第八章 どこまでも広がる青い空

第一話 エピローグ(前)

グラティアが高度を落とすにつれて、空は次第に青さを取り戻し、甲板に朝の日差しが注ぎ込み始めた。


 天界の一歩手前まで上昇したとき、グラティアはいわゆる弾道飛行の形で境界領域まで飛翔した。


 弾道飛行。要するに山なりの大ジャンプ。


 そのままの軌道を描いて降りていくと、行き着く先は出発地点の遥か彼方。


「……参ったな。グラティア、現在位置……分かるか?」


 俺は前方甲板の隅に座り込み、艦橋の真下の外壁に背中を預けたまま、少しずつ白みゆく空を眺めていた。


 現在地も分からない困った状況だというのに、不思議と笑顔が浮かんできてしまう。


 全身に染み渡る疲労も、今は心地よい充足感だとしか思えない。


 立ち上がろうという気分にもならず、ただ現実に浸っていたかった。


 ウルフラムを打ち倒した――まるで夢のような現実に。


「少なくともアクィラ空域は飛び越えたわね。ハルシオンとか完全に置き去りだわ」


 俺のすぐ隣で、アヤも同じようにへたり込んで、同じように笑っている。


 今度こそ、アヤを失う運命を乗り越えることができた――そう思うだけで、喜びが際限なく溢れてくる。


「体感だけど空域数個分……カプリコーンかアクエリアスは通り過ぎたんじゃない? ひょっとしたらフォーマルハウトの近くだったりして」

「フォーマルハウト? 勘弁してくれよ。ヤバい上級精霊がいるって噂の島だろ?」

「死んだわね、私ら」

「何で上陸する前提なんだよ」


 何気ない会話をして笑い合う。


 たったそれだけの些細なことが、俺にとっては他のどんなものにも変えられない、最高の報酬なのであった。


◆ ◆ ◆


 さて、それはそれとして。


 通常高度まで降りてきた俺達を待っていたのは、目が回るほどの事後処理の山だった。


 まず事前通告なしに降りてくる形になってしまったせいで、降下先の空域が一体何事かと大混乱してしまい、さては邪竜教団の新兵器かと軍艦まで駆り出される始末。


 その辺はエリシェヴァが前に出たことで即座に収まったのだが、今度はシップレック・ベルトに置き去りにしてしまったハルシオン達と連絡を取るために、あれやこれやと準備に右往左往する破目になった。


 なにせ、現在位置は目的地の島があるアクィラ空域どころか、その隣の空域すらも飛び越えた遥か彼方。


 グラティアの通信機では、ハルシオン達がいるところまで霊波が届かない。


 かといって、連絡を取らずに引き換えしてしまったら、入れ違いになって余計に手間暇が掛かってしまうかもしれない。


 最寄りの空域に頼んで大型の通信設備を借り、それを使ってアクィラ空域と通信を繋ぎ、エリシェヴァを待つ天使教会に連絡を取り……とまぁ、諸々の手続きやら何やらが積み重なって大忙し。


 しかも黒騎士ウルフラムを討伐したことを聖騎士団に知られ、すぐにでも事情を聞かせてもらいたいなんて話も持ち上がって、いつになったら再出発できるのか分からないくらいだ。


「よっ、お疲れさん」


 多忙な時間の合間を縫って、グラティア艦内の談話室で一息ついていると、リネットが冷水の入ったコップを片手に話しかけてきた。


「まだまだ一段落には程遠い感じだな。次は聖騎士団からの聴取だっけ?」

「頼むから仕事が終わってからにしてくれって言ったんだけどなぁ。エリシェヴァも別の船に乗り換えたらいいのに、全部終わるまで待ってるとか言い出すわ……」

「あはは! そりゃ乗り換えるわけないだろ! グレイル級の規格外っぷりを間近で味わったんだぞ?」


 受け取った冷水で喉を潤しながら、背もたれを軋ませて笑うリネットを横目で見やる。


「天界に届くほどの圧倒的加速力! まさに天竜戦争のロストテクノロジー! あたしも興奮しっぱなしでさ!」

「俺は天界の風景に感動したな。いや、あそこはまだ手前の境界領域なんだっけか」

「間違いなく歴史に残るぞ。天竜戦争が終わってから、あそこまで行けた人間は誰もいないって話だからな!」


 そういう設定なのは最初から知っていたが、この世界を生きるリネットから聞かされると、嬉しさも現実味もひとしおだ。


 リネットもコップの中身を飲み干して、しばらく感慨に耽っていたと思うと、不意に落ち着いた声色で違う話題を口にした。


「大立ち回りの後始末が終わり次第、アルタイル島に向かって姫様と神器を教会に届けて、補給を済ませてアスクレピオス空域のラサルハグ島に直行……今後の予定はこういう感じでいいんだよな」

「ああ、アヤとエヴァンジェリンの目的地……セラフィナがいるはずの島だ」

「それが済んだら、次はどうする? エヴァンジェリンとアヤは船を降りるだろうし、サーシも里帰りするまでって契約だろ? クルーの募集から掛けないといけないかもな」


 そんな何気ない質問に、俺は即答することができなかった。


 アヤが死ぬ運命を覆して、エヴァンジェリンを姉のところに送り届けて、その次はどうするのか。


 考えたこともなかった。そもそも考える余裕がなかった。


 全て夢だったというオチが付く気配はなく、俺は依然としてこの世界の一員として存在し続けている。


 この世界の住人として生き続けるのは悪くない。


 けれど、そこにアヤがいないのなら――


「……時間はあるんだ。ゆっくり考えるよ」


 俺は返答をひとまず棚上げして、仕事に戻るために談話室を後にしたのだった。


◆ ◆ ◆


 艦長室に向かって廊下を歩いていると、反対側からエリシェヴァとローエングリンの二人と出くわした。


 騎士らしく丁寧な一礼をするローエングリン。


 エリシェヴァは最初の頃とは違う柔らかな表情を浮かべながら、背丈の違う俺の顔をまっすぐ見上げてきた。


「お礼申し上げます、レイヴン艦長。アルタイル島に到着いたしましたら、働きに見合った充分な報酬を手配いたしますわ。大勢の候補の中から貴方を選ぶことができたのは、まさに神の御加護と言うより他にありません」

「こちらこそ、ご協力感謝します。神器の使用許可をいただけなければ、あんな作戦はとても実行できませんでした」

「ふぅ……謙虚は美徳だと思いますが、貴方はもっと胸を張るべきですわ」


 ちゃんとした丁寧な応対を心がけてみたのだが、何故かやれやれとばかりに首を横に振られてしまった。


「雷霆槍ケラウノスを見事守り抜いたのみならず! 奪われていた神聖杯ネクタールを取り戻すという大殊勲! 後者を公表できないのは残念ですが、お父様も最大限の報奨を与えてくださるに違いありません!」


 エリシェヴァは両腕と白い翼を大きく拡げ、大袈裟なくらいの態度で言い切った。


 俺はアヤを助けたい一心で行動していて、他の全てはそのための手段だったり、成り行きでそうしただけの副産物だったりと、評価されたくてやっていたことではない。


 そもそも、俺が立てた作戦は最後の駄目押しになっただけに過ぎないと思っている。


 ――イノセント・ルクスデイ、エヴァンジェリンの父親が幼いアヤの命を助けたからこそ、アヤとエヴァンジェリンは出会うことができた。


 デウスクーラト家の当主、つまりエリシェヴァの父親が、友人であるイノセントに同情して減刑を望んでいなければ、エヴァンジェリンはアヤと出会うまで生きていられなかったかもしれない。


 もしもエヴァンジェリンと仲良くなっていなかったら、サーシ今まで通りウルフラムの命令を聞いていただろうし、エリシェヴァもあそこまで協力的になってくれなかっただろう。


 つまるところ、ウルフラムを追い詰めた決定打は、事件に関わってきた人々が、他人を思って取った行動の積み重ねなのだ。


 あの男が他人を信用しようとせず、自分のためだけに動いてきたことを考えると、本当に皮肉な結末だ。


(まぁ、それでも、褒められて嬉しくないって言えば、嘘になるんだけどさ)


 人間なら誰だってそういうものだろう。


「ええと……ありがとうございます。ところで……」


 頬を掻きながらさり気なく話題を切り替える。


「ネクタールを取り戻せたなら、ルクスデイ家の……エヴァンジェリン達の扱いも変わったりするんでしょうか。いい方向にも、悪い方向にも」

「……最終的な決定は評議会の判断を仰がなければなりませんが、エヴァを不幸にする結果にだけはさせませんわ。これはデウスクーラト家の名誉にも関わる問題です」


 エリシェヴァは胸に手を置いて力強く宣言した。


 これならきっと安心していいはずだ。


 というか、そうじゃないと俺が納得できそうにない。


「安心しました。エヴァンジェリンには、できるだけ幸せでいてもらいたいですからね」


 アヤを悲しませないためにも、という本音はぐっと飲み込んでおく。


「天界を追放された本当の理由を知らないまま、デウスクーラト家のご令嬢を手伝って功績を上げて、相応の評価と報奨を受け取って実の姉と再会する……やっぱりこれが、一番の着地点だと思うんです」

「……わたくしもそう思いますわ。知らない方が上手くいくこともある、世の中はそういうものでしょう」


 何故だろうか。


 エリシェヴァの表情が妙に優しく見えた気がした。


「ところで、エヴァ達をお探しだったのでは? エヴァでしたら、聖騎士アヤと後方甲板にいらっしゃるようですが」

「そういうわけじゃないんですけど……いえ、ありがとうございます。今後について話し合っておきたいこともありますし、ちょっと様子を見てきます」


◆ ◆ ◆


 ――こんな状況を表現した寓話が、確かどこかの島にあった気がする。


 エリシェヴァは後方甲板に向かうレイヴンの背中を見送りながら、そんなことを思った。


 アヤとレイヴンは、エヴァンジェリンに残酷な真実を教えまいと心を砕き、彼女の笑顔を守ろうとしている。


 だが、エヴァンジェリンは最初から全てを知っていた。


 全てを知ってもなお、優しい心根と愛らしい笑顔を保ち、それどころか他の人々を悲しませないため、何も知らない振りを貫いている。


 どちらも動機は友のため。


 相手のことを思っての食い違い。


 これを美談と捉えるか、それとも喜劇と思うかは人それぞれだろう。


 しかし少なくとも、エリシェヴァはそれに強く心を動かされた。


 神器ケラウノスを武器として使いたいという、エヴァンジェリンの頼みを快く受け入れたのもそのためだ。


 竜騎士ウルフラムに事実上の致命傷を与えた一撃。


 レイヴンには『エリシェヴァが下した判断』だと説明したが、本当はエヴァンジェリンの希望で放たれたものであった。


 しかもウルフラムへの復讐心ではなく、アヤを助けたいという純粋な願いだけの。


「まったく……あんな必死にお願いされてしまっては、断るものも断れませんわ」

「旦那様もきっと理解してくださると思いますよ。お嬢様の我儘は珍しくありませんが、お友達のためというのは滅多にありませんからね」

「お、お黙りなさい! そういうのではありませんから!」


 顔を赤くして憤るエリシェヴァ。


 ローエングリンはそんな抗議の声など気にする素振りもなく、ただ微笑ましそうな眼差しを送っているのだった。

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