お江戸人外珍道中

だんぞう

第一里 裸の男の腹の上

 彼が目覚めたのは裸の男の腹の上だった。

 しかし裸の男とはいっても恋人でもなければ行きずりの娼夫でもない。しかも全裸というわけでもない。

 彼の下に居る男は唯一マワシをつけていた。

 さらにはマゲを結い、見るからに力士然とした筋肉質で恰幅のいい男。

 彼は右手を男の胸元へと当てる。

 心音は感じない。

 自分を受け止めてくれたショックで死んだのか――と思考し始めて違和感に気付く。

 彼自身の記憶が不完全であることに。


「……んっ」


 若い女の声が、彼のすぐ近くから。

 赤いコートに長い黒髪の女が、また別の力士の如き男の腹の上にしゃがみ込んでいた。

 彼の位置からは見えない女の顔には不自然に大きなマスクが装着され、コートの裾から赤いハイヒールを履いた白く美しい脚を突き出している。

 さらにもう一人、両手で顔をこすっている美少年。

 髪と瞳の色は明るい栗色で、インターナショナルな面差し。

 少年の下にも力士のような男。

 誰も乗せていないもう一人を合わせると、横たわる力士のような男たちは計四人。

 その中で最初に動いたのは、彼だった。

 彼は男の腹の上から降り、地面の素材が土であることを確認する。

 続けて周囲を見回すが、濃い霧のようなものが視界を遮っている。

 彼は霧の中へ踏み入れた足を、数歩で止めた。

 何かを踏んだから。

 地面から何かが出っ張っていた。

 身を屈めてそれに触れた彼は、素材を藁だと判断した。


「形状としては土俵に似ているのか」


 彼は左手で顔を覆い中指で眼鏡を直そうとして、眼鏡がないことに気付く。

 瞼を咄嗟に閉じたのは、白目のない目を隠すため。

 その目を眼鏡で隠さなければならない、という記憶は失わずに済んでいた。

 目を閉じたまま、靴先の感覚で土俵の外側をさらに探ろうとする――だから見えなかった。

 彼の正面に立ち込める霧の変化に。

 霧が、彼らの下敷きとなっていた屈強そうな力士たちと同じ姿に収束してゆくのを。

 その現象は彼の前だけに留まらない。少年の傍らにもう一体、女の傍らには二体。

 霧の力士たちはその姿を顕在化させたと同時に襲いかかった。彼に、女に、少年に。

 三人の中で女だけは反応が早かった。

 謎の動きを見せる霧を一瞥した女は一呼吸置く間もなく手刀を横一閃いっせんして応える。

 しかし手刀は霧の中を手応えなく通過するだけ。

 女の手の振りならば、それが真の霧であれば確実に空を裂き僅かでも上下に分かれそうなものだが、霧状力士たちは形を崩すことなく女につかみかかった。

 一体の霧状力士が張り手のように突き出した平手が女の顔へとめり込む。

 女の顔が歪むことはなかったが、口元を覆う大きなマスクをもすり抜け、次の瞬間その勢いのまま一体分の霧状力士の全身が女の顔、いや口の中へと吸い込まれた。

 女は状況を理解できず自分の口を覆ったが、もう一体も同様に女の指の隙間を抜け口の中へと消えた。

 慮外の出来事に目を見開く女は、その視界に映った少年に気付くと、瞬く間にその傍らへと跳ぶ。

 少年を押さえつけようとしている霧状力士へ手刀を突き立てようとして、手が止まる。

 女の体を金縛りが襲っていたのだ。


「動けっ!」


 女は体を震わせると、もう一度腹の底から叫ぶ。


「動けぇぇっ!」


 叫びと共に腕を振り抜き、その指先が霧状力士の頭部へと届く。

 だが届いただけ。

 何の手応えもなく指は霧状の何かの中を虚しく掻き乱す。

 霧状力士は悠然と構え、少年に覆いかぶさろうとしていた上体を起こした。

 女は霧状力士へ鋭い蹴りを放つが一切の抵抗を受けることなく、霧状力士の背中側に赤いハイヒールが突き抜けただけ。

 刹那の後、霧状力士は女の口の中へ。

 女の動きが鈍る。

 女は抗いながらも徐に両手を地面へと付き、やがて土下座の姿勢を取らされた。

 一方、目を閉じた彼の口の中へも、一体の霧状力士が潜り込んでいた。

 彼も同様に土下座の姿。

 二人が頭を下げているのは同じ方向。

 半泣きの少年は土下座女のコートにしがみつきながら、二人の頭が向いている方向を見つめた。


「頭が高いッ!」


 甲高く険しい声が響いた。

 霧が晴れた土俵の周囲には四本の柱があり、神明造りの立派な屋根を支えている。

 屋根からは四方に水引幕が下がり、それぞれの幕の中央は揚巻により絞り上げられ、その内側に張り巡らされた注連縄しめなわが隙間からのぞく。

 水引幕には三つ葉葵の紋。

 柱の周囲は一段下がっており、そこから三方には畳敷きが、柱で土俵が見えなくなる場所を除き敷き詰められている。

 部屋というにはあまりにも広すぎる空間。

 畳敷きには髷を結い、純白のかみしもを身を包んだ男たちが総勢百八名、頭を低くして正座し、残る一方、土俵よりも高く設置された壇の上にて胡坐あぐらをかく男に向け頭を下げていた。

 土俵の中央で土下座する二人が頭を下げているのと同じ方向に。

 壇上の男も髷を結っていたがその顔立ちは若く、裃の色が控えている男たちとはまるで違った。

 肩衣かたぎぬからはかま、小袖に到るまで全てが落ち着いた金色。いや、わずかに緋色がかっている金。

 その肩衣に大きく刺繍された紋は、土俵屋根の水引幕と同じく三つ葉葵の紋。


「一同、おもてを上げいッ!」


 先ほどと同じ甲高い声は壇上の金裃男ではなく、壇の手前に蹲踞そんきょにて控えている男から発せられた。

 この男の裃は一見して白に見えるが、柱の外側に焚かれた篝火かがりびに照らされ、淡く光沢を放っている。

 言うなれば銀の裃。


「ハッ!」


 百八名の白裃男たちの声が空気を震わせる。

 全員が、土俵上で土下座をしている二人も含めて頭をもたげ、金裃男を見つめた。


「今回の英雄召喚は三名か?」


 金裃男は左手で弄んでいた扇子の先端を土俵へと向ける。


「恐れながら申し上げそうろう、予定では一名でした。残り二名は巻き込まれた様でござ候ッ」


 銀裃男が答える。


「その割には怪混けまじりのようだが?」


 金裃男の扇子は瞼を閉じていたはずの彼の方へと向けられる。

 閉じていたはずの瞼が開いていた。

 通常人に比べると明らかに大きな瞳には白目が見えず黒目だけ。


「召喚に応えた、ということでは恐らくながらッ」

「制御できておるのか?」


 金裃男の扇子が今度は女を指す。

 女の腕はブルブルと震え土俵の土をえぐりながら握りしめられている。

 女にしがみついている少年の手もまた震えていたが、二人を震わせる原動力の感情は全く異なるものだった。


「こんなもので私を支配できるとでも?」


 女は全身に力を入れると、低い唸り声と共に少しずつ肩を、膝を、腰を上げてゆく。


「殿ッ! お下がりくださいッ! ここは我々がッ!」


 銀裃の男が己の背後に置いていた錫杖を手に取り構える。


「構わぬ。あの女は御霊ごりょう力士三人分の御霊降ろしに屈しなかったのだ。列強に突き立てる牙としてはそのくらいの力量がなくてはつまらぬ」


 女はいまや仁王立ちとなり、傍らで戸惑い狼狽えている少年を抱き抱えた。


「私が護ってあげるから」


 少年は女にしがみつく。

 女は不敵な笑みで殿と呼ばれた金裃男を睨みつける。


「無礼者ッ!」


 銀裃男が錫杖を地面に打ち付けて鳴らすと、百八名の白裃男が一斉に立ち上がる。

 しかし男たちがその足を一歩踏み出すよりも早く、女の右ヒールが柱の一本へと深々突き刺さる。金銀裃男たちから見て手前右側の柱。

 女の蹴りの勢いはそこで止まらず、さらに柱をし折った。

 だが女は土俵の外へは出ず、コートを翻してもう一本の柱へと回し蹴りを繰り出す。

 白く美しい脚を太腿まで露わにして赤いヒールが柱を貫く。

 柱には無数の亀裂が広がり、女のダメ押しの蹴りと共に裂け砕けた。

 二本の支えを失った神明造りの屋根は、金銀裃男たちから土俵を隠すかのように傾いた。

 すかさず女はまだ折れていない二柱の方へと跳ぶ。

 左腕には少年を抱えたまま、右腕を大きく振り回した。

 女の腕の長さからすれば柱には触れていないはずなのに、女の腕が描いた軌跡は、残っていた二本の柱を一瞬にして切断していた。

 屋根の重みを支えきれなくなった柱は斜めにズレ始める。

 その屋根部分を、女は豪快に蹴り飛ばした。

 金銀裃の二人が居る方向へ。

 白裃男の一人はそのとき宙空を滑るように疾走はしる舟を見たという。

 逆さに裏返った屋根は確かに空渡る船のように、風を裂いて真っ直ぐに飛んだ。


「と、殿ッ」


 銀裃男がその身と錫杖をもって金裃男の盾とならんと飛び出したとき、空間が閃光に包まれた。






■ 主な登場人物


・黒目の彼

 記憶を一部失っているが、白目のない黒目を隠すべく眼鏡を探している。

 どうやら「英雄召喚」に巻き込まれた様子。


・人並み外れた力を持つ女

 赤いコートに赤いヒール、長い黒髪に、口元を覆う不自然に大きなマスク。

 どうやら「英雄召喚」された様子。


・ハーフっぽい美少年。

 怯えている。

 どうやら「英雄召喚」に巻き込まれた様子。


・金裃の男

 殿と呼ばれる謎の男。若い。肩衣には大きく三つ葉葵の紋が刺繍されている。


・銀裃の男

 英雄召喚に深く関わっていそうな謎の男。殿に対して忠義の姿勢を見せる。


・純白裃の男たち

 土俵の三方を取り囲むように百八名いる。殿に対して恭順の意を表している。

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