第14話

 私の両親は、結構軽い人たちだ。悪いことをしたら怒られるけれど、それ以外は適当である。


 家に帰らない日があっても、ちゃんと連絡さえすればオッケーが出るくらい軽い。


 その軽さのおかげで私は莉果や雪凪たちと夜遅くまで遊んだり家に泊まったりしていた。


 あの頃は両親の軽さに感謝していたけれど。

 今はその軽さが逆に重みとなって私に襲いかかってきている。


「う、ううぅ……」

「唸ってないで、次の問題解いて。まだ一時間しか経ってないよ」

じゃなくてでしょ! 人間の集中力はそんなに長く続かないの! 九十分くらいが限界だって言うじゃん!」

「……成績悪いのに、そういうのは知ってるんだ」


 成績悪いは余計だ。

 事実だけど。


「……はぁ。しゃーない。ちょっと休憩にするか。なんか入れてくる」

「あ、じゃあコーヒーいただいてもいい?」

「いいけど、飲めるの?」


 私は無言で胸を張った。

 国光は少し呆れたような顔をしたけれど、そのまま立ち上がって部屋から出ていく。


 私は深くため息をついて、ごろりと床に横になった。

 そのまま右に左にごろごろしていると、不意に本棚が目に入る。そこには難しそうな学術書と小説が所狭しと並べられている。


 タイトルを見た感じ、小説は純文学ばっかりだ。もっと映画化とかドラマ化されている小説も読めばいいのに。

 そう思いながら本棚を見ていくと、下の段に漫画があるのが見えた。


「あれ? これって……」


 そこには私がこの前貸した漫画のシリーズが置かれていた。

 私が貸したのは最新巻ばかりだったけれど、本棚にはご丁寧に一巻から最新巻まで全部揃えられている。


 ハマったのかな。できれば漫画の話をしたいけれど、今日の国光は鬼教官だ。それを許してくれる雰囲気じゃない。


 しかし、最新巻か。

 読みたい。正直すごい読みたい。試験勉強とか色々あってまだ読めていないけれど、ずっと楽しみにしていたのだ。


 国光に言ったら読ませてくれないかな。

 いっそのこと勝手に読むとか……。


 いや、駄目だ。人の許可を得ないで勝手に所有物をいじるなんて、私にはとてもできない。

 うぐぐ。


「小日向、何してんの?」

「ひぇっ」


 私はパッと体を起こした。

 いつの間にか部屋に帰ってきた国光は、お盆をテーブルの上に置いた。

 コーヒーの匂いが部屋に漂う。


「はい、コーヒーとお菓子。それ食べてちょっとしたら、勉強再開するからね」

「わーい、ありがと」

「……待った」


 彼女はお菓子を食べようとした私を手で制して、そのまま手招きしてくる。

 ぽんぽんと自分の太ももを叩いているが、そこに座れという意味だろうか。


 さっきのカップルを思い出して、少し恥ずかしくなる。でも、私たちはまあそういう関係じゃないし。


 いやいや。

 そういう関係じゃん。偽だけど、恋人は恋人だし。


 思えば国光って恋人とどういうことがしたいんだろう。恋人のすることに興味があるって言ったけれど、具体的にどこからどこまでに興味があるのか。


 うーん。

 国光に恋人ができたらどんな感じになるかな。


 意外と甘々な感じだったり?

 好き好き、とか毎日言ったりとか。


 ……ちょっと鳥肌が立つ。友達のそういうところって、あんまり想像するものじゃないな、うん。


「動かないで。ちょっと髪、触るから」


 彼女の膝の上に乗ると、すぐに髪に触れられる。

 彼女の指遣いはいつも、どこか繊細だ。


 私は強い子だから、壊れ物を扱うみたいに優しく触れられるとくすぐったくて困る。もっと乱暴でも別にいいんだけど。友達だし。


「……取れた。カーペットでごろごろしてたでしょ。埃ついてたよ」

「あ、うん。ありがと……」


 お礼を言って彼女の膝から退こうとすると、ぎゅっとお腹を抱きしめられる。

 おっと?


「国光?」

「小日向って、体温高いね」


 部屋はクーラーが効いているけれど、あんまり抱きしめられると暑い。私は抱き枕とかぬいぐるみじゃないのだから、ちょっとやめてほしいのですが。


「それに、いい匂いもする」


 すん、と鼻が鳴る音が聞こえる。

 首筋に彼女の髪がかかった。非常にくすぐったい。

 というか。


「平然と人の匂い嗅ぐなぁ! 変態! ちょ、離れ……」

「私の匂いも嗅いでいいから」


 これで平等だよね、みたいな感じで言われても困る。友達の匂いを嗅いで喜ぶ趣味なんて私にはない。


 でも抵抗しても無駄だってことはわかる。

 私はそこまで力が強い方じゃないし。


 仕方なく力を抜くと、彼女は私の首に鼻をくっつけてくる。私より国光の方がよっぽど犬だと思うけど。

 ていうか、臭くないよね。今日は体育なかったけど、暑かったし。


「うん、満足。じゃ、おやつにしよっか」

「……そうだね」


 勉強よりも疲れたかもしれない。

 私は彼女の膝の上から今度こそどこうとしたが、やはり逃してはくれないようだった。


 仕方なく、彼女の上でカップに口をつける。

 この日のために私はコーヒーをたくさん飲んできた。


 彼女の好きなものがコーヒーだと知った日からずっと、一日一リットルはコーヒーを飲んできたのだ。


 そのおかげで少しだけコーヒーへの苦手意識が薄れてきている。

 コーヒーは苦いからあんまり美味しくないのだ。でも苦味にさえ耐えられれば、その奥に旨味が確かに存在して——


「……っ!?」


 酸っぱい。

 え、何これ。


 苦いっていうかすごい酸っぱい。酸味が後から後からやってきて、旨味どころではなかった。


 まさか、豆によっては苦味より酸味の方が強いとかそういうのがあるのか。

 コーヒーの世界は奥が深い。深すぎると言ってもいい。


「お、美味しいねー」

「そう? ならよかった。これ、私の好きなブレンドなんだ」

「へー」


 美味しくない。正直言って初心者の私にはまだ早すぎる代物だ。

 でも、これまでコーヒー訓練をしてきた日々が無駄だったとは思いたくない。今日だって朝も昼もコーヒーを飲みまくったのだ。


 眠れなくなりかけた日もあった。

 苦すぎて死にそうになった日もあった。あの日々が私を強くしてくれたはずなのだ。


 だから酸っぱいコーヒーにも負けない。

 ……とは言えないな。やっぱり普通にお菓子で中和しよう。


「お菓子、小日向が好きそうなやつにしたけどどう?」

「美味しいよ。流石国光」


 お菓子は本当に美味しい。国光もちゃんと私の好きなものを覚えていてくれたらしい。しかし、あれから毎日コーヒーを飲んできた私の徹底っぷりには負けるだろう。

 何と戦っているんだって話だけど。


「そういえば、国光。あの漫画全部買ったんだね。面白かった?」

「え? あー、うん。まあ、面白かったよ」


 どうにも歯切れが悪い。

 もしかして、あんまり面白くなかったのかな。でも、だとしたら全巻なんて買ってないだろうし。


「小日向は、ああいうのが好きなんだね」

「そりゃあね! 私だって一人の乙女なわけですから! きゅんきゅんするのに弱いんだよ」


 私が国光に貸した本は、ほとんどがラブコメ漫画だ。

 私は読んでてドキドキするような恋愛が大好きだ。人の恋愛話を聞くのもそうだけど、やっぱり楽しい。


 国光はどうなんだろう。

 恋愛には興味ありそうな感じだったけど、漫画はいまいちなのかな。


「きゅんきゅんねー。ふふ、馬鹿っぽい」

「は?」


 喧嘩売ってます?

 子供扱いされたり馬鹿にされたりはしているけれど、これでも私だって年頃の女子なわけで。


 キラキラした恋愛に憧れる気持ちくらいあるし。

 別にいいじゃないかと思う。


 今に見てろよ。私だって高校を卒業するまでには国光が羨むような恋愛をしてやるからな。


 ……なんて思ったけど。

 私はいつまで国光とこうして、偽の恋人として一緒にいるんだろう。この関係の終わり時とは、一体。


「国光はそういう憧れみたいなのないの?」

「んー。私は、そんなにかな」

「恋人がするようなことには興味あるのに? もったいないなー。せっかくモテてるんだから、一回くらい恋人作ってみればいいのに」

「恋人なら、今いるから」


 国光は耳元で囁いてくる。

 あんまりぽしょぽしょ言わないでほしい。

 耳がくすぐったくて仕方ないから。


「もったいないって言うなら、私をきゅんきゅんさせてよ。ああいう漫画たくさん読んでるむっつりさんな小日向なら、できるでしょ」

「……む」


 そう言われてできませんと言うのは、恋愛マスターの名が泣くってものだろう。


「いいよ、きゅんとさせてあげる。ほら、立って」

「いいけど」


 見せてやろう。

 これまで恋愛漫画を読んできた私の実力がいかほどのものか。

 私は立ち上がった国光を、じりじりと壁の方に追い詰めていった。

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