テヘペテロ 後編

 こうしてお祭りの御馳走が終わった後、偉い人と十一人の弟子はオリーブ山の油絞りの園に行きました。もうとっくに日は暮れて辺りは真っ暗になっています。


「あなたたちはそこで目を覚ましたまま待っていなさい」


 偉い人はそう言い残すと弟子たちから離れて一人で祈り始めました。みんなはしばらくその様子を見守っていました。が、御馳走で満腹になっていたので眠ってしまいました。


 そこへ戻って来た偉い人は寂しそうな声で、

「あなたたちは私が祈る間でさえ起きていることはできないのか」

 と言いました。


 これを聞いたペテロは、

「主よ、お赦しください。今度はちゃんと起きています、テヘ!」

 と言ったので偉い人はまた祈りだしました。


 それはとても苦しい祈りでした。何かに怯え、何かに恐れ、何かと戦っているような祈りです。ペテロも最初はその様子をじっと見守っていましたが、やがて眠気に負けてまたも眠ってしまいました。


「ペテロよ、目を覚ませ」


 偉い人に揺り動かされてペテロは目を覚ましました。


「はっ、私はいつの間に……テヘ、テヘ!」


 ペテロは恥ずかしくてなりませんでした。再び同じ過ちを繰り返してしまったからです。あんまり恥ずかしいので連続して二度も「テヘ」を言ってしまいました。偉い人は大きくため息をつかれました。


「もうよい、あなたたちは眠るがよい。その時が来たのだから」


 見ると、知らぬ間に周囲は松明や剣や棒を持った人たちに囲まれています。その中から居なくなっていた弟子の一人が偉い人に近付き、その頬に口づけをしました。その途端、周りの人が偉い人を捕らえようと動き始めました。


「何をする!」


 ペテロは剣を抜き、捕らえようとした一人に切りつけました。その人の片耳が落ちたのを見て偉い人が大声で言われました。


「ペテロよ、剣を鞘に納めよ。剣を取るものは剣で滅びる。私に与えられた杯を飲み干す邪魔をしてはいけない」

「わかりました。主よ、お赦しください。テヘ……」


 叱られて意気消沈しているペテロを優しく見守りながら、偉い人は大勢の人たちに引き連れられていきました。その間に弟子たちは散り散りになって逃げ去ってしまいました。


 それでもペテロは心配でこっそり後を付いて行きました。偉い人が連れられていった屋敷の中庭では火を焚いて数人が暖を取っています。ペテロもその中に加わり、周囲に気付かれないように屋敷の中を伺っていました。


 すると突然ペテロの隣にいた女中が、

「この人はあの人の弟子です」

 と言いました。


 驚いたペテロは、

「お間違いですご婦人。私は弟子ではありません。勘違いなさっているのでしょう、テヘ!」

 と弁解をしました。

「テヘ」と言われた女中は、そこまで言うのなら違うのだろうと赦してしまいました。


 しばらくして、火に当たっていた他の人が、

「あなたも彼らの一人だろう」

 と言いました。


 ペテロは慌てて、

「違います。まるで関係ありません。思い違いでしょう、テヘ!」

 と言いました。

「テヘ」と言われたその人はなんとなく了解し赦してしまいました。


 それからまたしばらくすると別の人が、

「確かにこの人はあの人と一緒にあそこにいた。間違いない」

 と主張しました。


 ペテロは色を失って、

「いいえ、いいえ、違います。私にはあなたが何を言っているのかさっぱりわかりません。テヘ!」

 とあくまでシラを切りました。

「テヘ」と言われた人は、そうだったろうかと思案して、それ以上追及することなく赦してしまいました。ペテロはほっと胸を撫で下ろしました。


 その時です、遠くで時を告げる雄鶏の鳴き声がしたのは。ペテロは我に返りました。偉い人の言葉が一語一語鮮明に、自分の耳に聞こえてきました。


「雄鶏が時を告げるまでに、あなたは三度『テヘ』と言って私を否むだろう」


 ペテロの体は震えました。大きな後悔と悲しみがペテロを襲いました。流れ出した涙を拭いもせず、ペテロは中庭を走り抜け、屋敷の外へと逃げ出しました。そこで大声で泣きました。


「主よ、私は、私は、またしてもあなたを……テヘ……」


 それはペテロにとってこれまでで一番辛い「テヘ」でした。この言葉を聞いて自分を赦してくれる人はもういないのです。優しい笑顔を見せてくれる人はもういないのです。誰にも聞いてもらえない「テヘ」の言葉は今のペテロの心と同じくカラッポでした。

 ペテロの信仰は完全に砕かれていました。自分の言葉さえ裏切る、自分さえ信じられぬ人間にどうして信仰が保てようか、「テヘ」と言える資格があるだろうか、ペテロはそう思いながらただ涙を流すことしかできませんでした。


 やがて偉い人が処刑される日がやってきました。十字架にはりつけにされるのです。処刑場の丘まで自分が打ち付けられる十字架を背負っていかなくてはなりません。道端にはその道行きを見物するためにたくさんの群集がいます。ペテロもその中に混じっていました。


 しばらくして偉い人の姿が見えてきました。疲れ切った顔、血が滲んだボロボロの衣服、傷だらけの腕と足。背中には大きな十字架を背負わされ、倒れそうな足取りで一歩一歩進んでいかれます。ペテロは心の中で叫びました。


『主よ、なぜです。なぜ山頂でのあの神々しいお姿を皆の前でお見せにならないのです。あの姿をお見せになれば誰もがあなたを敬い、自分の過ちに気付くに違いありません。どうしてこのような苦行をその身に引き受けられるのです』


 ペテロには理解できませんでした。こうなることは偉い人にはわかっていました。そしてそれを避ける手段もあったのです。なのに自分の未来を変えようとはなさらなかったのです。


 偉い人の本当の姿を知らずに罵倒し嘲笑する群衆にペテロは歯ぎしりしながら悔しさを噛みしめました。けれどもどうすることもできません。ペテロにできるのは処刑場の丘まで偉い人の後姿を目に刻みながら涙を流してひっそりと付いていくことだけでした。


 丘に着くと偉い人は十字架に掛けられました。ペテロは遠くからその姿を見守っていました。待っていたのです。もしかしたらあの栄光ある姿を現し、十字架の苦しみから逃れられるのではないか。再び威厳に満ちた姿を取り戻され、優しい声と笑顔で私を、全ての者を、お赦しになるのではないか、と。

 それはペテロの切なる希望でした。自分が主と慕い行動を共にしてきたあのお方がこんなに惨めな最期を遂げるはずがないとペテロは思っていたのです。

 けれども偉い人はただ力なく苦しみ悶えるだけでした。やがてそれも終わる時がきました。兵士のひとりが槍で脇腹を突き偉い人は息を引き取ったのです。


「主よ、遂に私は赦してはもらえなかったのですね……」


 ペテロは地に伏して泣きました。罪人はむしろ自分の方だと思いました。この罪を償いたい、赦してもらいたい、けれども償う相手も赦してくれる相手も、もういないのです。ペテロはこれからどうすればいいのかわからなくなってしまいました。


 そうして日が暮れて夜が来てもペテロは動けないままでした。と、不意にペテロの耳に聞き覚えのある声が聞こえてきました。


 ――顔を上げよ、ペテロよ。


 まさか、あのお方が……ペテロは言われた通りに顔を上げました。月に照らされた丘の十字架にはもう誰もいません。下ろされて墓に埋葬されたのです。空耳だったのだろうか。ペテロはぼんやりと十字架を眺めました。


 ――いつまでそこにいるのだ、ペテロよ。


 またです。今度は前よりもはっきりと聞こえました。ペテロは大声で問い返しました。


「主よ、どこにおられるのですか。私はあなたが戻ってくるまでここを離れません。


 ――ペテロよ、私はすでにここにいる。これからはずっとあなたと共にいる。あなたは赦されている。私を捕らえ、苦しめ、命を奪った者ですら私は赦したのだ。「テヘ」と言うあなたを赦さぬはずがない。


「赦されている、この私が……」


 その時、ペテロには全てがわかったのです。偉い人は知っていました。自分の命が奪われることも、ペテロが「テヘ」と言うことも。知っていてそれを認めそれを赦したのです。


「では、主は私が『テヘ』と言う前にすでに私を赦していたのですか」


 ――今のあなたは赦しに感謝することを知っている。一度砕かれたあなたの信仰は死に、今、生まれ変わった。もう私に「テヘ」を言う必要はない。さあ立ちなさい。あなたの務めを果たしなさい。


「主よ、私の務めとは何ですか」


 ――あなたの感じたことを、見たことを、聞いたことを伝えなさい。最初あなたの「テヘ」に赦しを与えるのは私だけだった。しかし私と共に歩むうちに、あなたの「テヘ」は家族に赦され、友に赦され、最後はあなたの敵にまで赦された。その「テヘ」と共に歩みなさい。私もまたあなたと共にいる。さあ、行きなさい。私もまた行くべきところへ行く。


「主よ、お待ちください。声だけでなくお顔もお姿もお見せください」


 ペテロは叫びました。けれどももう何の声も聞こえてきません。

 ペテロは立ち上がりました。不思議な力が湧き上がってきました。失くしてしまったと思っていた信仰が再び蘇ってくるのを感じていました。


「『テヘ』と共に、主と共に、いつまでも……」


 ペテロはこれまでの自分を振り返りました。揺るぎない信仰を持っていると自負していた自分。しかしそれは信仰などではなく単なる自分への信頼、自己愛に過ぎなかったのです。

 ペテロが信じていたのは偉い人ではなく、偉い人を愛している自分自身でした。だから偉い人を否んだ瞬間、信じる対象である自分自身を失い、信仰も砕け散ったのです。

 でも、今は違います。ペテロにははっきりとわかったのです。信仰は自分を信じるだけでは保てないのです。自分が主に信じられていると信じること、これだけでよかったのです。ペテロは天を仰ぎ見ると、力強く言いました。


「主よ、ようやく私にもわかりました。これからも共に歩みましょう。テヘ!」


 それからペテロがどうなったかはよくわかっていません。伝え聞くところによると、遠くにあるとても大きな国へ行って、多くの人々に自分の体験を語って聞かせたそうです。

 そこにはとても権力の強い皇帝がいました。ある日ペテロは初めてその皇帝の姿を遠くから見ることができました。その瞬間ペテロは友の言葉を思い出しました。その友はペテロと同じくらい偉い人に愛されていた弟子の一人でした、彼は以前ペテロにこう言っていたのです。


「ペテロ、君の『テヘ』は確かに天下一品だ。だが、それが通じるのは人だけだ。獣には通じない。この世には人の姿をした獣が住んでいる。獣の数字である六六六を持つ者には近づかぬがよい」


 ペテロはその皇帝に六六六を見いだしたのです。そこで捕らえられて命を奪われる前にその国から逃げ出そうとしました。

 国境へ向かう街道を歩いていると、向こうから一人の男が歩いてきました。ペテロは驚きました。姿形は違っていますがその人に宿る魂は間違いなくあの偉い人のものだったからです。ペテロは恐る恐る訊ねました。


「主よ、どこへ行かれるのですか」

「あなたが私の民に『テヘ』と言わせないのなら、私はもう一度十字架に掛かりに行く。私の民に『テヘ』と言わせるために」


 これを聞いてペテロは死を覚悟して元来た道を戻りました。

 予想通り皇帝はペテロを捕らえると逆さ十字の刑に処しました。鼻から血を流し息も絶え絶えになっているペテロに、皇帝は居丈高に言いました。


「異端者ペテロよ。死に際して何か言うことはないか」

「皇帝、『テヘ』と言えないあなたは貧しき人です。それでも今ここで『テヘ』を言えばあなたは救われるでしょう」

「ふっ、くだらぬ世迷言だ。この私が『テヘ』などという言葉を発するはずがなかろう。おい、やれ」


 皇帝の合図で二人の兵士は同時にペテロの脇腹を槍で刺しました。

 ペテロは目を閉じ自分の死を待ちました。

 不意に、目の前が明るくなりました。目を開くとそこには偉い人がいました。


「主よ。私の『テヘ』は無力でした。今回も主の御心に適えませんでした。思えば私は最初から失敗ばかりでした。挫折し、つまずき、何度も『テヘ』を言い、最後まで私は不出来な弟子でした。けれども主はそれをもご存じでしたのでしょう」


 ペテロの言葉に偉い人は優しく言いました。


「ペテロよ、『テヘ』の世はあなた一人では成し得ない。あなたは岩だ。あなたの意志を継いで『テヘ』を口にする多くの者が、あなたの成し得なかった『テヘ』の世をあなたの岩の上に作ろうとするだろう。互いに赦し合い、愛し合い、慈しみ合う。失敗も挫折もつまずきも恐れることのない『テヘ』の世を。あなたはその礎となったのだ」

「ああ、主よ、感謝します。こんな不肖の弟子を最後まで導いていただけたことに……テヘ!」


 いつの間にかペテロの体は十字架を離れていました。自由になった手で偉い人の手を取ると体が浮き、二人は空を目指して昇り始めました。辺りは神々しい讃美歌で満ちています。


 聖なるかな

 聖なるかな

 主の栄光は世の果てへ

 我らのゆくてへホザナ

 主の恩寵は地の果てへ

 我らのゆくてへホザナ


「さあ、行こう。あなたの神の国はすぐ近くにある。私と共に門をくぐり『テヘ』の世を見守ろう。我が最愛の弟子、テヘペテロよ!」



 

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テヘペテロ 沢田和早 @123456789

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