第三十話 惨状
血の匂い――その言葉がパーラの口から発せられた瞬間、偵察隊全体に緊張が走った。
先程までの緩んだ空気は跡形もなく消え失せて、全員が神経を張り詰めて周囲を警戒する。
北風に乗って漂ってくる、微かな鉄臭さと生臭さ。
間違いない。俺達が向かう先で何か大変な事態が起きている。
「匂いだって? 一体どこから?」
「分かんねぇのか? あっちの方からしてるだろ」
「獣人基準……! 亀の鼻が陸地で利くと思う!?」
この辺りは流石に種族の差ということだろう。
……だとしたら、俺が匂いを嗅ぎ分けられたのは……?
偵察隊に俺以外の人間がいないから確認できないだけで、人間の嗅覚でも分かる程度の臭気が漂っているのか。
それとも、嗅覚までもが悪食の異能の影響を受けてしまったのか。
あり得ない話じゃない。
俺に勉強を教えていた宮仕えの学者曰く、味覚と嗅覚は密接な関係にあるそうだ。
悪食の影響によって、本来食えたものじゃなくても最低限食べられるように味覚が変わっているのだとしたら、嗅覚に何かしらの変化があってもおかしくはない。
それ以前に、理由がどちらだろうと関係ない。
今ここで重要なことは、俺達が向かう先で異常事態が発生しているという事実だけだ。
「パーラ! 明明!」
馬を歩かせてパーラ達の会話に割って入る。
「それらしい臭いは俺も感じた。とにかく状況を確認しに行こう。関係なかったらそれでいいんだ」
「僕は嗅覚には何も感じなかったけど、霊力の乱れは伝わってきたよ。北の方で大規模な霊力行使があったのは間違いなさそうだ。ほんの僅かな残滓程度の乱れだから、時間としてはかなり前のことだろうけどね」
雪那の言葉が後押しとなり、明明も異常事態が起きていることは納得せざるを得なくなり、戸惑う甲人達に招集をかけた。
「しゅ、集合! な、何がなんだか分からないけど、間違いなく何かあったみたいだから、最大限の警戒を!」
空気がピリピリと張り詰める中、偵察隊は北上を再開した。
一刻も早く状況を把握するために、これまでよりも馬を速く走らせて、風上に向けて一直線に駆け抜ける。
「……黎駿。例の『予感』は?」
肩越しに囁きかける雪那。
俺は正面を見据えて手綱を取りながら、苦々しく答えた。
「さっきから嫌ってくらいに
土埃を立てながら疾走する騎馬の偵察隊。
やがて幾つかの丘が並ぶ地形が行く手を塞いだ。
「明明! あれは越えても平気なのか!?」
「問題ない! と、思う! 待ち伏せとかなければの話だけど!」
微妙に頼りない返答だったが、俺達は速度を緩めることなく馬を走らせ続け、一本の木も生えていない丘を駆け上がった。
その直後、俺達は誰からともなく馬を急停止させ、その場に凍りついた。
眼下に広がる光景を、にわかには信じることができなかったのだ。
「……おいおい、冗談だろ」
丘を下った先にあったのは、見渡す限りの戦場跡であった。
元々は軍隊の駐屯地だったのだろう。
人間が使う
しかし、それらは一つ残らず薙ぎ払われ、まるで嵐の直撃を受けたかのように荒れ果てていた。
廃墟と化した駐屯地のあちらこちらで煙が立ち昇り、分厚い鎧を纏った兵士が倒れ伏し、草原を
「……っ!
明明が馬を全力で走らせて丘を駆け下りる。
慌てて俺達も後を追いかけ、打ち倒された兵士の安否を確かめる。
いや、違う。これは鎧姿の兵士ではなく――
「甲人!?」
それは人間ではなかった。
明明に付き従う亀の甲人とはまた違う、人に似た形をした甲殻生物。
全身を覆う鎧のように見えたのは、彼らの肉体に備わった天然の外殻で、よくよく見れば四肢や関節の構造も人間のそれとは異なっている。
「一体、何があったんだ……」
「玄武の片割れは軍隊の編成を進めていたそうだね。恐らく彼らがそうだったんだろう。亀の甲人はこちらの玄武に従ったから、昆虫や甲殻類の甲人を主力に据えたんだ」
「それは分かるけど……人間の軍隊と戦ったわけじゃないよな。原因はどう考えても……って、明明は?」
「向こうだ!」
負傷した甲人兵の対処は同じ甲人の亀達に任せ、俺は雪那を後ろに乗せたまま、駐屯地跡の外へ飛び出した明明を追いかけた。
やがて明明は壁状に盛り上がった地形の前で馬を飛び降り、その表面に額を押し付けて崩れ落ちた。
「冥冥……冥冥……!」
俺も馬を降りて傍に駆け寄る。
壁の高さは二階建ての住居ほどで、城壁とは呼べない程度だが、野戦築城で造られた駐屯地の防壁としては大規模だ。
明明は壁にすがりつき、声を押し殺して啜り泣いている。
「何だ、この壁」
「……黎駿。よく見るんだ。これは壁じゃない」
「どう見てって……え、まさか……」
驚きの余り言葉を失ってしまう。
歪な防壁としか思えなかったそれは、あまりにも巨大な蛇の胴体だった。
民家を優に飲み込めるほどの巨体が横たわり、まるで壁のように視界を塞いでいただけだったのだ。
丘から見下ろしたときに気が付かなかったのは、きっとあまりの巨大さに脳が認識を誤り、無意識のうちに地形の一部だと思い込んでしまったのだろう。
「霊獣……守護獣って、こんなにでかいのかよ……まさか死んでるのか?」
「分からない。少なくとも霊力の高まりは感じられないね。仮に生きていたとしても、意識は完全に失っているはずだ」
「まさか、これも……」
そのときだった。
凄まじい悪寒が背筋を駆け抜け、本能的な感覚が異常な気配を察知する。
雪那も何かを察したように顔を上げて、素早く視線を巡らせて周囲を警戒した。
「あちゃー、思ったより早かったなぁ。さっさとずらかっとけば良かったか」
死んだように横たわる大蛇の上で、人影が緩慢な動作で立ち上がる。
白髪に数房の黒い髪が混ざった白黒の虎柄頭に、青みがかった薄灰色の瞳、にやりと笑う口から覗く鋭い牙。
獣型をした耳や尾は見当たらなかったが、それでもあの人影が真っ当な人間でないことは分かる。
アレは霊獣。雪那と同じく人に化けた霊獣だ。
「……窮奇!」
「へぇ、私のこと知ってるんだ。それなら話は早いな」
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