良妻賢母の良子さん
シモルカー
良妻賢母の良子さん
――噂があった。
噂といっても陰口ではない。むしろ、いい噂だ。
2丁目の
近所でも有名な良妻。
今の時代珍しく、古風な印象の強い彼女は、夫の三歩後ろを歩くような人で――常に旦那の事を考え、行動している。
朝は旦那より早くに起床し、朝餉の支度をし――旦那が起きる頃には、食事だけでなく、新聞や仕事用の鞄まで用意されていて、すぐに出勤できる手はずが整っている。
出かける時も、必ず玄関まで見送りし――磨き立てたの靴を用意し、鞄を手渡してくれるそうだ。
旦那が留守の間も、家事をさぼる事なく、清掃業者にでも依頼したが如く、塵一つない。
そこまで完璧に家事をこなすのなら、他は何も出来ないのかと思われがちだが、そんな事はない。
少し引っ込み思案な節はあるが、ご近所付き合いも良好であり、最初彼女を警戒していた所謂ママグループのリーダー的存在の人も、嫌味をいっても眉一つ動かさない彼女に、徐々に好感を抱くようになり――最終的には、彼女の先輩ママとして、或いは姉的存在として、彼女を庇護する側へと回った。
また、旦那の事業が失敗しそうな時も、彼女の的確な指示のおかげで会社経営が傾かずに済んだ事もあったらしく――。
そんな具合に、良子さんは完璧である。
妻として、完璧な彼女を――みんな口を揃えて、こう呼んだ。良妻、と。
これは、そんな穢れを知らない良妻を襲う、恐怖の物語――。
*
AM6:30――。
朝、炊きたてのご飯の香りで目が覚めた。
まだ覚醒しない意識のまま身を起こすと、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいた。
――もう朝か。
僕は軽く関節を伸ばしながら、まだ温かい布団から出た。
「……はぁ」
昨日は夜遅くまで上司の飲み会に付き合わされたせいで、頭が回らない。出来ればまだ寝たい所だが――
「ダメですよ。まだ連勤の真ん中でしょう?」
彼女が呆れたように目尻を下げながら言った。
そうなのだ。まだ週の真ん中であり、休日には程遠い。
――いい加減に目を醒まさないと。
そう思って、いつもより念入りに顔を洗う。
石けんで脂を落してすっきりしたまま、手探りでタオルを探すと――
「はい、どうぞ」
ありがとう。
彼女がタオルを取ってくれた。まだ洗剤の香りがするタオルで顔を拭き終わると、彼女が笑顔で挨拶をしてくれた。
「おはようございます。もう朝ご飯出来ていますよ。和食でよろしかったですよね?」
うん。
「そうですか、良かった」
本当に安心しきったように、彼女は嬉しそうに笑った。
そんな顔をされると、こちらまで嬉しくなってしまう。
「朝は和食……っと。ちゃんと覚えておかないと」
どうして?
僕が問うと、彼女は当然のように答えた。
「ちゃんと旦那様の好みに合わせたいじゃないですか。その……私、ずっと結婚というものに憧れていて」
女の子だからね。
「もう、からかわないでくださいよう」
本当に気恥ずかしそうに彼女は言った。
「私、小さい頃は身体が弱くて、ずっと田舎で療養していたんです。両親は仕事が忙しくて家を空けがちだったせいか……私のためだって分かってはいても、やっぱり寂しい」
そうだったんだ。
「いつもおうちの中にいたせいか、温かい家庭というものに憧れていて……だから、こうやって、朝起きて旦那様に挨拶して、朝ご飯作って……今が、一番幸せなんです」
そうなんだ。
「あ、ごめんなさい。朝の忙しい時に話し込んでしまって。さあ、朝ごはんにしましょう」
髪をかき上げながら笑う彼女を見て、僕も「結婚するのも悪くないな」って思った。
僕も、ずっと一人暮らしだったせいか、他人のいる朝というものに慣れない。だけど、こうやって誰かと過ごす朝っていうのは、新鮮でいいものだ。
一人暮らしの僕には、想像もつかなかったけど――。
「はい、温かいうちにどうぞ」
そう言って、彼女がテーブルに並べた料理は、どれもいかにも朝ご飯というメニューばかりだった。
炊きたての白いご飯に、アサリの味噌汁。鮭の塩焼きに、野菜の煮物。そして、香ばしい香りが漂う緑茶。
「二日酔いにはアサリの味噌汁がいいですからね。それと、日本人には、コーヒーよりも濃いめのお茶の方が目が覚めるそうですよ。お隣にご挨拶にいった時に頂いたブレンドのお茶で……」
どれも、最高に美味しかった。
朝はいつも忙しくて、トーストとブラックコーヒーだけだったから。
朝ご飯をゆっくり食べるのが、こんなにも幸せな事だと思わなかった。
「コーヒーばかり飲んでいると胃に悪いですからね。たまには、緑茶にしてみてください」
確かに濃いめの緑茶のせいか、脳が一気に覚醒した。それに、やはりブレンド茶。舌触りが良くて、美味しい。
「そんなに気に入りましたか? なら、水筒にも、淹れ立てのお茶をいれておきますね。熱いので、気をつけてください」
そう言って席を立った彼女の後ろ姿を見て、僕は「本当に結婚っていいな」と思った。
「うん? どうかしました?」
ちょっと気になる事があって。
「あら? 味付け濃かったかしら」
ううん、朝ご飯は最高に美味しかったよ。
「あ、ありがとうございます。最高の褒め言葉です」
ただ――
「はい」
君って――
誰?
……
……
……
「え?」
長い沈黙の果て、彼女はキョトンとした顔で首を傾げた。
その様子は小動物のようで愛らしいのだが――目に一切の感情がなく、不気味だ。
「私は、あなたの妻ですよ」
当たり前のように、彼女は言った。
「さっき、話したじゃないですか。私、結婚するのが夢だって。ずっと温かい家庭が欲しかった、って。だけどね……結婚って、一人じゃ出来ないんですよ?」
あ、やばい。
僕がそう本能で感じ取った時は既に遅く――彼女の顔がすぐ目の前にあった。
「夫婦は、一人じゃ出来ないんです。結婚は、一人じゃ出来ないんです。温かい家庭は、一人じゃ出来ないんです。良妻賢母は、一人じゃ出来ないんです」
不気味な程に無邪気な笑顔で、彼女は言う。
「私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です。私は、あなたの妻です」
呪文のように、ひたすら彼女は続けた。
脳内に直接言葉をぶつけられたようで、頭がおかしくなりそうだ。
僕が頭を抑えてしゃがみ込もうとすると、それを阻止するように、彼女が僕の股の間に足を突っ込んだ。
そして、倒れかけた僕の身体をネクタイを引っ張って無理やり立たせ――眼前に触れそうな距離で、彼女は、言った。
「私は、あなたの、妻です」
*
AM9:30――。
『――ええ、今朝未明。
男性の遺体が、発見されました。
ネクタイで首を絞めていた所から、警察は自殺の可能性が――』
イヤホンから、朝のラジオニュースが流れる。
それを聞きながら、彼女は鼻歌交じりで歩く。
――独身男性、遺体で発見。自殺か?
そう小さく書かれた見出しの新聞を脇に挟みながら、彼女は歩く。
「あのーすみません」
後ろから話しかけられ、彼女はイヤホンを外し、振り返った。
「今朝のニュースご存じですか? 独身の一人暮らしの男性が、室内で首を絞めて死んでいたってやつなんですが……」
マスコミらしき男性が問うと、彼女は不安そうに眉を下げた。
「ええ、私も近所だから驚きました」
「彼の事、ご存じだったりします? 人間関係のトラブルとか、仕事でミスッたとか」
「いいえ……」
彼女は軽く首を振った。
「私は、おうちの事で手一杯で、あまり外の事は詳しくなくて……」
「あー、そうですよね。すみません、お時間取らせちゃって。やっぱり独身ゆえの孤独からかな……勤務先でも、そんな素振りなしみたいだし、今回は空振りか」
「そうですね……もし、彼に生涯連れ添ってくれる妻さえいれば、幸せな未来が待っていたかも知れませんね」
「え?」
「きっと、彼には、妻がいなかったんですよ。支えてくれる奥さんさえいれば、彼はきっと温かい家庭を築く事が出来たかも知れないのに」
「あー、そうかもね」
「記者さんも、そう思いませんか?」
「いやぁ俺も独身だから何ともね。まあ、だけど……確かに、うちに帰ったら奥さんがご飯を作って待っていてくれたら、最高に幸せだろうね」
「へぇ、そうなんですか。ところで、記者さん……おうちは、どちらですか?」
近所でも噂の良妻賢母の良子さん。
彼女が何処の家の妻か知る者はいない。
ただ一つ――彼女が、献身的で家庭的な良き妻という事だけ、みんな知っている。
良妻賢母の良子さん シモルカー @simotuki30
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