第52話 傷ついた心が欲したもの

「殿下、十歩お進み下さい」

「陛下と呼びなさい。私は王女ではなく皇后です」


 ジャックに促されたルーナリアは毅然とした態度で訂正してこちらに歩きだした。

 そんな彼女に奴は呆れたように頭を振りため息をつく。


 聞き分けの悪い少女にお手上げといった具合のその姿には、俺を殺す未来を描けているのか、再び余裕が舞い戻って見える。

 だが、それ以上奴のことを気に掛けてはいられなかった。


 一歩、また一歩と歩を進める毎に大きくなる彼女の姿に、俺の胸は高鳴り、駆け出したくなる衝動を抑えなければならなかったからだ。


「十歩だぞ。次は剣を捨てるはずだ」

「あぁ、分かっている」


 一歩も譲る気はないと告げる奴に応じ、俺はルーナリアと共に足を止め剣を腰から外し地面に置く。

 その間、彼女は心配そうに俺を見ていたが、俺が剣から手を離し身体を起こすや否や、今度は彼女の方から一歩を踏み出した。


 なんだか俺はそれがとてつもなく嬉しかった。

 もしかしたら本当に俺は何か誤解していたのかもしれない、とカサンドラに伝えられたルーナリアの想いをそこに見いだせた気がしたからだ。


「馬を放し十歩進んで止まれ。殿下は馬までお進みになって下さい」

「おい、彼女に一人で馬に乗せるつもりか?」


「はっ、殿下のことを何も知らんのだな。殿下は乗馬に長けておられる。それとも、卑怯にも手伝うフリをして一緒に乗って逃げるつもりか?」

「違う。誰か手伝いにやるべきだと言っているんだ」


 今さら貶されようが疑われようが気にはしないが、ルーナリアが落馬したらと思うと黙ってはいられなかった。

 しかし、当の彼女が宥めるように微笑みかけ俺に言う。


「大丈夫ですよ、陛下。一人で乗ってみせますから」

「……分かった。信じよう」


「ほら、さっさと馬から手を離せ。残り短い生にみっともなくしがみつくな」

「敵とはいえ位が上の者に敬意を払わんとは高が知れるな」


 俺の言葉に奴はムッとしつつも、どこか思う節があったのか反論はしなかった。

 俺は軽く愛馬を撫で、ルーナリアを頼むと念じた。


 離れていく俺の後ろから勇ましく鼻を鳴らす音が聞こえる。

 その声に勇気づけられながら、俺はルーナリアより先に足を止めた。


 彼女は馬に乗るべく十歩を過ぎて歩き続ける。

 だが、近づく彼女は一向に俺の正面から脇に逸れない。


 何か少しだけ話せるだろうか。

 そう思って待っていると、彼女は一気に駆け寄り俺に抱きついた。


「陛下っ……!」

「ルーナリア、驚いたな……」


 到底歓声とは言えない悲鳴混じりの怒声が上がる。

 それでも、彼女は気にせず鎧の上から抱きついたまま俺に語りかけた。


「陛下、どうしてこのようなことを……。今からでも遅くはありません、一緒に逃げましょう」

「それは出来ない。君を危険に晒したくないんだ」


「ですがっ、このままでは陛下が……!」

「俺なら大丈夫だ。君を残しては……死ぬことになるかもしれないけど今日じゃないから、絶対に」


 泣きそうな彼女の額にこつんと俺の額を当てて誓う。

 すると、彼女は俺の頭を抱えて背伸びし口づけした。


 鎧の上からでは分からなかった彼女のぬくもりが、触れあった唇から伝わり心に沁みた。

 熱く込み上げてくるものを堪える俺に、僅かに唇を離した彼女が言う。


「約束ですから。破ったら許しませんからね」

「あぁ、必ず守る」


 俺の返事にルーナリアは微笑んで目元を光らせた。

 けれど、すぐに表情を曇らせ一瞬の逡巡の後に口を開く。


「陛下、無理なお願いだとは思いますが、どうか学院の生徒の命だけは……。彼らはあの者に煽られ唆されただけなのです」

「分かった。子どもだからとジルベルトも許したからな、彼らも同じだ」


「陛下ったら……ありがとうございます」

「あぁ」


 どんなことを言われるのかと思いきや、元王女としての可愛いお願いだった。

 俺としても子どもを殺すのは少しどころじゃない抵抗があったしな。


 それに、愛する妻に頼まれては、これくらいのことは叶えてやるしかあるまい。

 笑顔が戻った彼女との一時は、業を煮やしたジャックの怒鳴り声で終わりを告げる。


「殿下っ、偽りの夫との別れと言えど、お戯れが過ぎますぞ! 早く馬に乗り我らの元にお戻り下さい!」

「……では陛下、ご武運を」


「ありがとう。また後でな」

「はいっ、また後で!」


 ルーナリアは俺の愛馬に駆け寄り、優しく手で撫でると慣れた動きで馬に跨った。

 通り過ぎる際にも俺と会釈を交わした彼女は、緩やかに丘を登り駆けていく。


 こんな状況下でのあんな短い触れ合いだったのに、心がとても満たされているのに俺は気付いた。

 別にキスしたからって訳じゃない。


 彼女が攫われ失いかけて、ようやく気づいたんだ。

 心から彼女を求めていたんだって。


 想えば、彼女と出会う前の俺は皇帝として振舞う必然というか必要というか、そうする以外に他に道が無くて。

 必死に皇帝を演じるしかなかったのに、その皇帝は元の自分とあまりに違い過ぎて、皇帝と自己との乖離でおかしくなりかけていた。


 無理もなかったと思う。

 演じるのは全くの別人で、そこに社会構造も違えば文化も常識も違う。


 それどころか、身に覚えのない動きで人も簡単に殺せてしまうし、それで救われた民から称賛すらも浴びた。

 皇帝の身体は丈夫で全く動じなくても、俺の弱い心は常に揺れ続けていた。


 しばらくして慣れたとは言っても、それはギリギリで壊れかけたまま形を保っただけで、そんな歪な自分から目を背けることで日々を送っていた。

 でもあの日、彼女と出会い恋することで俺は自分を取り戻せたんだ。


 彼女なしで生きることは、もう出来ない。

 だから、俺は今日、初めて自分のために戦う。


 彼女との明日を手にするために。

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