第29話 帝国の狐

「では、私はこれで失礼します」

「……あぁ」


 リオットは俺の居所ではなく、手前にある執務室が見えた時点で暇を告げた。

 話すことがもう無いと言えばそれまでだが、どうも引っかかる。


 しかし、俺が引き留める適当な理由を考える間もなく、彼は背を向け廊下を歩いていってしまう。

 どうにもしっくり来ないまま俺はなんとなく執務室の扉を開けた。


「おぉっ、陛下っ、お久しぶりですな!」

「……ジルファノか。久しぶりだな……」


 俺の顔を見て嬉しそうに挨拶するのは右目に片眼鏡をかけた白髪の男。

 リオットが俺を待ち受けこの部屋を避けた理由は、この女ったらしの元帥がここに居たからだったのだ。


 まぁ、モテる理由は分かる。

 まず男前だし、いつもにこやかで人当りがいい。


 また、前を開けたままのジャケットの下はシャツの上からでも、年齢を感じさせない細身の引き締まった身体が伺える。

 それになにより、マルケウスに負けず劣らず口が上手い……。


「いやぁ、儂が怪我をしたばかりに陛下にはとんだ御手間をおかけして誠に申し訳ない」

「気にするな、そういうこともある。具合はもういいのか?」


「おかげさまで、もうずいぶんよくなりました。いやぁ、なかなか張りの強い良い弓でして、つい頑張り過ぎてしまいましてな」

「そうか。まぁほどほどにな」


 弓なんて引いていたはずもないが、まさか相手の女性を弓に例えたのだろうか。

 こいつはどこまで本当でどこから嘘なのか、よく分からない話し方をするからな。


「ところで、陛下もついに再婚なされるとか。誠におめでとうございます」

「あぁ、ありがとう。俺もと言うが元帥も再婚していたのか?」


「いやぁ、儂はもう何時お迎えが来てもおかしくありませんのでな。今さら妻を貰って稚児ややこが出来ても、土地のことで子や孫を困らせてしまいますからな」


 これはどっちだ……自分のこととして言ってはいるが、俺に牽制しているのだろうか。

 皇帝として乗るべきか躱すべきか……厄介な爺さんだ。


 逃げたリオットを恨めしく思いながら、俺は様子見のために彼に尋ねる。


「そうか……元帥の過去の働きを考えれば土地を少々融通してやることは出来るが?」

「はははは、陛下、お気遣い痛み入ります。ですが、儂はもう後腐れない一夜の恋を楽しむ方が性にあっておるのですよ」


 ジルファノは俺の申し出を軽く流し、世に流れる浮名を堂々と語った。

 それだけで彼は一言も先日の不倫を語っていない。


 しかし、俺は彼が不倫したことをリオットに聞いて知っている。

 恐らくはジルファノもそれを分かっているはずだ。


 分かっているからこそ、と切り出したのだ。

 その時点で、俺と彼の念頭には共通の認識として、彼が腰を痛めた不倫事件が浮かんでしまった。


 不倫とは罪である。

 一夜の不倫に特別の罰則がある訳ではないが、子が出来たら継承権問題に波及するし、今回のように皇帝の手を煩わせたのもある意味問題ではある。


 彼ははっきりとは口にしないながらも俺に意識させることで、正式に皇帝の赦しを得ようとしているのである。

 だが、それが分かっていても、俺はあくまでも一般論として苦言を呈するしかない。


「……火遊びはほどほどにな。まぁ、心得のある元帥に俺が言うことではないだろうが」

「いやいや、何を仰います。貞節を守られてきた陛下からすれば儂の行いは淫魔の所業のようでしょう。陛下の忠告、ここにしかと納めますぞ」


 ジルファノはそう言って胸に手を当てて軽く頭を下げた。

 女性関係だし触れない方がいいか、と腰ではなく背中を気遣ったらこんなことになるとは……。


 受け取り方次第だが、気づけば俺は彼の罪に赦しを与えてしまっていた。

 恐ろしい男である。


 とはいえ、この部屋には使用人が一人と外に衛兵が二人居るだけで、強い証人が居る訳でも証書を出した訳でもないのだ。

 ジルファノもはっきりと言質を取った訳でもないし、取ろうという気もないだろう。


 きっとこれは彼にしたら遊びの一つ。

 そういう人物だからリオットは彼を避けるのだ。


「儂の話はさておき、ご婚姻の件、本当におめでとうございます。心からのお祝いを申し上げますぞ」

「あぁ……ありがとう。国王の返答次第だがな」


「成ったも同然です。王国は承諾するしかないでしょう」

「そうだな。ジルベルトのしたことを考えると申し訳ないが」


「まぁ若気の至りでしょうな。殿下は賢いですし、何度も同じ間違いを繰り返しはされんでしょう。気にされることはないですぞ」

「あぁ……そうだといいが」


 打って変わって俺を気遣うジルファノに薄ら寒いものを感じそうになるが、彼もリオット同様にジルベルト君を幼い頃から見守ってきた人物だ。

 リオットもジルファノに二心は無いと言っていたし本心だろう。


 だが、気を抜くと何時また懐から食い破られるか分かったものじゃない。

 現に、警戒する俺に彼が牙を剥く。


「しかし、よく陛下が殿下の代りになることを思いつかれましたな」

「とっさに浮かんだのだ。が、悪くない策だと思わないか?」

「ええ、誠に……」


 ジルファノは何を見ようというのか、俺の目を真っすぐに見据える。

 俺は心の内を見透かされぬよう堂々と彼の目を見返していると、やがて彼は優雅に一礼して言う。


「陛下とのお話は大変楽しく心苦しいですが、まだが癒えきっておりませぬ故これにて失礼つかまつります」

「……あぁ」


 まったく、とんだ化け狐だな……。

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