第十一話 雑談

 次の日の朝、俺と雪那は獣人の宿で馬車を借りて、キュウ国の首都を目指すことにした。


 馬車といっても、王族が使う壁付きの上等なものでもなければ、役人が使う傘付きのものでもない。


 荷馬車と兼用の質素な荷車である。


 宿まで物資を運ぶときに使われた荷車を、首都に返却するついでに借り受けた、というのが正確なところだ。


(それにしても、本当に長閑のどかだな)


 手綱を握りながらしみじみ思う。


 なだらかな丘陵、青々とした草原、遠くに見える麦畑。


 夏が程近いこの季節、故郷の水田は青々とした緑の絨毯だが、こちらの麦畑は黄金色で見るからに収穫が近付いている。


 最近の俺は、急転直下の出来事や未知の体験ばかりに巻き込まれてきた。


 こんな風にのんびり過ごしていられることが、どれほど貴重で得難いものだったのか、今なら痛いほどに理解できる。


 しかし、何も考えず暇を持て余すだけというのも、度が過ぎれば苦痛になるわけで。


 とりとめのない雑談が自然と増えてしまうのだった。


「虎に翼というのは意味深だね。為虎添翼いこてんよく傅虎為翼ふこいよく。ただでさえ強い者が更に強い力を得るという比喩表現の定番だ」


 荷車の後ろに乗った雪那の話に耳を傾ける。


 今の話題は、昨日の夜に聞いた『空を飛ぶ虎』についてだ。


 深い意味があって話題に出したわけではない。


 二人で雑談を交わしていた流れの中で、そういえば昨日こんなことがあった、と教えただけである。


「『有翼の虎』と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり窮奇キュウキだね」

「窮奇?」

「かつて大陸を騒がせた四体の霊獣、四凶しきょうの一体。翼を持つ虎に似た姿で、風を操る力を持ち、好き好んで秩序を乱す悪しき獣。まぁ、神話に名を残すほどの厄介者だと思えばいい」

「昨日の連中はそいつを……窮奇を探してたのかな」

「それはないね。窮奇は種族名ではなく個体名で、本人はとっくの昔に死んでいる。あり得るとしても他人の空似だろう」


 まぁ、神話クラスの存在を探していると考えるより、たまたま特徴が似ている奴を追いかけている方が納得できる。


「翼を手に入れられる天命っていうのも、世の中にはあるのかね」

「あり得るとは思うけど、翼があるとは限らないと思うよ。彼女達は『空を飛べる虎の獣人』としか言っていないんだろう?」

「確かに。法術士なら普通に飛べてもおかしくないしな」


 例の獣人が雑談の話題になったのはここまでだった。


 お互いに深く掘り下げて考察するつもりもなかったので、どちらからともなく他の話を持ち出したのをきっかけに、全く関係のない話題に花を咲かせていく。


 それにしても不思議なものだ。


 人間と龍神の娘が同じ荷馬車に相乗りして、大した意味もない雑談に興じるなんて、少し前の俺どころかこの世の誰も想像できなかったに違いない。


「……そうだ。失礼に聞こえたら申し訳ないんだけど」


 雪那が荷台から身を乗り出して、御者席の俺に顔を近付けた。


 事あるごとに思うのだが、雪那の白い髪は生き物の一部だとは思えないくらいに艷やかで輝いている。


「君が荷馬車を乗りこなせるのというは、少し意外だったね。王族というものは雑事を配下に任せるものだとばかり思っていたよ」

「普通の王侯貴族なら、自分で馬車を動かしたりはしないだろうな」

「君は普通じゃない、と」

「ああ。俺、王宮育ちってわけじゃないんだ」


 俺がまだ幼かった頃、国王である父の弟……つまり叔父にあたる人物が父と対立し、一触即発の状況になってしまった時期があった。


 父は跡継ぎの暗殺を恐れ、幼少期の俺をあえて王宮から遠ざけて、民間人に紛れ込ませて育てることにした。


 それから叔父が政争に破れ去るまでの数年間、俺は人知れず王太子としての教育を受けながら、普通の街の普通の家で普通の子供のように暮らしていたのである。


 王宮を離れたのは物心がつく頃で、王宮に呼び戻されたのが十歳を少し越えた頃だったから、主観的にはむしろ市井しせいで過ごした期間の方が長いくらいだ。


 結果、俺は他の王族から庶民臭さを敬遠されがちで、逆に使用人からは庶民らしさがあって親しみやすいと思われる人間に育ってしまったのだった。


 ……という趣旨の説明を簡潔にすると、雪那は納得したような顔で大袈裟に頷いた。


「なるほどね。それが君らしさの源泉か」


 ひょっとしたら、王族に相応しい天命を授かれなかったのは、この育ちのせいだったのかもしれない――そんな言葉をギリギリのところで飲み込む。


 こんな話を聞かせたところで、雪那を困らせるだけに決まっているのだから。


「俺だけ喋ってるのは不公平だろ。そっちも何か昔話でもしてくれよ。例えば……西海でどんな風に暮らしてたのか、とか」

「もちろん構わないよ。四海竜王の宮殿は海底にあってね。基本的には人間の大きさで暮らしているんだ」

「あっちの方が本当の姿なんだよな?」

「人間の姿は力の消耗が少ないからね。ああ、海中を移動するときは元に戻るよ。さすがに飛んだり泳いだりするのには不向きだ」


 絵物語に描かれた龍宮を思い浮かべる。


 地上にある宮殿とよく似た建物が、さも当然のように海中に鎮座している描写は、幼心にいかがなものかと思ったものだ。


「ちなみに、龍宮の周囲にはちゃんと空気があるんだ。知ってたかな?」

「え、本当か!? 何でまたそんな仕組みに……」

「宮殿は使者を出迎えたりするためにも使うだろう? 西海の龍宮には地上の獣人がよく来ていたから、空気がないと大変なことになるじゃないか」

「言われてみれば……そういえば、中原ちゅうげんの東の方の国だと、東海竜王のところに毎年使者を出してるとか聞いたな……」

「厳密に言えば、空気と海水の中間的な状態かな。魚はそのまま泳げるし、地上の生物は自然に歩いて呼吸ができる。龍王の霊力の恩恵でね」

「……霊獣に常識は通用しない、と。本当にとんでもないんだな、君ら」


 とりとめもなく、それでいて心躍る雑談を交わしながら、俺達は荷馬車に揺られてキュウ国の首都へ近付いていく。


 目的地に辿り着いたら、きっとこんな風に過ごす余裕はなくなってしまうのだろう――そんな予感が脳裏をよぎる。


 もちろん根拠はない。何となく思ってしまっただけだ。


 それでも俺は、この無意味で気楽な時間のことを、余すことなく楽しみたいと感じていたのだった。

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