第19話
夏休み。
世の学生たちはにわかに気力を漲らせ、授業中は退屈を紛らわせるためにペンを回したり落書きしたりしていたのが嘘であるかのように元気に動き回り始める。
私も今年の夏休みは楽しく過ごすはずだった。
海とかプールに行ったり、涼しい家で漫画を読んだり、祭りに行ったり。高校二年の一度しかない夏休みに、今しかできないことをする。
そのはずだった。
そう。
はず、だったのに。
「小日向。ここの問題間違えてる。ここも。答え渡すから、解き直しね」
「……うぅ」
どうしてか私は、せっかくの夏休みに図書館に連れてこられていた。
まだ読めていない漫画を読もうとした矢先、国光が家に突撃してきたのだ。国光には家の場所を教えていないのに、どこからか聞いてきたらしい。
どこからかっていうか、絶対莉果か雪凪から聞いたんだと思う。
高校の友達で私の家に呼んだことがあるのはあの二人だけだし。
許さん。
次に会うときに絶対しばいてやる。
「ほら、頑張って。勉強が終わったら、ご褒美あげるから」
私は人参を目の前にぶら下げられたお馬さんか何かですか?
そう思うけれど、文句は言えない。
わざわざ家まで来てくれた国光を追い返すのもどうかと思ったし、これも国光の好きなことをより深く知るための一環だ。
コーヒーと同じで、嫌いを嫌いのまま放っておくのはちょっとって感じだし。
友達の好きなものは自分も好きになりたい。
まして、相手は一応の恋人である国光だし。
でもなぁ。
最近あんまり恋人らしいことしてない気がする。キスはもう挨拶みたいなものだし、もっとこう、なんかないかなと思う。
デートとか?
今こうしているのもデートみたいなものだけど。
でもなんか違うと思う。ドキドキする感じが欲しいっていうか。
「小日向?」
「……うぇっ?」
「なんか、ぼーっとしてる。そろそろ休憩にする?」
「あ、うん。そうしようかな……」
私はついてしまった嘘が周りにバレないようにするため。
国光は、恋人がするようなことをしてみるため。
お互い目的があって今のこの関係がある。それはわかっているけれど、せっかくなら楽しみたいという気持ちも最近はあって。
まあ、別に国光が好きだとか、本物の恋人になりたいとかそういうのはないんだけど。
「飲み物でも買おっか」
「そうだね」
私たちは一旦自習室を後にして、館内を歩いた。
その途中で、人だかりができているのが見える。どうやら絵本の読み聞かせをやっているらしい。
私は国光の服の裾を引っ張った。
「ちょっと見てこうよ。国光、絵本好きだったよね?」
「子供に混じるのは恥ずかしくないんだ。見栄っ張りなのに」
「それはそれ。ちょっと恥ずかしいけど、読み聞かせは今しかやってないでしょ? 後で聞いときゃよかったーってなったら嫌じゃん」
「んー、まあ、それもそうか」
私たちは二人で一番後ろから絵本の読み聞かせを眺めた。
感情を多分に含んだ声で読まれる物語は、子供たちを興奮させ、驚かせ、楽しませる。気づけば私も物語の世界に没入していた。
現実から物語の世界に完全に入り込むその瞬間に、隣にいる国光の姿が目に入る。
国光はいつになくぼんやりした顔で読み聞かせを見ていた。
いや。
というより、彼女は子供たちの方を見ている気がする。楽しんでいる子供たちをぼうっと瞳に映す彼女は、誰よりも子供みたいな顔をしている。
その瞳を、私は綺麗だと思った。
何を考えているのかはわからない。真に見ているものがなんなのかも、きっと私はわかっていない。
子供たちの姿が映った瞳の表面より、さらに奥。
そこにはきっと違うものがあるんだと思う。
私はそっと、国光の手を握った。
ちゃんと繋ぎ止めておかないとどこか遠くに行ってしまうような、そんな気がしたから。
「面白かったね、読み聞かせ。言葉にパワーがある感じ! あれも一種のキラキラかも!」
「そうかもね」
私たちは休憩コーナーにあるベンチで、肩を並べてコーヒーを飲んでいた。
最近は少しずつコーヒーの味にも慣れてきている。
そろそろ私も国光とコーヒーの匂いとか味について語れるようになるのではないかと思う。むしろ国光よりコーヒーに詳しくなりつつあるのでは?
「ああやって人を楽しませるのって、いいかもね。楽しそう」
「国光はそういうの向いてそうだよね」
「どこが? むしろ、小日向の方が向いてると思うけど」
「私は誰よりも人を楽しませるの上手だからねー。ま、国光も私には負けるだろうけど。でも、国光は楽しいこと好きなんだよね? なら、人を楽しませるのもできるよ」
「謎の信頼感だ」
「謎でもないと思うけど」
まあ、国光は正直何やっても上手くいきそうとかいうか、大体のことには向いていると思う。
「……国光って、なんで絵本が好きなの?」
「んー。憧れてるからかな」
「えっと?」
「簡単な言葉で、言葉以上のことを伝えるってのに」
国光はそう言って、にこりと笑った。
いつも通りの笑みだ。
「私は自分が好きだから色々勉強して、難しいこと考えたりとかしてるけどさ。なんか、それっていいのかなって」
私は目を瞬かせた。
むしろ良くない理由があるんだろうか。
「色んなことを学んで、小難しくあれこれ考えて、言葉も装飾して。なんかそれって、本質から遠のいてる気がするし。……それに」
彼女はじっと、私の目を見つめた。
「私が勉強好きなのは、知らないこと知れるからじゃなくて、自分が他人より優れてるって思えるからなのかもしれないし」
国光の顔が近づく。その繊細な指先が、私の前髪を動かす。
少しだけ、彼女が鮮明に見えるようになった気がした。
「ねえ、小日向。もし私が、周り全員見下してる性悪だったら、どうする?」
「えっと……」
どうすると言われても。
うーん。
私は少し考えてから、口を開いた。
「それでも友達だよ。もし本当に国光が皆のこと見下してたとしても、今までのことは全部ほんとじゃん。優しくて、でも意地悪で、大好きな私の友達!」
「……」
私は彼女の胸ポケットに入っているキラキラのシャーペンを手に取った。
「ほら、これも私のために買ってくれたんでしょ。国光の心が全部わかってるわけじゃないけど、ちゃんと優しい。だから、私のこと見下しててもいいよ」
国光は目を丸くした。
かと思えば、吹き出す。
「ぷっ。ほんと、お子ちゃま丸出し。小日向はもっと語彙力あった方がいいかもね」
「なっ、なにおう! 簡単な言葉の方がいいんでしょ! 私の方が本質に近いんですぅー!」
「あはは、そうかもね。うん。やっぱり小日向は……馬鹿丸出しだ」
「む、むむむ……」
いつもより罵倒に力がない気がする。でも、ムカつくのは確かだ。
やっぱ優しくないし、友達でもないかもしれない。
「やっぱ全部なし! 嘘! 見下すのなし! 国光なんてアイスの食べすぎでお腹壊して入院すればいいし!」
「駄目だよ。一度口にした言葉の撤回はなし。小日向は私が大好きってことで確定ね」
「だ、誰が! この——」
両腕を掴まれる。
シャーペンが手から離れて、床に落ちた。かつんと軽い音が鳴った瞬間に、彼女の顔が近づいてくる。
大きな瞳が、妙に眩しかった。
国光の匂いがする。甘くて、でも少しコーヒーっぽさもある、嫌いじゃない匂い。
次の瞬間彼女の唇が私の唇に触れて、舌が唇を割って入ってくる。
昼間から、しかもこんなところで、こんなキスをするって。
どうなんだろう。
ていうか、今そういう流れだっただろうか。疑問に思ったけれど、抗えないなら仕方ない。両腕を掴まれてしまえば、無抵抗で彼女を受け入れる他ないのだから。
仕方なく。
仕方なく、私は彼女を受け入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます