第1話 ナチュラルボーンな彼女

「ぅん……」


 寝言とは言えない半ば寝息のような音が、愛しいルーナリアの口から洩れ耳を打った。

 微かに痺れる右腕に幸せの重みを感じる。


 恒例となった朝の現象だが、今日も彼女を抱き締めたまま朝を迎えられたようだ。

 足には彼女のすべすべとした足が絡み、左手は抱き寄せた彼女のぬくもりを感じる。


「ん……」


 いつもの朝だ、これ自体には問題ない。

 だが、この左手に握りしめているこれは……なんだ……。


 質感はシルクのように滑らかだがシーツではない。

 手に収まる小ささだ。


 指先から伝わる心地よい触り心地に、俺はふたたび夢の世界に誘われそうになった。

 だが、その時、ルーナリアの長い睫毛がピクリとふるえ、半分開いた彼女の目が俺の瞳を捉える。


「……おはよう、ルル」

「おはよぅございます、ハルさま。ん……」


 彼女は朝が弱い。

 だから、俺は挨拶をしつつも彼女がもう一度眠りに落ちてもいいように動かないのだが、彼女は俺に挨拶を返すと必ず口づけをしてくれた。


 ベッドの中、抱き合ったところから背伸びするように彼女は口づけする。

 いつものように俺の胸板に当たっていた柔らかな感触が動く、それが何かはもちろん分かっている。


 問題はその感触というか肌触りというか、とにかくいつもと違うことだ。

 ルーナリアもそれに気がついたようで、口づけを終えると頬を染めて上目遣いで呟く。


「すみません、ハルさま。寝ている間に下着を脱いでしまったみたいです」

「そ、そうみたいだな……」


 彼女の言葉に俺は慌てて手に握っていたものを放したが、俺の手中にあったのは明らかにブラではない。

 もちろん、確実とは言えないが、つい、握っていたものを連想してしまい、さらに足に絡む彼女の下半身を想像してしまった。


 3.14159265358979323846264338……43384338……。

 くそっ、続きが思い出せない……が、なんとか耐えきったな。


「ハルさま、遠くを見つめてどうされたのですか?」

「……なんでもない。そろそろ起きようか」

「ふぁ……そうですね」


 彼女はあくび混じりにブランケットを捲ろうとするが、俺は素早く背を向けて転がりベッドから抜け出した。

 途端に、背後で不満そうな声が上がる。


「もうっ、ハルさまったら、そんなに頑なにされることは無いと思います」

「すまない……つい……」


「謝るおつもりがあるのなら私の目を見て謝ってくださりませんか?」

「……もう何か身に着けたか?」


 確かに俺としても反省する部分があると、俺自身そう思いはした。

 それでもせせこましく尋ねてしまう俺に、彼女は自信満々に即答する。


「もちろんです」

「失礼ながら皇帝陛下、皇后陛下はまだ何も身に纏っておられません」


「……ありがとう、エリーシュ」

「エリー、あなた一体どちらの味方なの?」


 着がえを止めて振り向きかけた俺は、エリーシュに礼を言って着がえを続けた。

 幸いと言うべきか矛先が向けられたエリーシュが弁明する。


「どちらの、と言われましても困ります。ですが、陛下の時代に沿った御考えにも一理ございますので。それに、嘘はいけません」

「これは善い嘘だからいいの」


「……ですが、まるで娼婦の方のような振る舞いですよ?」

「あら、そのような言い方は感心しないわね。彼女たちだって立派に働いているし習うことは沢山あるわ」


「それは……確かにお言葉の通りですが……」

「それに、母上が嫁ぐ夜に助言してくださったのよ。昼は淑女でも夜は娼婦のように、って」

「なるほど」


 馬車ではセックスなんて出来ない、そう考えるほどに純真な彼女がなぜ急に積極的になったのかと思いきや、王国のお母さんの助言だったのか。

 納得がいった俺は思わず声に出してしまったが、思わぬことにルーナリアがその一言を拾ってしまう。


「ハルさま。少し気になったのですが、私の言葉のどこに納得されたのですか?」

「え……いや、どこって……え?」


「まさかとは思いますが、どなたか素敵な女性のことを思い浮かべておいでではありませんよね?」

「そっ、そんなわけないだろ……」


 俺はもちろんのこと、恐らくは皇帝にもそういう相手は居なかっただろうから、全くの事実無根と言っていいだろう。

 しかし、妙な勘ぐりをする彼女の放つ圧に押され、つい口から出た言葉に動揺が乗ってしまった。


 彼女はますます疑念を深めるように、固まった笑顔を張り付けたまま視線を凍らせる。

 これはマズい……なんとかしないといけない……。


「それで、どのような方だったのですか?」

「いやっ、だから、そんな相手が居る訳がないだろう。俺は、ルルと結婚するまで貞節を守っていたんだし」


「別に身体を重ねられたとは思っておりません。ですが、心はどうでしょう。男性の御心に寄りそうのが上手なひとも居ますから」

「……俺にはそういう人も居なかったよ」


 ルーナリアの瞳の奥に燃えるものが見えた気がする。

 勝手な推測だが、ジルベルト君を篭絡したレイカの顔が彼女の頭に浮かんでいるのではなかろうか。


 ルーナリアは帝国のため、また将来皇帝となるジルベルト君のためにと、彼に数々の助言や忠告を与えた。

 しかし、いくら良薬でもジルベルト君には苦すぎたのか、彼はレイカという少女に靡き、行き着いた果てが例の婚約破棄だ。


「だといいのですが。私はまだまだ未熟ですので、もし女として格上の方に勝たねばならぬのでしたら、そういう方々に指南を仰ぎに行かねばなりませんから」

「いやいやっ、本当だって。俺の心に寄り添ってくれるのは君だけだよ」


「もぅ、ハルさまったら……優しく抱きしめてくださいます?」

「……あぁ、もちろんだ」


 俺の言葉に態度を一変させた彼女は、赤にしては落ち着いて見える暗めの色合いの下着をつけただけの身体を晒し、軽く手を広げて俺を呼ぶ。

 朝の陽ざしに包まれキラキラと輝く彼女に、俺は視界の端でしか見れないまま近づくと、そっと抱き締めた。


「愛しています、ハルさま」

「俺もだ、ルル」


 ちょっとした揉め事があったけど、こうして彼女のぬくもりを感じていると安心する。

 そうして、しばらく抱き合っているとエリーシュの咳払いが耳に届いた。


「エリーったら、今いいところなのよ?」

「しかし、このままでは朝食のお時間が短くなってしまいます」


「確かに身体にも栄養は必要だけど、これは心の栄養なの。いいですよね、ハルさま?」

「そう、だな、もう少しくらいなら」


「ねっ、だからエリー、あとちょっとだけそっとしておいて」

「陛下がそう仰るのでしたら……」


 しぶしぶ引き下がったエリーシュからルーナリアは視線を着ると、彼女は俺のシャツに顔を埋め直した。

 ただ、時間が押していることは彼女も分かっていたようで、俺が彼女の頭の重みに意識を奪われかけたタイミングで、彼女はすっぱりと身体を離した。


「ありがとうございました、ハルさま。手早く身支度してしまいますね」

「……あぁ」


 少し名残惜しさを感じた俺の目が、離れて行く彼女を追ってしまう。

 すると、申し訳なさそうに俺を見るエリーシュと目が合った。


 彼女の謝るような視線からしても、きっとルーナリアは意図してやってはいない、はずだ。

 だが、俺の心は面白いように彼女に手玉に取られている。


 俺はその事実がどこか恐ろしかった。

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