろくに読まず、『ルアール家』と記して反転させる。

 貴族は家名で書類を記すことを許されている。あれだけの金貨をポケットに忍ばせている以上、貴族の関係者だとしても違和感はない。ただ、男が契約書を見つめて首を傾げたのには理由がある。どこかで聞いたことがある家名なのだ。しかし思い出せない。

「確かに、受け取りました。支払いは後ほどで結構です。ひとまず魔犬の飼育についてお話ししましょう」

 男は家名について考えるのをやめて、事務的な手続きをさっさと進めてしまおうと決めた。そして魔犬の特徴をシンプルに述べ、バックヤードで埃まみれになっている魔犬用の玩具について熱弁した。魔犬は玩具を与えればご機嫌だが、飽きっぽい。常に五種類は玩具を持っておくと退屈しないでしょう。ブラッシングもしてあげたほうが宜しい。魔犬の毛並みに合わせた専用のブラシを是非。首輪も高級品のほうが箔が付きます。大食漢なので、餌は最初にたくさん買っておいた方が楽ですよ。魔犬用の小屋も必要ですね、格安で注文を承ります。等々、男は勢い込んで話した。もちろん女の反応を見つつ。彼女はひとつ品を紹介されるたびにこっくりと頷いて「それも買います」と言うものだから、ついつい興が乗ってしまった。小屋と首輪は断られてしまったが、それ以外はすべて男の意のままだった。

「魔犬を含めて合計で金貨二枚と銀貨十枚、銅貨が六十七枚ですが……銅貨はオマケしましょう。金貨二枚と、銀貨十枚きっかりです」

「それなら金貨三枚でお支払いしましょう。お釣りは結構です」

「は? いや、そんなそんな――」

 女は不安げに眉尻を下げる。「金貨以外持っていないのです。ご迷惑でしたか?」

 迷惑などあろうはずもない。が、男は却って心配になってしまった。この女は、金貨の価値をまるで知らないのではないか。どこまで箱入りなのだろう。

「分かりました。金貨三枚で結構です」

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる女に、なにがありがとうだ、こちらこそありがとうだ、と喉元まで出かかって、なんとか声に出さずに抑えた。

 不意に、女がカウンターに放置されていた号外を手に取り、ぼうっと眺めた。

 訪れた静寂を雨音が埋める。外では先ほどよりも激しく雨が降っていた。大きな粒がウインドウにぶつかって砕ける。ガス灯が明滅する。室内の電球が、じぃじじ、と鳴る。ピクシーも人面鳥も黙っていて、魔犬だけが低く唸っている。

 そういえば、と男は思い出した。魔犬が届いて数日後、先代の店主がわざわざ訪ねて来て、魔犬は絶対に売れるのでなにがあっても手放さぬよう、しつこいくらいに言っていた。そして男に書面での契約を迫ったのである。魔法の籠められた、絶対順守の契約だ。内容としては、魔犬を常に一頭、店に置くこと。つまり、売れたらすぐに仕入れなければならない。先代があまりにしつこく迫るものだから男も根負けしてサインしたわけだが、とんだ外れクジを引いたものだと後悔したものだ。結局先代から店を譲り受けてからというもの、魔犬が売れたのはこれが最初になる。これまでの餌代は馬鹿にならない。

「少し、お話しをしても宜しいですか?」

 女はいつの間にか号外から目を離して男を見ている。追憶に耽っていた男は、彼女の言葉と視線にどきりとした。女の瞳には媚びたような潤みがある。

 唾を嚥下し、男は下品にならないよう注意して微笑んだ。「どうぞ。魔犬の話ですか? それとも世間話? いくらでも付き合いますよ」

「内緒話です」

「ほう。そりゃいい。俺の口は堅いですよ」

 ついつい『俺』などと言ってしまったことを悔いた。が、それも一瞬で消え去る。この場合、むしろ馴れ馴れしいほうがいい。

 号外を持つ、女の白い指。そこに指輪の痕跡すらないことを確認した。貴族の箱入り娘。彼女が望めば、今後何度も逢引き出来るだろう。それこそ、閉店間際に魔犬についての相談を装って来店すればいい。

 男はさらに想像を加速させる。

 ――いらっしゃい、おや、どうかしましたか?

 ――ははぁ、なるほど、聞きましょう。

 ――それで、本当の用事はなんです?

 帰り際、女はカウンターに銀貨数枚をそっと残していく。男はそれに気付いていながら、親切心からなにも言わない。

「ベティのことはご存知?」

 不意に名前が出て、男は妄想を中断した。「え? ええ、名前は知ってますよ。死なずのベティ。有名人です。俺たちの英雄と言ってもいい」

 男の視線は自然と号外に吸い寄せられた。

 この大陸には人間と魔人が存在する。それぞれの国がそれぞれの国を敵視しており、歴史上何度も戦争を繰り返してきた。当然勝者は存在するわけだが、一方の種が殲滅されるようなことはなく、敵の領土を統治しては失敗し、革命、独立宣言、戦争……歴史の上で何度も人々が血を流してきた。人間は、魔人の頂点に君臨する魔王を倒さねばならないし、魔人は立ちはだかる人間を殺さねばならない。それが魂に打たれた楔であり、取り除くことは出来ないと発表した学者もいた。DNAだとか聞いたことのない理屈で立証したらしいが、男は疎いのでさっぱり分からなかった。肝心なのは、互いの国は常に争わねばならないこと。厳密に言えば、勇者と、魔王を含む一部の魔人が絶対の敵対関係になければならないという点である。

 代理戦争が現在の形式に落ち着いたのは、およそ千年前のことらしい。人間側は常に勇者を旅させる。ルートは魔王の居城まで厳密に定められている。その途上に、魔王の配下である魔人を配置する。勇者は順番に彼らを討伐し、魔王を討つことを目的としていた。まあ、魔王を討った勇者は呪いを受けて次の魔王になるわけだが……。

 千年前に生まれ、現在まで維持されているシステムは、宿命を経済活動に転化したものである。勇者が幹部の魔人を倒すごとに、魔王名義で人間の王城へ一定額が送金される。逆に、対象外の魔人に危害を加えようものなら人間側が魔王へと罰金を納める。そして、対象の魔人以外が勇者を傷付けた場合、魔王が人間側に罰金を納める。

 上手く出来たシステムだ。おかげで皆は人間だの魔人だの、政治だの宿命だの、繊細微妙な問題からは距離を置いて生活出来ている。勇者に来てほしいとさえ思っている地域も多いと聞く。罰金制度のおかげで、羽振りのいい勇者御一行は魔人にとっては都合のいい商売相手だ。勇者の側も、決して自分たちが危害を加えられることがないと知っているものだから、安心していられる。中には魔人の土地を観光して、たっぷりのお土産を自国に送る奴もいたらしい。

 女の口にした名前。号外の主役。死なずのベティ。その魔人は、魔王城の手前に位置するこの地域の守護者である。魔王の幹部であり、当然勇者とぶつかる定めにある。

 魔人にも人間と同程度の寿命があるのだが、ベティは五百年もの間、生き続けているらしい。そして幹部に任命された五百年前から、勇者に敗北したことは一度たりともない。

「これからお話しすることは、ごめんなさい、口外無用でお願いします」と女は言う。

「なんだい、まさかベティが死んだって?」

 冗談のつもりだった。

「実は」女は、さっと目を伏せる。「その通りなのです」



「まず、驚かせてしまったことを謝ります。でも、どうか落ち着いて聞いてください」

「誤解を与えてしまうかもしれませんが、誰でもいいからこの話をしたいわけではないのです。貴方に聞いていただきたいんです。貴方じゃなければ……」

「ところで、先代の店主さんは今もご健在ですか? ……そう。ついひと月前に。それはご愁傷様です」

「ごめんなさい、どうかおかまいなく……。ええ、お察しの通り、私は先代の店主さんと面識がございまして……随分とご無沙汰したものですから、このお店がとても懐かしくって。小さい頃に良くしていただきました」

「ハンカチ、洗ってお返ししたいのですけれど、生憎……。金貨一枚で買い取っても宜しいかしら? ああ、でも、こんなふうに言うと金満家に見えてしまうかしら……」

「お優しい方……。先代の店主さんもそうでしたけれど、貴方も素敵な紳士ですね」

「ふふふ。冗談もお上手」

「そう、ベティの話でしたね。少し長くなってしまいますけれど、はじめからお話ししてもいいかしら……?」

「本当にお優しい……。では、お言葉に甘えて」

「これからお話しするのは、ベティと私にまつわることです。それ以上でも以下でもありません」

「いえ、愛人などではありません。私は昔、ベティに引き取られたのです。召使いとして」

「当時の私は酷い悪戯っ子で、我ながら恥ずかしくなってしまうようなことばかりしていました。ベティの気に入っていた花瓶を割ってしまったり、手入れした花壇を滅茶苦茶にしてしまったり……。もちろん、悪意なんてありませんでしたよ。気を引きたかっただけ」

「ええ、叱られました。でも、たしなめるくらいで、すぐに許してくれましたよ。本当に、なんだかこう言うと妙な気分になってしまうのですが、ベティは優しかった」

「どうかおかまいなく。でも、貴方にはぜひお飲みになっていただきたいわ。なにせ長いお話しですし、私も性急に語りたいとは思ってませんもの……。ご迷惑でなければいいのですが」

「では、お湯が沸くまでの間にもう少し。……先ほども花にまつわるお話をしましたが、そう、ベティは殊に草花を愛しておりました。特にラベンダーを気に入っていましたっけ……。ラベンダー、貴方はお好き? そう……そうですよね。殿方はそれでいいと思います」

「やはり、ご存知ありませんでしたか。ベティは女性ですよ。……驚かれるのも無理もありません。魔王の幹部は世間に顔を出してはいけない決まりになってますものね。それに、勇者を倒すだなんて、ちょっと野蛮な感じが致しますもの。でも、ベティはれっきとした女性です。ちょっと魔法に長けているだけの……」

「そうそう、ベティはお料理も好きでした。お料理と、お花と、あとは私にかまってくれるだけ。日がな一日、そんな具合に過ごしていましたっけ」

「魔法の勉強なんて、し尽くしてしまったようです。もちろん、魔法学会の機関紙は定期購読してましたし、ほかにも魔法関連の新著が出れば必ず取り寄せていました。そう、本もよく読んでましたね。先ほど申し上げた実用的な書物以外にも、戯曲や叙事詩、小説にも手を出していたようです」

「私の教育も熱心にしてくれました。お恥ずかしい話ですが、私はかなり物覚えが悪くって。特にお手洗いがちっとも覚えられなくて――」

「あら、ちょうどお湯が沸いたみたいですわ。変なタイミングね。ごめんなさい、品のないお話をしてしまって」

「あら? 私の分も? いいのかしら、こんなに良くして貰って。ありがたくいただきます」

「嗚呼、美味しい……」

「ええ、そうです。ベティは未婚ですよ。五百年前からずっと。寂しくはなかったようですね。お花とお料理と読書、そして私。それだけで満足していたようです。私の物覚えの悪さも、それなりに楽しんでいたようですわ。今となってはよく分かります」

「言葉を教えてくださったこともありました。結局あまり身に付きませんでしたけれど、なにを話しているのかは分かるくらいにはなりましたね……。ふふふ。ええ、昔の話です」

「本当に美味しい紅茶ね。雨音と紅茶と夜。素敵な組み合わせですね」

「もうこんな時間……。お時間、本当に大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。あと少しでお話しすべきことも終わりますから、ご安心なさって、どうか楽に聞いてくださいね」

「ひと月前から、ベティが急激に衰えたのです。まずは体力がなくなり、日に日に注意力がなくなっていって……。三日ほどで寝たきりになってしまいました。肉体は瑞々しい若さを維持していますのに、まるで老人のような雰囲気でした」

「なぜ、ですか。もちろん、きちんとした理由はございます。ただ、専門的な魔法の話になってしまいますので、ご理解いただけるかどうかは……」

「そうですね。簡単に申し上げますと、ベティは魔法で契約した相手が亡くなるまでは、決して老いることはないのです。一度に契約できるお相手はひとりまで……。もちろん、長命な魔獣とは契約できません。あくまで、魔人や人間相手の契約です。そして契約相手が亡くなってからは、再度別のお相手と契約することはできません」

「そう、ベティは決して肉体的な意味での不死者ではありません。絶対に死なないなんて、世間の人が作り上げたイメージです。とはいえベティは、その分野に大変な興味を持っていたとは言えます。肉体的な意味ではなく、別の方法でベティは不死を実現しました」

「端的に申し上げますと、継承です。自分の身体を継がせることができるのです。記憶も含めて。ただ、普通の方法では無理です」

「寝たきりになったベティは、切れ切れの声でなんとか私を呼び、こう命じました」

「私を喰いなさい」

「しっかり聞いてくださいね。必要なのは、なるべく誤解なく知ることですから」

「私はベティを喰いました。哀しかったけど、命令ですもの。私は物覚えが悪くて、賢さとは程遠い存在でしたけど、忠実であろうとしました。……ベティがどうして私を大事に育ててくれたのか、そのときにはもう分かっていました。この瞬間のために――自分を喰わせるために、私を育ててきたのです」

「好きな人を食べるって、とても変な表現ですけど、これ以上ない愛情だと思います。私はベティとひとつになりたかった」

「そして私は、魔犬からベティに成ったのです。五百年前から代々、そうしているように」



 男はカウンターの椅子に座り、空になった檻を眺めて煙草をふかしていた。灰皿はない。床で踏み消せばいい。

 カウンターの上には金貨が山になっている。一生暮らしていけるほどの大金と言ってもいいくらいの額である。女が置いていったのだ。今回の勇者はポケットマネーが多かったと言って。

 女は、男に何度も謝罪した。魔法による契約は必要なプロセスさえ踏めば、相手に気付かれないうちに口頭で済ましてしまうこともできるらしい。彼女は懇切丁寧に、実は契約を結んでしまったのだと言って頭を下げたのだった。

 男は、自分の命が街の英雄の衰弱とリンクしている事実を、ぼんやりと考えてみる。不死者の命と、平凡な商売人の命。なんともちぐはぐだ。

 カウンターの上には、金貨とは別に帳簿が開いてある。ご丁寧に五百年前から今日までの記録が、きっちり残っていた。『ルアール家』は五十年刻みで魔犬を買いに訪れるお得意様だ。女の家名に見覚えがあったのも無理はない。帳簿を開いたのは、なにも今日がはじめてではないのだから。

 勝手に契約をしてしまったお詫びにと、女は大量の金貨を渡したのである。それでもなんだか申し訳なさそうだった。望めば抱けたかもしれないが、もはや男にそんな気力などなかった。

 深く椅子に凭れ、ひたすら紫煙をくゆらせる。

 五百年分の記憶と感情。男はそれに思いを馳せてみたが、寿命以上のスケールの物事など計りようがない。唯一想像できるのは、五百年の魔法の研鑽を相手にして勝てる者など誰ひとりいないだろうということだけだった。おそらくベティに終止符を打つのは、彼女自身か、あるいは彼女と命を繋いだ者だけだ。

 男はふと思う。

 ベティは、ベティであることを辞めたがっているんじゃないか。

 煙草が唇からこぼれ、床に落ちた。男は吸殻を踏み消しがてら、立ち上がる。窓の外では相変わらず雨が降り続いていた。今夜は止まないだろう。たまには獣臭い店で夜を過ごすのも悪くないかもしれない、と男は思って、ため息とともに首を横に振った。

 そうして明日を待つ前に、彼は店を継いでくれそうな奴を何人かリストアップし、魔犬の卸売り業者への購入希望書をしたためた。

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死なずのベティ クラン @clan_403

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