匂いの記憶

藤泉都理

三分間電話の日




 ラベンダーの香りがほのかにした。

 愛妻家のあいつからはいつも。











 公衆電話を見るとどうしてか、ガムの匂いが蘇る。

 十円硬貨五枚で買える駄菓子屋の何の味かわからない甘いガム。

 それを噛みながら公衆電話を使っていたわけでもないのにどうしてか。

 忘れているだけなのか。

 きっとそうなのだろう。


 昔、十円硬貨で無制限に使えていたのが、今や三分間という制限がある公衆電話。

 何枚使ったのか。

 もはやわからない。

 ただ繰り返す。

 泣かないでと。


 俺は選ばれたのだから。


 どうしてだろう。

 どうして選ばれたのか。

 今ある種を未来へ遺す為に特別な建物の中で保存するノアの方舟計画に。

 わからないが、あんなに金が積まれたのだ。

 これからどれだけ働こうが手にすることはできない大金。

 否とは言えない。

 唯一の親孝行ができた。


 車で、飛行機で、外が見えないように遮断されながら運ばれて、収納されたカプセルの中。

 いったい何の役に立つというのか。

 疑問は晴らされないままに眠りに就く。


 愛妻家のあいつに連絡するのを忘れた。

 後悔なんて呼べない思考が脳裏を過った。






 ああ、そうだ。

 公衆電話を見るとどうして駄菓子屋のガムの味を思い出すのか。

 そうだそうだ。

 幼い頃、あいつと遊んでいたのだ。

 長方形の透明な硝子箱に入って、公衆電話を使って。

 おもちゃにするな、邪魔をするな。

 大人に怒られたこともあるのに、凝りもせず。

 お気に入りの駄菓子屋のガムを噛みながら。




 忘れていた。

 公衆電話の匂いではなかった。

 正確には、幼い頃のあいつとの思い出の匂いだ。




 きちんと別れの挨拶をすればよかったかな。








 なんて。

 深刻な場面にならないんだよなあ。


「なあ、おまえ。何してんの?」


 ラベンダーの香りがした。

 ほのかにではなく濃厚な。

 ラベンダーが咲き誇っているのだろうと思いながらも、一抹の思考も拭いきれなくて。

 瞼を持ち上げると同時に開いたカプセルの蓋に誘われるまま上半身を起こすと。

 あいつが両腕いっぱいにラベンダーを抱えて笑っていた。


 愛しい妻がラベンダーを所望なので、いっちょタイムマシンを作って、未来まで取りに来たと。


 愛妻家、パネェ。

 恐れおののきながらも、ちょっとだけ気になった。

 涙目になっていることに。

 まあ、目当てのラベンダーが見つかったから、きっと嬉し涙なのだろう。











(2023.1.30)



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