赤い月の夜に

三夏ふみ

赤い月の夜に

『お父さん、今日は早く帰って来て』

久しぶりの連絡に急ぎ帰宅すると、玄関先で靴を履き待ち構えている娘。

「車出して、赤い月を探しに行こう」

そう言われ、連れ出される。


「お父さん、赤いお月さま探しに行こう」

五歳になったばかりの娘に、玄関先でお願いされた、あの夜と同じ様に。



 当時の娘は、〈あかいつきのおひめさま〉という絵本に夢中になっていた。


 お姫様を王子が助ける。よく有るお話だったが、何度も何度も読み返し、仕舞には絵本を抱きかかえて一緒に眠る程のお気に入りになった。その絵本に出てくる、赤い月を探しに行くと言い出したのだ。



 まだ眠るには早い住宅街を、縫う様に車を走らせる。

「よく覚えてたね」

「まぁね私、記憶力はいい方なの」

「でも、この天気じゃなぁ」

フロントガラスに広がる空に星々は無い。



「トモちゃんから聞いたの、きょうね、あかいお月さまが出るんだって」

玄関先で靴を履きながら顔を紅潮させ興奮気味に喋る、その姿を見ながら帰り道の空模様を思い出していた。妻に目をやると肩をすくめている。

「由美。今日はお月様、出ないんじゃないかな」

「出るの」

何の疑いもない、真っ直ぐな瞳で言い返される。

「でもなぁ……」

「出るもん!」

誰に似たのか、言い出したら譲らない。

「うーん。じゃぁ探しに行くか?」

「うん」

仕方がないので少し付き合う事にした。妻に目配せし、娘の手を引いて私はさっき降りたばかりの車へ戻る。



「ねぇお父さん、あの時どう思ったの、私が赤い月を探しに行くって言い出した時」

「正直言うと困ったよ。どうしたら納得させられるか、その時は思い付かなかったからね」

ふぅん、とだけ返事をして窓越しの空を眺める横顔を、郊外に出来た大型商業施設の明かりが照らし出す。



「でね、ヒロくんも言ってたの、ほんとにあかいお月さまが出るんだよって」

初めての夜のドライブ。大好きな絵本から抜け出した赤い月を探しに行く小さな大冒険。

 だが、彼女の思いとは裏腹に郊外に広がる空は雲に覆われている。

 住宅街から徐々に離れ、暗闇が濃くなるのに比例して口数も減ってくる。隅々まで見逃すまいと見上げたその横顔を、街灯が等間隔に照らし出す。何処まで行っても姿を表さない月、ついには県境に続く山道の入口まで来てしまった。


「由美、やっぱり今日は、お月様は出ないんじゃないかな」

山道の入口で路肩に車を止め、諭す様に言う。

「……お山」

「お山?」

「お山にのぼれば、お月さま出てるもん」

木々が覆いかぶさり、得体の知れない何かが口を開け待ち構えているような山道の入口を、ジッと見つめる瞳。小さく絞り出した声も、微かに震えている。

「由美、大丈夫?」

「だいじょうぶ!」

自分に言い聞かせる様に、大声で返事をして覚悟を決めたのか、眼差しは強く暗闇を睨みつける。私はためらったがせめてもと、気が紛れる様にカーステレオのボリュームを少しだけ上げ、アクセルをゆっくり踏み込んだ。



「あれ?道を間違えたかな」

「大丈夫、合ってるよ」

山道は、別の道に迷い込んだと錯覚する位、明るく整っていた。

「知らない?峠の空き地。あそこに夜景が見える公園を作るのよ。名所にして観光客を呼びたいみたい。道路の照明もその1つなんだって」

疎らに木々を照らすライトが、道標の様に上の方まで続いている。

「公園が出来たら、お母さんを誘って来てみたら?きっと喜ぶよ」

「どうかな」

「ああ見えて、結構ロマンチストよ」

「そうかな」

「そうだよ」

明るく話す二人を乗せて、緩やかなカーブをなぞりゆったりと登って行く。



 山道は空模様も相まって一段と暗く、何処までも続いている様な錯覚を覚えた。ただじっと祈る様な眼差しで前だけを見つめる娘を乗せ、木々の合間から暗い空が見え隠れする道を、頂上目指して登って行く。

 カーステレオから流れる陽気なDJと軽快な歌声とは裏腹に、車内の空気は緊張し重たい。


 もし、長い人生の中で奇跡と言う名の偶然が、ほんの一握りだけ起こるのだとしたら。彼女にとっての今日は、その日では無かったらしい。


 県境の峠に差し掛かる所で我慢しきれず、空が泣き出した。ぽつりぽつりとフロントガラスを濡らしていく雨に負けまいと、抱えた絵本を強く抱きしめて涙を堪えている。

私は空き地に車を静かに止めると、

「今日はもう帰ろ」

精一杯の優しい声で諭す。だが、溜まった涙が零れ落ちそうなくらい、首を横に振り抵抗を見せる。

『いや〜今日は残念だったね。晴れたら見れた皆既月食。次この月に会えるのは24年後だって』

静まり返る車内に明るく響くDJの声がそう告げると、ついに彼女の目からも涙が溢れ出た。



「あの後、大変だったんだぞ。何を言ってもわんわん泣いて、帰らないの一点張りで」

「そうだっけ?」

「記憶力は良い方じゃなかったっけ?」

「そこら辺はちょっと曖昧で」

素知らぬ声で明後日の方を向いている。

「それで、コンビニで好きなアイスを一つ買っていいよ、って言ったらようやく泣き止んで」

「あれは美味しかったなぁ」

「呑気なもんだよ、あの時君が選んだ、自分の顔より大きいソフトクリームみたいなやつ。それを口や服やそこら中につけてさ。後で母さんになんて言われたか」

「「貴方はそうやって直ぐに甘やかす」」

妻の口癖をハモった声が笑い出す。

「あ、この曲好きなの。少し上げていい?」

目頭に滲んだ涙を指で押さえながらボリュームを少し上げる。流れる様なピアノの音色と優しく伸びやかな歌声が車内を満たしていく。


「ねぇお父さん。今度、会ってほしい人がいるの」

「…そうか」


間奏で放たれた言葉に、ほんの少しだけ世界が止まった気がした。


 妻には近々その手の話が有るかもよ、とは言われていた。

「で、貴方はなんて言うのよ」

「それは、どんな奴なんだとか、何してるんだとか。色々さ……」

「ふぅん」

イタズラっぽく言われ口籠る私を、にやにやした妻に随分冷やかされた。

あの日から事ある毎に、その事について考えていた。考えていた筈なのに。それ以上の言葉は出てこなかった。ただ嬉しかった。嬉しかった筈なのに。


 何処までも続く薄暗い山道。やっと県境の峠に差し掛かると、木々に覆われていた空が開ける。と、そこには、大きな赤い月が今まさに、雲から顔を覗かせるところだった。

「凄い。見てお父さん。思ってたより大きくて綺麗」

「ああ。そうだな」

ようやく見つけた赤い月。峠の空き地に車を止め、外に出る。


 何処までも広がる大きな空に、大きな赤い月が浮かぶ。それに向かって大きく伸びをし、見上げた輝く瞳は、力強く見えた。

「お母さんも見てるかな」

「きっと見てるさ」

「ねぇお父さん、家に帰ろう」

赤い月に手を振り別れを告げると車に乗り込みエンジンを掛ける。陽気なDJと軽快な歌声が流れ出す。

「ああ、でもなぁ」

「どうした?」

「アイス、食べ損ねちゃった」

「全くお前って奴は……買って帰るか。アイス」

「やった!」



「また来ようね、お父さん」



あの時と同じ笑顔の娘を乗せ、妻の待つ家へと私はハンドルを切った。

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赤い月の夜に 三夏ふみ @BUNZI

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