第五話 呪詛

 意識を取り戻した俺を待っていたのは、宿の人達と商人達からの手厚い歓待だった。


 結果的にとはいえ、俺の行動が盗賊を蹴散らすことに繋がったので、その御礼をしたいとのことだ。


 数日振りの入浴。清潔な着替え。温かな食事。心地良い寝床。


 過酷な山越えを続けてきた俺にとっては、まさに極楽。


 清潔感と一緒に人間性まで取り戻せた気分だ。


 そうして一夜明けた頃には、心身の活力がすっかり回復しきっていて、信じられないくらいに爽やかな気持ちで朝を迎えられたのだった。


 不十分な食事と不十分な睡眠は、人間の精神を黒く錆びつかせる――武術の師匠がそんなことを言っていたなと、今更ながらに思い出す。


 当時は話半分に聞いていたが、今となっては心の底から同意せずにはいられない。


「……とはいえ、さすがに寝過ぎたな。もう真昼だ……」


 日は既に高く昇り、宿の中はしんと静まり返っている。


 この宿の客はほとんどが旅の商人だった。


 俺が起きるよりも前に、目的地へ出発してしまったのだろう。


 店主の姿も見当たらないのは、きっと今夜の客を迎える準備をしているからだろう。


 せめて挨拶くらいはしておこうと思い、店主を探して宿の外に出たところで、よく通る澄んだ声が投げかけられた。


「おはよう。昨日はよく眠れたかな?」


 声の主は頭巾フードの少女だった。


 いや、今は頭巾フードを外しているので、そう呼ぶのは不正確かもしれない。


「まずはお礼を言わせてほしい。君の心遣いに多大な感謝を。もしも君がいなかったら、果たしてどうなっていたことか」

「お礼を言いたいのはこっちだよ。今更だけど、本当にありがとう」

「感謝される心当たりがないのだけれど……理由を聞いても?」


 少女が不思議そうに小首を傾げる。


 長く伸びた真っ白な髪。

 吸い込まれてしまいそうな青い瞳。

 文句のつけようもなく整った顔立ち。


 ちゃんと目の前に存在しているはずなのに、あまりにも現実味がなさすぎて、夢でも見ているかのような気分になってくる。


「俺がこの宿に入ってきたとき、誰よりも早く気にかけて、何か食べさせようとしてくれただろ。些細なことかもしれないけど、本当に嬉しかったんだ」

「そうかな。結果的には無意味な行動だったじゃないか。僕がいなかったとしても、店主は快く食事を提供していたはずだ」

「結果は関係ない。損得抜きで助けようとしてくれた。感謝するには充分な理由だよ」


 生き地獄も同然の旅路を乗り越えた先で、純粋な善意だけで手を差し伸べてくれた人がいた――それだけでも暗闇に光が差したかのようだった。


 白い少女は驚いたように目を丸くして、それから興味深そうに俺の顔を覗き込んできた。


「ふむふむ……うん、君なら信じても良さそうだ」

「信じる? 何の話だ?」


 今度は俺が問い返す番だった。


「店先で話すのは差し障りがある。裏手の方に来てもらえないか」

「……まぁ、話だけなら。力になれるかどうかは分からないけど……」


 少女に促されて宿の裏手に移動する。


 普段は人が立ち入らない場所なのだろう。


 無造作に生えた草藪と木立で視界が遮られ、街道の方からはまるで様子が伺えなくなっている。


 秘密の話をするにはぴったりの場所だ。


 もちろん、誰にも見られたくないことをするためにも。


「刃を噛みちぎり、炎を喰らう。君は『食べる』ことに特化した天命を背負っているとみた。そんな君に食べてもらいたいものがあるんだ」


 確かに俺の天命は『悪食』だが、限界がどこにあるのかはよく分かっていない。


 もしかしたら期待に応えられないかもしれない――そう伝えようと思ったのだが、白い少女が取った行動のせいで、何もかも頭から吹き飛んでしまう。


 少女はおもむろに服をはだけ、透き通るように白い肌を露わにし始めた。


 首の付け根、思った以上に女性的な胸の膨らみ、細く引き締まった腹と腰――


「……な、なあぁっ!?」


 反射的に両手を突き出して顔を背ける。


 乙女の柔肌なんて、軽々しく見ていいものじゃない。


 自分としては常識的な反応のつもりだったのだが、少女は心底呆れ返ったような声で畳み掛けてきた。


「ちゃんと見てくれないと困るな。君に食べてもらいたいんだから」

「た、食べるって……!?」


 明らかに婉曲表現としか思えない口振りに、余計に焦りを掻き立てられてしまう。


 突き出した手の隙間から、半裸の少女の身体を恐る恐る視界に入れる。


 見るべきじゃない部分はなるべく指で隠すようにして、顔と、首と、胸骨と――


「……ちょっと待った。何だ、それ……」


 ――胸の中央に、まるで根のように食い込んだ、黒い異物。


 他の比喩を使うのなら、白磁のひび割れに墨の塊を流し込んだかのような。


 とにかく、いびつな蜘蛛の巣じみた黒い異物が、少女の白い肌に食い込んでいた。


「これはたちの悪い呪詛だ。お陰で僕はまともに『力』を振るえなくなっている。いわゆる異能や法術だけじゃない。文字通りの気力と体力も奪われる一方でね。心底困り果てていたんだ」


 気が付けば、邪な思考は跡形もなく消え失せていて、事の深刻さだけに意識が集中していく。


 正直、自信はない。


 見るからに禍々しいこの異物――呪いを食べる?


 いくら炎を食べられたからといって、呪いまで食べられると断言できる根拠なんて、どこを探したってあるわけがない。


 けれど、この子は全面的に俺を信じてくれたのだ。


 何もせずに逃げ出すなんて、それこそ出来るわけがなかった。


「……分かった。上手くいくかは分からないけど、試してみるよ」

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