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泉さんの言う通り、丹羽桃子は疲れ切った様子だった。
彼女の経営する〈アントルメ世田谷〉は『モリヤこども医療センター』から徒歩十分ほどの場所にあった。モリヤ、と聞くと、どうしてもあの事件を思い出す。泉さんも言っていた、いろんな報道のあった事件。実は、私も青山君も、深く関わっている。
数か月前に、モリヤの所有する建物内で大量殺人があった、という件で会社に捜査が入った。その建物は新興宗教の本拠地になっていて、そこで信者同士が殺しあった形跡があり、何人もの遺体が発見された。CEOの守屋秀光は一貫して全く知らなかったと答え、実際に関与していた証拠も見付からなかったが、結局辞任して、今は外部から来た別の男性がCEOを務めているそうだ。辞任した今も、モリヤはその新興宗教の資金源であり、一連の殺人に深く関与していたという疑惑は払拭できていない。
しかし、守屋秀光は本当に無関係だ。無関係というより、何も知らなかった。
その新興宗教の名前は「八角教」といって、キリスト教系のカルト教団だ。元はせいぜい十世帯程度が集まってできた教団だったが、教祖が柏木春樹という十九歳の青年に代替わりしてから急速に大きくなった。それも、殆ど誰にも気付かれずに。理由としては、柏木春樹が、私と同じような特殊能力を持っていたからだ。
大学の同級生から、「妹が八角教に嵌っている」と相談を受けた。それで私と青山君は直接的に柏木春樹と対面することになったのだ。
柏木春樹の力は私よりずっと強かった。守屋秀光もその力ですっかり洗脳されていた。建物を一棟、広大な敷地ごと貸し与えるくらいには。
教団の常軌を逸した『奇跡』を、その力で現実のものにできてしまっていた。だから、彼自身は最後まで、奇跡の実現が自分の力によるものだと気付いていなかった。全て、祈りが神に届いたのだ、と言っていた。
起こったことを自分の能力によるものだとも気が付かず、その結果ますます信仰心を強め、人が傷付いたり死んだりすることにも全く疑問を持たなくなっていた。柏木春樹は悪人ではなかった。ただ、幼稚な人間だった。
私は、青山君と物部の力を借りてなんとか決着をつけたが、彼を未だに可哀想な子供だと思っている。私と同じ、きちんとした育ち方ができなかったのだ。
「るみ先輩、行っちゃいますよ」
青山君が私の手を引いた。私はすみません、と謝ってから、感触が違うことに気付く。よく見ると青山君は光沢のある素材でできた手袋を嵌めていた。
「ああこれ。誕生日に貰ったんです」
「誰から?」
「物部さん」
「あの人、誕生日に贈り物をするという常識があるんですね」
私がそう言うと、青山君は失礼ですよ、と苦笑した。
「ちょっと、ちゃんと付いてきてくれよな」
〈アントルメ世田谷〉の赤い看板の前で手を振る泉さんに、今度は二人揃ってすみません、と謝った。
桃子は定休日の〈アントルメ世田谷〉を開けて、私と青山君、それと泉さんを招き入れてくれたのだが、歩き方がふらふらしていて、椅子を引く動作すらも覚束ない。こんな様子でケーキを焼いたりしているというのが不思議だった。
「どうぞ。ありあわせで悪いけど」
そう言って彼女は白鳥型の器に入ったプリンを三つ、テーブルの上に載せた。
「ありがとうございます」
青山君はわざとらしいほど明るい声色でそう言う。
「うわあ、美味しい。すごく美味しい。この間渋谷にあるホテルでプリンを買ったんですが、ひとつ700円もしました。でも、それよりずっと美味しいです。すごいなあ」
私もスプーンで一口掬って食べた。そこまで絶賛するほどではないが、美味しい。卵の味が濃く、それでいて甘さはしつこくない。キャラメルの苦みも抑えられているから、万人に愛される味だろう。確かに、この味で、この可愛らしい器も付いて350円は、すごいことだ。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃないですよ。素人がこんなことを言ったら失礼かもしれませんが、僕は教会で働いていまして、信者さんたちのために軽食、お菓子なんかを作ることがあります。だから、このクオリティのものがこのコストで食べられるというのは、並大抵のことではないと思います」
青山君がまっすぐに桃子の顔を見て言うと、青白い頰にほんの少し赤みがさした。青山君の言葉には噓がない。それをはっきりと、かと言って失礼のないように伝える能力もある。彼はどこへ行っても人に愛されるだろう。
ううん、と泉さんが咳払いをした。
「それで、唯香ちゃんのことを」
唯香、という言葉が出た途端、桃子の顔が再び曇ってしまう。私は俯く桃子をじっと見つめた。
なるほど、美人だ。普通の女性だったらするのをためらう程短い髪型もよく似合っている。泉さんの言っていた「クラスのマドンナ」という言葉から連想する妖艶さなどはなかったが、保険会社のCMに出ている清潔感のある女優のようだ。しかし、整った顔立ちより印象的なのはその手だった。爪はかなり短く切りそろえられている。繊細な印象の顔立ちに比して、節くれだっていて、指先が広がっている。それに、細かいシミがいくつもあった。恐らく、ずっと前に負ったであろう火傷や切り傷の跡だ。
仕事に対して、きちんと向き合ってきた人なのだろう。お店屋さんごっこ感覚で開業したような人たちとは違う。精神的に追い込まれていても、仕事で手抜きをするような人ではなさそうだ。
「もしかして、何か、見えるんですか」
桃子がきょろきょろと視線を動かして言う。私がじっと見ていたからだろう。
「いいえ、今のところは何も」
「そうですか……あの」
桃子は一旦言葉を切ってから、
「どこから、話したらいいか……」
「そうですね、泉さんから聞いたのは、バイクとの接触事故──未遂、の話です。夜中自転車に乗って外に行ってしまった唯香さんを追いかけてみると、唯香さんは目の前でバイクとぶつかってしまった。しかし、唯香さんは無傷。バイクの運転手は唯香さんを撥ねないようにした結果転倒した。挙句文句を言おうとした彼は見えない力によって吊るされた。どうもそれは唯香さんの仕業のようで、唯香さんはずっとその調子だ、と、要約が下手で申し訳ありませんがこんなことを。それと、唯香さんが」
「学校で」と口に出す前に青山君が私の話を遮った。
「『邪魔をするな』と繰り返すことですよね。そして、何かに手を合わせていること」
助かった。私は危うく、学校で周囲の子供たちに危害を加えたことを話しそうになっていた。しかし、それは泉さんが必死に、桃子に伝えないようにしていたことではないか。
「はい……」
桃子はしばらく沈黙してから、蚊の鳴くような声で言った。
そしてまた黙ってしまうので、
「私がお伺いしたいのは、きっかけです」
「きっかけ……」
「はい。きっと、唯香ちゃんは突然こうなったんですよね。体が丈夫になったと思ったら、ふらふらと夜出かけていく。その境目というか……例えば、そうなった日の朝スーパーに寄って、誰かから話しかけられたとか、そういった些細なことでも構わないのです。イレギュラーな出来事に心当たりがあったら、お聞かせ願えないかな、と」
イレギュラー、と口に出したあたりで、桃子は「あっ」と声を上げた。
「何かありましたか」
「はいっ」
桃子は急に早口になった。
「その日、ちょうど通院だったんです。唯香の。それで、看護師さんに、病院でやってる、子供向けのイベント?に参加したらどうかって誘われて。病院には、唯香の入院仲間っていうか、そういうお友達が沢山いるから。イベントは、絵本の朗読だったり、手品だったり、色々なんですけど、そのときは心理カウンセラーの人のお話会。入院してる子向けのものだから、基本的に親は一緒に参加しないものだし、私は会計士さんとのお話があったので、終わった頃に迎えに来てもいいですかって言って──それで、迎えに行ったんです。そのときは普通でした。ママ、って普通に、呼んでくれました。でも、その日の夜、いなくなって……それからです。どうして思い出さなかったんだろう。ごめんなさい、多分それです」
「いえいえ、謝る必要なんて。だって、普通の、病院が主催していたイベントなんですよね。むしろ、よく気が付いてくれましたというか。そのイベントに問題があったかどうかは分かりませんが、調べた方がよさそうですね」
「はい、ありがとうございますっ」
まだ何もしていないのに、桃子は頭を下げた。
彼女は自分のことを最低の母親だと言ったらしいが、そんなわけはない。もしわが子のことを本気で嫌になってしまったのなら、こんなインチキ臭い商売をしている者にわざわざ会ったりしないだろうし、何よりこんな表情をするわけがない。
「あっあの」
桃子はおずおずと、スマートフォンを差し出してくる。画面には、『ゆうくんママ』と表示された、誰かの連絡先があった。
「これ、私のママ友の──唯香が、三歳くらいのときからの付き合いの、男の子のお母さんの連絡先です。最近、唯香が通院する必要がなくなってしまったから、会ってないんですけど。すごく優しい人だから、きっと、色々話してくれるかなって。ゆうくんも、あのとき、いたので。もし、よかったら、私から連絡入れてもいいですか?」
私はぜひ、と答えてから、残りのプリンを一口で平らげた。桃子がほんの少し笑って、あと二つありますけど、と言った。
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