里佳子から話を聞いた日、事務所に帰っても青山君はいなかった。彼が来たのは、それから二日後のことだ。

 私は二日の間に件のイベントに参加していた、あるいはその日病院にいて何か変わった者を見た人々に接触し、殆どの場合すげなく断られてしまったけれど、それでも話をいくつか聞いてきたのだ。

 青山君に録音を聞かせる。彼はふんふんと頷きながら聞いていた。

「それで、明日以降も聞き込みを続けていこうと思うわけですが」

「先輩」

 青山君は私の言葉を遮って、

「僕、本格的に実家の方が忙しくなってきてしまって……またしばらく、事務所に来られないと思うんですが」

 青山君の顔をまじまじと見つめる。

 相変わらず彼は、同世代の男性と比べると肌艶が良く、微塵もストレスの影が見えない。それでも、ほんの少しだけ感じる発言の違和感は、多忙からくるものだったのかもしれない。

 青山君が自ら「実家が忙しい」というのは初めてのことだった。

「そうですか。なんだかすみません。事務所に来ていただいてご迷惑でしたね」

「いいえ、そんなことは」

 青山君はそう言ったきりしばらく黙り込んでから、立ち上がる。

「ちょっと待ってください」

 なんとなく、すぐに帰ってほしくなくて、私は言葉を紡ぐ。

「どうしましたか? もう一杯、カフェオレを淹れようかと思っただけですが……」

「あ、いや……」

 先日からのこの微妙な居心地の悪さは何なのだろう。私はもう少しうまく振舞えていたはずだ。今は、ただ話しかけるだけでも、妙に遠慮してしまう。

「それで、お話の続きは?」

 青山君は優しく微笑んで言う。彼の実家が忙しくなったのも、彼に話を聞いてほしい人、あるいは彼の笑顔を見たいだけの人が殺到しているからではないか、と思ってしまう。

「すみません……また、いつもの推測になりますが」

「るみ先輩の推測はあまり外れないじゃないですか」

 それは、普段私がほぼ確定的なことしか彼に話さないからだ。パートナーとしていいところを見せたいのだ。いや、少し違うかもしれない。子供のように、褒められたいだけなのかもしれない。そんな部分を見透かされたような気がして、私は必要以上に大きな声で話した。

「もしかして、今回はあなたの得意分野かも、と思いました。手に穴。これ、聖痕では?」

 聖痕とは、本来はイエス・キリストが磔刑になったときに受けた傷跡のことを言うが、熱心な信者の体に現れた同じ個所の傷跡のことも指す言葉だ。

 イエスの磔刑の際、釘を打ちつけられた左右の手足、処刑人ロンギヌスの槍によって刺された脇腹の五か所の傷跡を聖痕とするのが一般的だが、ヴィアドロローサを十字架を背負って歩いた際についた背中の傷跡、あるいはキリストが辱めのためにかぶせられた「ユダヤの王」の象徴である荊の冠によってできた額の傷跡も聖痕とする場合もある。

 古くは十三世紀頃から体に聖痕が現れたと主張する者はいて、一説によると暗示にかかりやすい人間であることが多いらしい。そもそも、自傷など、信憑性の低い報告も大量にあるとされる。

「違いますね」

 青山君が言った。

「聖痕であることはあり得ないでしょう」

 口調こそ柔らかいままだが、あまりにもきっぱりとした否定だった。

「な、なんでそんな」

 私が動揺していることなど気付いていないようだ。

 青山君は白いシャツの袖のボタンを外し、丁寧に捲り上げた。

 金色の産毛と、顔に似合わず血管が強く主張している腕が露になる。青山君は掌をこちらに向け、手首の部分を指さした。

「これは解剖学的な話なんですが、前腕を構成する骨は二本です。橈骨と尺骨」

 青山君は人差し指と中指を立てて、自分の腕を肘から手首にかけて上になぞっていく。目で追っていると、指は一本に合わさって、手首で止まった。

「もし手首より上の位置に釘を打つと、留める骨がないので皮膚を切り裂いて手は落下してしまいます。すると、磔刑にならないわけです。ですから、磔刑にするときは、掌より下、手根骨と前腕の二本の骨の間に釘を打っていたと言われます。引っかかりますからね」

 私はしばし呆然として青山君の灰色がかった瞳を見つめた。

 もしこれが別の人だったら、「そもそも聖痕というのが激しい自己暗示で現れるとしたら、本人にその知識がなければ掌に現れることもありうるのでは」とかなんとか言って反論したかもしれない。しかし、相手は青山君だ。

 専門分野とはいえ、彼がこのようなことを嬉々として語るはずがない。そう。青山君の声は、話している間中、少し上ずっていたように感じた。

 妙な胸騒ぎがした。冷静に考えたくても、心臓がどくどくと脈打って思考を邪魔する。

「先輩?」

 そう呼ばれて、私は短く相槌を打った、気がする。彼になんと言っていいか分からなくなった。

「風邪を引いちゃったんですかね。なんだか、顔色が悪い気がします。季節の変わり目ですもんね。昨日は雨も降っていて、驚くほど寒かったですし。先輩はいつもアイスなのは分かっていますけど、やっぱりカフェオレはホットにしましょう」

 先輩でも体調を崩すことなんてあるんですねとかなんとか、青山君は笑顔を崩さず言っている。

「今日は、ゆっくり休むことにします」

 私はなんとか言葉を絞り出した。震えていて、情けない声だった。

「そうですね。冷蔵庫にスポーツドリンクと、あといくらかおかずの作り置きもあります。食べられそうなものがあったらどうぞ」

 もし実家に戻るなら家まで送っていこうかと提案されたが、私は断った。くれぐれも無理はしないで下さいね、と聖母のような顔で言って、青山君は事務所を去って行く。引き止める気にはならなかった。

 嫌な予感が頭の中に浮かんでは消える。いや、消えない。離れることはない。

 これは私の妄想だ。

 私は育ちが悪いから、いつも人を嫌な風にばかり見てしまうから、すぐにネガティブな予想を立ててしまうだけだ。きっとそうだ。

 青山君は世話好きで、弱々しく見えるが芯が強くて、ただただ優しくて、そういう男性だ。それだけだ。

 少しの判断材料で結論を導くのは暴論とか、憶測とか、とにかくそう呼ぶのだ。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫」

 誰も応えない。ここには私一人しかいない。

 私は何度も深呼吸をして、思考の渦から無理やり彼を排除する。

「とりあえず、もっと色々な人から話を聞かなくちゃ」

 独り言を言うのは、不安だからだ。

「青山君がいないのに、私だけで人から話なんか聞けるかな」

 無理だ。私の見た目は不審者でしかない。その上、口を開けば失礼なことしか言わない。そんな人間に話を聞かせてくれるのは、とにかく誰かに話したい人か、藁にも縋るほど追いつめられている人だけだ。実際、この二日で話を聞いた人たちも、そういう人たちばかりだった。

「勿論そういう人の話だって必要だけど、それだけじゃだめだよね。だって、興奮している人や追いつめられてる人は、思考が極端だから。何もないところから何かあるんじゃないかって読み取るし、そういう主観はノイズになる」

「それは俺も同意」

 突然左腕を摑まれ、咄嗟に払いのける。大きな音がして、摑んだ者が椅子を巻き込んで倒れるのが見えた。

「と……片山さん」

 西日に照らされて、高い鼻の影が頰に落ちている。

 片山敏彦はいてて、と言いながら起き上がった。

「毎度思うけどそのゴルゴ13みたいなのやめてよ。佐々木さんはまず肉体言語で解決しようとするのをやめるべき」

「なんで……」

「なんでここにいるのかって、友達のところに来たらダメなの?」

 敏彦は、彼の素晴らしい美貌がより一層強調されるであろう、そういう角度に絶妙に顔を傾けて言った。

「ダメではないですが……鍵……」

「ボロいビルの鍵は構造が単純。あのふくよかなオーナーさんに言って付け替えてもらったら?」

 敏彦はどこから見ても完璧に美しいが、倫理観が人とは大きく異なっている。多少の──いや、もし普通の人間だったら犯罪行為になるようなことでも、彼を目の前にすると誰もが許してしまうからなのか。いや、違うかもしれない。彼は生まれつきこういう人間なのだ。外側がどうあれ。だから、私のような人間とも長く付き合うことができる。

「さっきさ、ここへ来る途中、青山君とすれ違ったよ。元気がない理由、それかな」

「そういうわけでは」

「いや、そうでしょ。さっきブツブツ言ってたの、ほとんど聞こえなかったけど、『私だけで人から話なんか聞けるかな』っていうのは聞こえた」

「付いてきたいならそう言えばいいでしょう」

 敏彦はにこにこと笑っている。青山君とは違う。優しさからくる笑顔ではなく、ただ、面白いことを見つけたというだけの顔。

 しかし私にはこういう人間の方が合っているのかもしれない。

「もし付いてきてくださるのでしたら、少ないですが時給もお支払いしますよ」

「いらないいらない。俺、お金は結構あるから」

 彼とは高校生の時からの付き合いだ。

 私が趣味で作ったオカルト事件をまとめたサイトの掲示板に書き込んできて、そこで何度かやり取りをし、現実世界でも会うようになった。もう十五年以上付き合いが続いていることを考えると、感慨深さすらある。

 彼は良い大学に進学し、良い会社に就職したが、すぐに辞めて、今は投資をメインにし、さらに社会との繫がりを失わないために、片手間にアルバイトをして暮らしているらしい。会社を辞めたと聞いた時も驚きはなかった。彼の外見で集団に埋没するのは困難を極めるだろうし、そもそも性格的にも会社勤めには向いていないだろう。

「とりあえず、ざっとでいいから今やってる案件について教えてくれないかな」

「分かりました。ありがとうございます」

 私が頭を下げると、敏彦はだからいいって、とまた言った。

 私から事件のかいつまんだ内容を聞いて、敏彦は目を輝かせた。彼には子供への同情心など、そういうものが一切ない。単に、面白そうな事件だ、と思っているに違いない。面白くない、と思うと一応やってくれはするが、全く身が入らない様子になるので、とりあえず彼の関心を引くものであったことは幸いだ。

「明日からも事件の情報を集めていく感じかな」

「ええ、そういうことになりますね。あなたがいれば百人力。その顔で、とにかく色々な情報が聞き出せることでしょう」

「頑張るよ」

 敏彦は任せて、と言った後、ふと考え込むような仕草をする。

「どうなさいました?」

「いや……そういえば、佐々木さんもちょっと調子が狂った感じだったけど、青山君も変だったなって」

「どういう、ふうに」

 敏彦は私よりずっと頭が良い。もしかして彼も、私と同じことを考えているかもしれない。もしそうだったら──

「いや、そんな大したことじゃないから。俺に気が付かなかった。それだけなんだけど、今日はマスクとかしてないから、なんかね」

 もし普通の顔立ちが整っている人間がこんなことを言ったら勘違いで思い上がっていると誰もが思うだろう。しかし、敏彦の場合は違う。彼の言う通りだ。正常な脳の機能を有している者にとって、彼の存在を無視して通り過ぎるのは難しい。

 彼の顔はあまりにも美しい上に、それを見せびらかすかのようにゆっくりと歩く癖がある。彼に気が付かないのはよほど急いでいるとか、視力矯正がうまくいっていないとか、あるいは重大な考え事があるとか、そのどれかしか考えられない。

「心配だね」

 敏彦がぽつりと言った。

「彼はすごくいい人だから、いつもハッピーでいてほしいよ」

 敏彦は他人の不調を気に掛けるような男ではない。そんな男にこう言わせるほどの善性が青山君にはある。

 私は大きく頷いて、「彼はご実家が忙しいようですよ」と言った。

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