3
「どうして助けてくれなかったの」
少女はそう言う。
「分からない」
そう答える。
「どうして私は死んでしまったの」
本当は分かっている。それでも、
「分からない」
そう答える。
少女は生きていた頃と同じ、屈託のない笑みのまま、
「私、あなたのことが好きだった」
そう言って、指を髪に這わせる。
「あなたの髪の毛って本当にきれい。さらさらしてて、光に当たると、きらきらしてて。太陽みたいだったよ。あなたが、私の神様だったんだよ」
「違う」
違う。違う。違う。そんなふうに思われるような人間ではない。
何もできなかった。何も気付けなかった。何も見えなかった。
「うん、違うね。あなたは、何もしてくれなかったね」
少女の顔がどろりと闇に溶ける。ふっくらとした頰が、丸い瞳が、一度も染めたことがないだろうまっすぐな髪が、歪んで、こちらを睨みつける。
「ここがどこだか分かる?」
彼女は問いかける。
「天国だと思う?」
「分からない」
同じ言葉が口から出てくる。
「あなたが何度も何度も何度も繰り返した、善い人は行けるって言ってた、天の国だと思う?」
「分からない」
何も分からない。
「違うよ。そんなわけないよ」
洞穴のように空いた眼窩に吸い込まれそうになる。彼女は笑う。嘲笑う。
「ここは真っ暗だよ。虫に食われて、何も見えないよ。あなたと同じだね」
「分からない」
「分かるはずだよ」
その通りだ。分かっている。どうかその先は言わないでくれ。そんなことを言うことは許されない。
「あなたのせいだよ。あなたが見えなかったから、地獄に行ったよ」
謝る資格さえない。このような醜い姿にしたのは、自分だからだ。屈託なく笑う、純真で、ただ信じてくれていたこの少女を、こうしたのは自分だからだ。
「私は何も悪いことしてないよ。地獄に行きたくなかったよ。あなたのせいだよ」
彼女は口をぽっかりと開けて迫ってくる。そこで目が覚める。
起きるといつも、目覚めなければよかったと思う。
あのまま彼女の口腔に吸い込まれて、消えられれば、それでよかったのだ。
しかし彼女は死んだ。死んだ人間は何もできない。もう帰って来ない。
全ては無意味だった。祈りとか、そういうものは全て無駄だった。
尿意を感じてトイレに入る。便座を上げると、磔刑にされたキリストが見えた。
十字架が尿に塗れる。それを見て、矮小な満足感が心に押し寄せ、すぐに引いていく。
これを冒瀆的だと感じ、そして冒瀆的なことをしてやったと、復讐をしているのだと、思ってしまうことこそが、自分が未だ信仰心に縛られていることの証明だ。
「難しいよ」
そう呟いてみる。
思えば、生まれた時からキリスト教徒だった。父も、祖父も、曾祖父も、その上も、脈々と、血に流れているといってもいいだろう。
難しい。どうしても、神を捨て去るのは。
「あなたは見ているだけだ」
便器の中で湿っているキリスト像にそう言う。
「父よ、父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」
キリストが磔刑にされ、今まさに死にゆくときに言ったとされる言葉だ。そうだ。彼もまた、神に見捨てられたのだ。
「あなたは見ているだけだ」
もう一度言う。神は見ているだけだ。何も助けてはくれない。全ては無意味だった。彼女は暗い所へ行った。
「今度は間違えない」
今度、という言葉が自分に許されるとも思えない。彼女の代わりに自分が死ねばよかったのだ。何も見えない、分からない、自分こそが死ぬべきだった。それでも、今度がある。自分には今度が。
手の穴を通して見ると、壁の隙間から美しい顔がぬるりと這い出して来るのが見える。
それはいつも慈愛に満ちた顔でこちらを見ている。
これは救うものだ。神かもしれない。
これは、自分も、その他も救うものだ。
「分かっています」
そう言うと、それらは均等に並んだ歯を見せて笑った。
いくつもいくつも這い出してきて、美しい音楽が鼓膜を揺さぶる。
分かっている。
出かけるために手袋をする。すると、跡形もなく何も見えない。壁の隙間にはただ暗闇が広がっている。この穴を通してしかそれらは見えない。
救いが必要な人間は数多いる。しかしまず、子供からだ。
彼女も子供だったから。
黒いガウンに袖を通すと、まるで自分が未だに聖職者であるかのような気分になり、思わず笑ってしまう。何も意味がない。しかし、この姿でいれば、人は警戒心を解く。そうすれば、救うことができる。
「愛しいすべての命のために、吾身御身に捧げます」
穴の向こうのそれに祈り続ける。そうすれば間違いはない。
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