運の悪い勇者は旅立てない
黒羽カラス
第1話 女神ビッチ
足は伸ばせないが風呂は最高だ。硬くなった肩が解れる。浸かっている湯に意識が溶けてゆくようで
もう、何もしたくない。明日のバイトは休みたい。新しく入荷した煙草の銘柄を覚えるのが面倒臭い。ライトにメンソールに、どれでもいいだろう。同じ煙草じゃないか。味が違うとか、そんな些細なことでストレスを溜めてどうするよ。
もうね、これ以上、何も覚えたくない。法科大学院を卒業したんだ。そろそろご褒美をくれてもいいじゃないか。司法試験は十分に堪能したよ。三回も落ちれば十分だ。俺も今年で二十八になった。コンビニでバイトしている場合じゃない。無駄に年齢を重ねると社会的に死んでしまう。
……ああ、意識がふやける……瞼が重くて仕方ない……湯が、上がってきた……いや……俺が沈んで……。
手放した意識が戻ってきた。俺は両脚を抱えた状態で座っていた。見慣れたTシャツとスラックスが目に付く。いつの間にか、風呂から上がったようだった。
「それにしても、なんだここは」
丸い壁に阻まれて満足に動くことができない。頭や肘で押し広げようとしたが、どうにもならない。急に息苦しさを感じる。密閉された空間のせいで酸素が足りないのだろうか。
「……誰か、いないのか。ここはどこなんだ……いるなら、反応してくれ!」
呼応するように世界が動いた。金属を擦り合わせたような音が振動となって尻に伝わる。むず痒さを覚える中、俺は転がされた。
叫ぶ間もなく、落下するような感覚が全身に伝わる。続く衝撃で俺は外に投げ出された。
四つん這いの姿勢で思考が白く染まる。
新たな世界は白かった。俺の側には大きな球体の容器が割れた状態で転がり、白い砂糖菓子のように崩れて消えた。後ろを振り返ると巨大な物体が崩れ去る瞬間に立ち会えた。
「……ガチャかよ」
自分を景品扱いした世界に怒りが込み上げてくる。首謀者はどこだと探していると、簡単に見つかった。視線の先に天蓋付きのベッドがあった。
俺は大股で向かう。呑気なイビキを耳にした。怒りで我を忘れて走り出す。
ベッドが間近に迫る。速度を落とし、数歩を歩いて立ち止まった。ベッドには若い女性が仰向けの姿で寝ていた。
純白のシーツに金色の髪が広がる。気品に溢れた顔は艶やかで色白。睫毛の黒さが際立つ。鼻筋は通っていて桜貝のような色の唇が可憐であった。
「……想像と違う」
人物だけで言えば女神に見える。着ている白地のTシャツにも『女神』と黒い文字がプリントされていた。外人目当ての安っぽい土産物に似ている。水色のホットパンツは好意的に受け取れるが、ガニマタは良くない。足首を掴んで引っ張りたい。すらりとした美しい脚の形に戻したい欲求に駆られる。
「いや、いくらなんでも非常識だろう」
白い世界にいる時点で俺の常識が揺らいでいる。非常識が常識になるのだろうか。
「俺は試されているのか」
わざと声に出して女性の反応を窺う。姿勢は変わらないがイビキは止まった。
一気に緊張が高まる。そもそもこの状態で突っ立っていていいのだろうか。相手が本物の女神だとすると、上から眺める行為は万死に値するのでは。
俺はそっと後ろに下がった。片膝を突き、頭を垂れた姿で控える。この世界の礼儀は知らないが無礼とはならないだろう。
「……ふぅあふ」
可愛らしい欠伸で俺は顔を上げた。女性はゆっくりと上体を起こす。広がっていた髪は引き寄せられてホットパンツを覆った。顔がこちらを向いた。ぼんやりとした目に引き寄せられる。森の奥深くにある湖のような深い緑色をしていた。
畏れ敬う気持ちを忘れず、俺は表情を引き締めた。
「あ、あの、ここは」
「イケメンが当たった!」
女性に指差された俺は、はい? と苦笑に近い笑みで首を傾げた。
「勇者ガチャだよ! 数百年ぶりで当たったの! 京東ドーム二
「その例えはわからないのですが、もしかして、俺って……亡くなりました?」
「うん、そうだよ。浴槽で溺死したんだけど、発見が遅れてブヨブヨなの。白っぽくて緩い豆腐みたいになってたよ」
女性はベッドから跳び降りると両腕を広げた。踵を上げて大きな円を作る。
「……自分の想像力が憎い」
口元を掌で押さえた。軽く頭を振ってリセットする。未来は明るいはず。俺は勇者に転生するのだから。
「それで女神様、早速ですが俺を勇者として転生させてください」
「そんなに急がなくてもいいよ。折角きたんだから、もっと楽しいことを考えようよ。あ、わたしは女神ビッチだよ。ビッチって呼んでね」
「さすがに、それは……」
背中に白い翼は生えていないが相手は女神を名乗っている。ビッチ呼ばわりは失礼が過ぎるだろう。
「親しみを込めた愛称で……メガッチはどうでしょう」
「いいね、メガッチ! お祈りメールは無しで採用だよ!」
「あの~、詳しいですね。色々と」
「なんたって女神だからね!」
親指を立てて笑いながら舌先を出す。少しイラッとしたので心の中ではビッチと呼ぶことにした。
「俺は勇者として働きたい。人の役に立ちたいのです」
「わかる、わかるよ。わたしも女神の役割を果たさないで数百年だもんね」
「では、すぐに旅立ちます。どこの世界を救えばいいのですか」
「だから、心配ないって。ゆっくりしていってよ」
ビッチは軽い調子でTシャツの襟の隙間に手を突っ込んだ。胸の辺りを弄って、じゃじゃーん、という声で引き抜いた。手にはテレビで使うような黒いリモコンが握られていた。
「はい、こちらに注目ですよー。ポチッとね」
リモコンのボタンを押した。空間に長方形の世界が現れた。一部を切り取ったようだった。
「波打つような黒い大地で、所々に煙が上がっていて、これが何か?」
「もっとよく見てよ。大地の黒さがヒントだよ」
俺は顔を近づけた。大地のうねりは人が折り重なった結果であった。一様に黒く焼け焦げ、その名残で煙が上がっている。
「わたしのガチャ運が悪くて、勇者が来る前に世界は滅んじゃいました」
「世界は滅んだ!?」
「だから、ゆっくりしてね」
ビッチは人懐っこい笑みを見せた。
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