第八話 隣国

 雪那と協力関係を結んだその日のうちに、俺はケイ国と北の隣国を隔てる山脈を飛び越えて、隣国の領地に辿り着いていた。


 ――繰り返しになるが、文字通りに


「うぉわっ!? お、落ち……! 危なっ!」

『慌て過ぎだよ。もっと力を抜いてくれないか。着陸まで体力が持たなくなる』


 前方から吹き付ける強風に耐えながら、白銀の鱗に覆われた巨体にしがみ付く。


 そう――俺は今、白い龍の姿に戻った雪那の背に乗って、山よりも高い空を飛んでいた。


 正直、生きた心地がまるでしない。


 この高さから見下ろす地表は、とてもじゃないが現実の光景とは思えないし、雪那が絶え間なく身体を波打たせているものだから、振り落とされやしないか気が気じゃなかった。


『最初に説明しただろう? 僕の霊力に保護されているから、自主的に飛び降りない限り落下する心配はないんだ。安心して身を委ねてくれ』


 龍になった雪那の声は、聴覚を介した普通の声ではなく、頭に直接響く言葉として伝わってくる。


 頭で分かっていても身体がついてこないんだとか、言い回しが無駄に思わせぶりだとか、言いたいことは山程あるのだが、それを伝えるような余裕もない。


「い……いつまで飛ぶんだ……?」

『もうそろそろ着陸するつもりだよ。夜間飛行は方角が掴みにくいから、できるだけ避けたいんだ』

「それは、よかっ――うわぁっ!?」


 雪那が速度を保ったまま、高度を急激に落としていく。


 先程までとは違う角度で振り回され、地表が急接近する。


 もはや空から落ちているのと何が違うのか――そんな感想すら抱いてしまうほどだったが、実際の着地はびっくりするくらいに穏やかな軟着陸だった。


「ほら、問題なかっただろう? 人間にとっての『普通』は、必ずしも霊獣に通用するとは限らないのさ」


 雪那は自慢げにそう言いながら、俺を草原に下ろして人間の姿に戻った。


 正確には人間の姿に化けたと表現するべきなのだろうが、そんな細かいことを気にしている余裕はなかった。


 脚は生まれたての子鹿のように震えている。


 浮遊感の名残なごりのせいで、地に足が着いている感覚がしない。


 地面が傾きながら揺れている気すらしそうになる。


 貴重な経験だったのは間違いないが、人間は空を飛ぶようにはできていないのだと、これでもかというくらいに実感させられてしまった気分だ。


「……おや、仕方がないなぁ」


 服を着直した雪那が、俺に肩を貸して立ち上がらせようとする。


「大丈夫だから! 歩けるって!」


 母親に世話を焼かれる子供じゃあるまいし、いくらなんでも情けなさ過ぎる。


 もしも次があったとしても、こんな醜態は絶対に晒すまい。


 心の中でそんな決意を固めつつ、震える脚に活を入れて歩を進める。


「ここは……見るからに草原のど真ん中って雰囲気だけど……」


 起伏の大きい地形なので、森林がほとんどない丘陵地帯とも呼べそうだ。


 少なくとも、視界内に人里らしきものは見当たらない。


 龍の姿を目撃される心配はなさそうだが、ここに着陸する利点メリットはそれくらいではないだろうか。


「今日はここで宿を取る。最初の目的地まではまだ距離があるからね」

「宿って……野宿でもする気か?」

「まさか! この近くに丁度いい宿があるのさ」


 雪那に先導されて丘を一つ越える。


 すると、丘陵に囲まれて陰になった辺りに、一軒の大きな建物があるのが見えた。


 いかにも不自然な立地だ。


 街道からはかなり離れているし、周囲に田畑がある様子もない。


 それでいて、軒先には何頭もの馬が繋がれており、それなりの利用者が集まっていることが伺える。


 普通、宿をこんなところに建てたりはしない。


 言い換えるなら、あれは『普通の宿』ではないということだ。


「あれが今夜の宿だ。ゆっくり体を休めるには最適……かどうかは、保証しかねるかな」

「……不安になるようなこと言うなよ」

「君にとっては、かなり特殊な客層が利用している宿に思えるだろうからね。慣れたら快適な宿だと思うよ」


 雪那はそれ以上の詳しい説明をしようとせずに、くだんの宿に向かってまっすぐ歩いていった。


 客層の問題とのことだから、現場を見れば一目で分かると言いたいのだろう。


 ひとまずは大人しくついて行くことにしよう。


「おっと、そうだ。化け具合を調整しておいた方がいいな。これじゃどう見ても人間だ」


 唐突にそんなことを言い出したかと思うと、雪那は身体の各所を発光させ、その部分の形質を変化させた。


 頭から一対二本の角が生え、瞳は蛇のような縦長に細まり、爪が分厚さを増して鋭く尖り、服の裾から長い尾が先端を覗かせる。


 龍人。この表現以外に適切なものはない。


「……まさか、特殊な客層って……」

「お邪魔するよ。二人分の部屋を頼む」


 雪那は僅かな躊躇も見せることなく、怪しげな宿に平然と踏み込んだ。


 中にいた人々の視線が一斉に注がれる。


 ああ――やっぱりそうだったか。完全に予想通りだ。


 従業員から利用客に到るまで、ここにいる俺達以外の連中は、ただの一人の例外もなくばかりだった。

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