第六話 大切な人のために

 艦長のレイヴンと聖騎士アヤが後方甲板で戦いを繰り広げる最中、エヴァンジェリンとエリシェヴァは、負傷したサーシとローエングリンを艦内に運び込もうとしていた。


 しかし意識を失ったサーシの体は普段以上に重く、エヴァンジェリンの華奢な体ではまともに背負うことすらできず、つま先を引きずらせながら運ぶことしかできなかった。


「ローエングリン! どうしたのですか、早くこちらに!」


 エリシェヴァの突然の声に驚き、振り返るエヴァンジェリン。


 ウルフラムに霊力防壁を破壊され、深い傷を負わされているはずのローエングリンが、エリシェヴァに背を向けて後方甲板に引き返そうとしていた。


「駄目です。聖騎士アヤと艦長殿だけでは、今のウルフラムには勝てません。あの男は聖騎士団にいた頃よりも格段に強くなっている。ハルシオン卿の救援が間に合ったとしても、互角に持ち込むことすら難しいでしょう。せめて私も加勢しなければ……」

「そんな体じゃ……! エヴァンジェリン! 貴女からも何か言ってくださいませ!」


 縋るように振り返るエリシェヴァ。


 エヴァンジェリンは小さく頷いて視線をローエングリンに向けた。


「ローエングリンさんはサーシと一緒に休んでいてください。私達が何とかします」

「私達? まさか、わたくしのことですの!?」


 その言葉の意味を理解するなり、エリシェヴァは苦悶と悔恨に顔を歪ませた。


「わたくしにできることなど、何もありませんわ。戦える力があるのなら、最初からそうしています。わたくし如きが引き返したところで……」

「大丈夫。エリちゃんも気付いてるよね。神器ネクタールが今どこにあるのか……あの人がどうして不死身なのか。今なら分かるはずだよ」


 エヴァンジェリンは意識のないサーシを丁寧に横たえさせた。


「……ええ、それくらい察しがつきますとも。神聖杯はあの男の手中にあるのでしょう。霊力防壁の不可解な回復にもこれで説明が付きます。加えて言えば……貴女の御父上から神聖杯を盗み出した張本人も、あの男だったのでしょうね」

「それはいいの。今はね。そんなことより、ネクタールはデウスクーラト家に伝わってた神器なんだよね? だったら神器の機能を止める方法も……」

「いいえ! わたくしには無理です!」


 それは甲板から響く轟音でも掻き消されないほどの、心の底からの悲痛な叫びだった。


 唇を噛み締めて俯いたエリシェヴァに変わって、ローエングリンがその理由をエヴァンジェリンに語り聞かせる。


「神器には固有の人工精霊が宿されています。神器を意のままに操るためには、この守護精霊と契約を結ぶか、力尽くで守護精霊を抑え込まなければなりません」


 これは神器のレプリカが製造可能であるにもかかわらず、失われた神器を作り直すことができない原因の一端でもある。


 いくらエーテリウムのアーティファクト自体を作り直したところで、肝心要の人工精霊がロストテクノロジーと化してしまった以上、神器の再製造は挑戦することすら不可能なのだ。


「ですがエリシェヴァお嬢様は、神聖杯ネクタールの守護精霊と契約を結ぶことができませんでした。聡明な貴女でしたら、理由はお分かりでしょう」

「……契約を結ぶ前に、神器が盗まれたから……」

「その通りです。神聖杯ネクタールが失われた後、貴女の一族が管理していた雷霆槍ケラウノスが、ネクタールの代替としてデウスクーラト家の管理下に入りました。お嬢様が契約を結んだ守護精霊はケラウノスのものなのです」


 神器・神聖杯ネクタールはデウスクーラト家の、神器・雷霆槍ケラウノスはルクスデイ家の管理下にあるのが本来の在り方であった。


 しかし十数年前、ネクタールは病に倒れたエヴァンジェリンの治療のためルクスデイ家に貸し出され、返却される前に何者かの手によって――実行犯は恐らくウルフラムなのだろう――奪い去られてしまう。


 ルクスデイ家は責任を問われて聖域を追放、ネクタールが奪われたという事実は隠蔽され、天使と天使教会の関係者だけが知る機密事項として処理され、今に至る。


「正式な契約と適切な詠唱が揃えば、ウルフラムの力任せの制御を一時的に無力化することはできるでしょう。しかし、ここに神聖杯ネクタールの正規契約者はおりません。デウスクーラト家には、契約を維持しておられる方もいらっしゃいますが、今からでは到底……」

「ネクタールの守護精霊との契約者がいればいいんですね? それなら、ここにいます」


 エヴァンジェリンは力強い笑みを浮かべながら、自分の胸を叩いた。


「何を仰って……そ、そうか! 多重契約の制限が……!」

「えっ? どういうことですの、ローエングリン! 多重契約が何ですって?」

「複数の精霊と同時に契約を結ぶためには、多くの条件を満たす必要があります。これは神器の人工精霊も例外ではありません。ネクタールとケラウノスのように正反対の精霊同士であれば尚更です」


 そこまで聞いた時点で、エリシェヴァは全てを理解してハッと息を呑んだ。


 多重契約の制限。


 ごく身近な例でいうならば『リネットがグラティアとの契約を望んだとしても、既に甲鉄姫ドレッドノートと契約を結んでいるため困難である』という事例が該当する。


 契約精霊は原則として一人に一体。


 それがセレスティアル・ファンタジーの基本原則なのだ。


「病に倒れた貴女を救うためには、ルクスデイ家の誰かがネクタールと契約を結ぶ必要があった。けれど他の方々は既にケラウノスと契約を結んでいたから……治療対象である貴女自身が契約を結んだのですね」

「うん。他の皆は多重契約になっちゃうから、真っ当に準備してたら間に合わないからって。本当は治療が済んだら、ちゃんと契約を解除するつもりだったらしいんだけど」


 困ったように頬を掻くエヴァンジェリン。


 ネクタールを治療に使うためには、守護精霊と契約を結んだ者が必要不可欠。


 その条件をどうやって解決したのかという疑問の解答は、意外なほど近くにあったのだ。


「けれど、その前にネクタールが盗まれてしまった……あははっ! わたくし達、こんなところでも正反対だったのですね!」

「笑い事じゃないよ!? そのせいで私、ずっと困ってたんだからね! 他の精霊に契約変えられないし! 解除とかも無理だったし!」

「神器の精霊が相手ならそうなりますわね」


 大袈裟な身振り手振りを交えたエヴァンジェリンの嘆きっぷりに、エリシェヴァはようやく落ち着きを取り戻した様子で柔らかい微笑みを零した。


「霊力防壁も出せなかったのって、今思えばウルフラムが無理やり抑え込んでたせいで、防壁分のパワーすら借りられなかったからなのかなぁ……と、とにかく。時間が惜しいから正直に言うね?」


 エヴァンジェリンは咳払いの真似をして一呼吸を挟み、エリシェヴァの肩にそっと手を置いて、澄んだ瞳をまっすぐ覗き込んだ。


「私はアヤの力になりたいの。自分の身もろくに守れない私を、アヤはずっとずっと守ってくれた。何度も何度も死にそうになったけど、その度に平気だって笑い飛ばして……だけど、このままじゃ、いつか本当に……」


 華奢な肩に置かれた手に力が籠もる。


「だから、お願い! ワガママかもしれないけど……」

「……ええ、よく分かりましたわ。貴女の覚悟も、わたくしの不甲斐なさも」


 エリシェヴァはエヴァンジェリンの手にそっと自分の手を重ねた。


 もはやその目に怯えはなく、彼女本来の気高さと力強さを完全に取り戻していた。


「栄えあるデウスクーラト家の娘が、いつまでも無様を晒し続けるわけにはいきません。あのような無礼者に好き放題させるのも言語道断! むしろわたくしから、貴女に助力を乞うべき局面ですらあります」

「……エリちゃん! ありがとう!」

「呼び方! どうしても略したいのでしたら、エルザとお呼びなさい! 家族はそのように略しておりますわ!」


 そのとき、後方甲板で落雷じみた閃光と轟音が炸裂した。


 レイヴンとアヤの戦いは明らかに熾烈さを増している。


 容易く敗れ去ることは考えにくいが、ウルフラムを撃退できる可能性は決して高いとは言えず、むしろ敗色濃厚とすら言えるだろう。


 エヴァンジェリンは廊下に寝かせたサーシの傍らにしゃがみ込み、サーシの乱れた前髪を直しながら謝罪の言葉を残した。


「ごめん、もう少しだけ待ってて。絶対に戻ってくるから」


◆ ◆ ◆


 二人の天使が走り去っていった後、ローエングリンは廊下の壁に背中を預けて座り込みながら、すぐ側に横たわるサーシに声をかけた。


「降霊術師。いや、死霊術師と呼ぶべきか? もう目は覚めているんだろう」

「あはは……すみません、起きましたって言うタイミング、見失っちゃいました……」


 仰向けのまま、気絶していたはずのサーシが片腕で目を覆う。


 その口元は、微笑んでいるようにも、嗚咽を堪えているようにも見えた。


「貴様、ウルフラムと繋がりがあるようだな」

「はい」


 サーシは淀みなく即答した。


「皆が戻ってきたら、全部話します。だから、今は、少しだけ泣かせてください」


 甲板の戦闘の音が廊下にまで響き渡り、サーシの唇から漏れる泣き声を塗り潰していく。


 ローエングリンはそれきり何も追及せず、壁に背を預けて静かに佇むだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る