第4話

 午後十一時半。俺はジロの指示どおり、住宅地の私道で待機していた。街灯もなく、つきあたりは建設予定地と書いた看板が立った空き地だ。雑草の中に置き去りにされたブルーシートは、数日前にジロが用意したものだ。なにか資材を包んでいるかのように微妙なふくらみを持たせてある。

 犯行を終えたら、これを死体に被せる手はずになっている。そのために数日前からわざと置きっぱなしにして、付近住民の関心を薄れさせておいたのだ。死体発見を遅らせるためのちょっとしたギミックのひとつだ。

『今、ターゲットが駅の改札を出た。徒歩。あと八分でそっちへ着く』

 携帯にジロからのメッセージが届く。ターゲットの服装がわかるように、隠し撮りした写真も添付されている。本社で会議がある日はいつも帰りが遅くなる、というジロの下調べ通りだ。

 俺は念のために用意しておいたキャンピングナイフの存在を、手で触れて確認した。ケースに入れてベルトに下げている。ジャンパーの前を止め、フードを被った。軍手をはめる。軍手もスニーカーも近くの量販店で調達したものだ。

 十一時半という時刻は、殺しには早すぎると思ったが、このあたりの住民は高齢者が多く、すでに辺りはひと気もなくなって静まりかえっていた。

 スーツ姿のターゲットが、路地の前を通りかかる。

「すみません、伊東正雄さんですか?」

 暗がりから声をかけた。

 正雄は俺のほうを見た。白髪交じりの中年男だ。さっと全身を確認したが、腹が出ていて、運動を習慣にしている人間の体つきではない。

「……ああ、そうか。今日ですか」

 震える声で答えた。黒い革鞄がぼとり、とアスファルトに落ちた。

 正雄は自分の運命を悟った者の目をしていた。やっぱり自殺だったな、と俺は思った。自分で自分を殺してくれるよう、ネットで依頼をかけていたのだ。

 これは楽勝だ。ターゲットは助けも呼ばななければ、抵抗もしないだろう。ここで静かに俺に殺される。

「痛くないようにすぐ落としますよ」

「……ああ、優しい人でよかった。まったく……バカなことをしました。でも家族にだけは迷惑をかけたくなかったんです……」

 正雄は、まるで神に祈るように一度夜空を仰ぎ、自分にだけ聞こえるくらいの声でつぶやいた。

 暗い路地に吸い込まれるようによろよろと歩き出して。俺の前へ立つ。

 俺は自分の脚先も見えないような闇の中で、正雄の首に腕をかけた。血流を止めて気絶させ、そのあと窒息死という平和的な方法をとるつもりだ。

 正雄の顔が、さっき歩いてきた歩道のほうに向いた。街灯のともった住宅街のほうだ。

 すると突然、無抵抗だった中年男の全身に力がみなぎった。

「こ、こいつ、なにをするんだ!」

 正雄は大声で叫び、首にかかった俺の右腕にいきなり噛みついてきた。

 おい話が違うだろ、と思いながら、俺は左手で正雄の横っ腹に一発入れた。

「ぐふっ」

 噛みついていた口が開いた。右腕を離すと、正雄は体をくの字に曲げ、地面を転げまわって苦悶している。

「殺されたいんだろ、あんた。だからあんな掲示板に書き込んだんだろ? 今さら怖くなったのか?」

 小さな声で確認すると、正雄は涙目になって俺を見上げた。

「私を殺してください。でも、お願いです。抵抗させてください。決死の抵抗を、あの子に見せて死にたいんだっ!」

 俺ははじかれたように顔を上げた。

 路地の向かいの家の庭に、子供がひとり尻もちをついていた。そばに自転車が倒れている。目をこらす。小学校高学年の男子だ。塾帰りだろうか、重たそうなリュックサックが自転車の前カゴに入っている。

「篤志、逃げろ」

「お父さん!」

 待て待て待て待て。

 ジロ、ちゃんと周辺、見張ってたのかよ。

 俺は心の中で悪態をついた。

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