再生

小盛 ちさ

第1話


トンネルを抜けたら、左側の車窓から海が見えてきた。今日は梅雨の晴れ間だから、厳しい暑さになりそうだ。もうすぐ懐かしい人、懐かしい町に会えると思うと気分が高まってくる。望海がこの町に来たのは何年ぶりだろうか? ここは漁港の小さな町。父の産まれた町で、今も祖母がひとりで生活をしている。小さい時には長い休みのたびに父にこの町に連れてきてもらって、海に入ったり、カブトムシを探したり……外で遊んでばかりで真っ黒に日焼けした。海で溺れて男の子たちに助けてもらったこともある。夏祭りや花火大会、都会では知らない遊びをいっぱい教えてもらった町だ。海辺の小さな町は望海にとってのふるさとだった。この町の高校に通えるよう今日は編入試験を受けにきた。新幹線に乗り西へ西へと向かい途中で在来線に乗り換え、一時間ほどで左側に海が見えてきた。家を出てから四時間、遠い遠いと思っていた祖父母の町がこんなに近いことに驚きと共に後悔した。十五歳なのだからひとりで祖父母に会いに来ればよかったと。なぜそうしようと思わなかったのか……。母の束縛は、希海が自分の意思でどこかへ行ったりすることを考えさせないものだった。何をするにも母の許可を得ないといけない習慣がついて、一週間どころか年単位でやらないといけないことが決まってしまっていた。考えてみれば学校と塾の往復ぐらいで、希海は原宿や渋谷に行ったことはなかった。

編入試験は本来前の学校の制服で行くべきなのかも知れないが、退学した望海には着るものがなかった。退学の条件のひとつに制服の返却があったからだ。退学した翌日に学校の制服すべて、ブラウス・スカート・ブレザー・オーバーまですべてクリーニングに出して、学校に返却した。地味な紺色のワンピースを着た。このワンピースは中学受験の面接に着たもので、あまり成長していないのか十五歳になったのにすんなり着ることができた。長袖だから少し暑いが仕方がない。試験が終わったら、持ってきた服に着替えよう。


駅で父と待ち合わせ、

「なんで制服着てないの」と聞かれたが

「返却したから」と目を伏せた。

「そうだったな。まぁいいか。で、試験は大丈夫か?」と言われ頷いた。前の学校は一応進学校だったから、この町の高校のレベルはよくわからないが大丈夫なはず……たぶん。学校へ行かなくなってから教科書を開いたことは一度もなかったので、編入試験を受けることが決まってから、中学の教科書を慌てて見直し、ほとんど手つかずだった高一のすべての教科書・テキストを開いた。あれほど嫌いだった勉強だけど目的があるとむしろ楽しかった。中学で高校レベルの学習をしてきたので、普通の学校よりは勉強したことは多かったはず。ついて行くのが精一杯で、塾は学校の授業の復習でわからないことを徹底的に勉強するためにあり、夜遅くなることも多かった。希海はいつも寝不足の状態で、大好きな小説も開くことは出来なかった。望海は新しい学校に期待が高まっていた。一冊波打つように水に濡れて膨れてしまった教科書があった。中二のリーディングのテキスト、赤点ギリギリのテスト用紙を見た母が、

「恥ずかしくないの! こんな点数……何をやってるの!」と激しく怒り、目の前にあったそのテキストを窓から捨て投げた。その日は朝から雨が降っていて慌てて拾いに行ってみたものの見つからず、泣きながら探していたら、隣の家との塀の境に落ちていた。ぐっしょりと濡れたテキストを、抱いて雨の中で泣いたことが思い出され、心がチクリと痛んだ。その日から発熱して学校を休むことが多くなった。今から思えばあのことがきっかけだったのかも知れない。


国道から港に差し掛かると左手に小さな商店街があり、小さなスーパーや写真屋さん、お菓子屋さんなどの小売店が軒を連ねている。よく遊んでくれた写真屋さんの双子の男の子はどうしているだろう? 気持ちは小学生の頃に戻っていく。港には漁船がたくさん係留されており、今はなき祖父の船を思い出していた。キラキラ光る打ち寄せる波が懐かしく、胸が熱くなる。その向かい側には魚市場があり、競りは終わっていたが魚の匂いがした。よくここへ来ては、見たこともない魚の名前を教えてもらったり、お刺身を食べさせてもらったり、水族館よりずっと楽しかった。車の窓を少し開けると、海の香りが入ってくる。懐かしい祖父母の町の匂いだ。六年前に祖父が亡くなり、祖母にはしばらく会っていない。この前この町に来たのは祖父の一周忌の法事の時だった。あの時は翌日が模擬試験だったから、終ると慌ただしく家へ連れて行かれた。本当はゆっくりしたかったが、その頃の母は中学受験のことしか頭になく、逆らうことはできなかった。中学受験を決めた小学四年生から週三回塾に通わされ、長期の休みも塾の講習が毎日のようにあり、どこへも行くことは許されなかった。母の母校に望海を入れたかったのは母だった。合格が決まると住んでいた大宮から学校の近くの調布の家に引っ越して、小学校の友だちと会うこともなくなった。合格してからの方が毎日の勉強は大変だった。学校が終わると一旦家に戻り、簡単に夕食を済ませると塾に通った。それでも頑張っても、頑張っても、成績は中の下ぐらいで、試験の結果が悪ければ、再試験・補講とやることは増えていき、息苦しい毎日だった。中等部に合格してからのハードな毎日は、希海をますます追い込み、しょっちゅう熱を出して過呼吸で倒れたり、めまいを訴えたりと不安定な状態が続いた。朝起きると発熱のため休むことも多く、中三になると出席日数が危ぶまれるほどだった。それでも中等部はなんとか卒業し高等部へ進学できたものの、高一の一学期は休んだ方が多かった。父は学校を辞めさせるよう母と争うが、母はがんとして聞き入れず、両親は顔を合わせるたびに喧嘩ばかりだった。両親が喧嘩を始めると、希海は喧嘩の原因が自分にあると自分を責めるようになり、それがまた体調を崩す一因になった。世間で『毒親』という言葉が出始めた頃で、母の言動はまさに『毒親』だった。

学校へ行くより病院へ通うことの方が多かった希海は、過換気症候群と診断された。休んでいる間も勉強はやらねばならず、寝むれない日々が希海を追い込んだ。母は、「大丈夫?」と言葉では希海をいたわりつつも、「でもやらないとね」、「あなたのためを思って言ってるのよ」、「遅れを取り返さないとね」、「やればできるんだから」、「あたしもしんどい時もあったけど、目標を達成したときの喜びは大きかったし、勉強がだんだん楽しくなってきたわ。希海もそのうちわかるわよ」と、やんわりと責めるようなことを口にした。残業して父が午前零時過ぎに家に帰った日、希海の部屋の電気が点いたままのことが気になった。

「希海、まだ希海は起きているのか、身体は大丈夫なのか」

「やる気になってきたのよ」と母は平然としていた。

父は二階へ上がると希海の部屋のドアを開けて声をかけた。

「希海、いいかげんにしないか……」

希海は、勉強机にぐったりと身体を預けて、返事がなかった。

「希海! 希海!」

呼吸は……、脈は……希海を抱きかかえ、一旦ベッドに寝かせると、すぐに救急車を呼んだ。母を呼び、希海の意識がないこと、救急車を呼んだことを言うと、毛布ごと望海を抱きかかえ玄関に向かった。

母は「明日から中間試験なのに……」とつぶやいた。このぐったりとした娘を見て、そんなことを言う母が信じられなかった。望海を抱いていなかったら、殴っていたかも知れなかった。顔色が白く浅い呼吸の娘を抱きしめ、玄関を出るとちょうど救急車が自宅前に到着した。ストレッチャーに乗せて、救急隊員に今の状態を説明した。希海の病気のことを告げ、通っている病院と連絡を取っている間に、弱々しかった脈もはっきり触れるようになり、蒼白だった顔色に赤みが出て、一時意識が戻った。「……ここは?……」望海はそれだけ言うと目を閉じた。いつも通っている病院が受け入れてくれることになったため、父も救急車に乗り込んだ。

「私も行く」

母も救急車の後を追うように、車で病院に向かった。

希海は期待に応えられないことが辛く、母との溝は深くなるばかりだった。父は望海の体調を一番に思い、会社にも無理を言ってできる限り母親から望海を守るべく戦っていた。母は塾が辛いなら家庭教師はどうか、学校には半日だけでも通ったらどうか、希海の体のことより、学校に通わせることばかり言っていた。入院中も教科書やテキストを持ってきたが、父はそれを望海の目に触れないようにし、そのことで母と争った。

「いいかげんにしてやれ! 休ませてやるんだ。」

「私が悪いというの……あなただって、仕事ばかりで家庭のことをほったらかしにしてきたじゃない」

「希海の身体のことを第一に考えてほしいと言っているんだ」

「希海のことを考えているからよ。将来のことを考えてやってよ! あの学校を出たら、そこそこの大学へ行って、きっと幸せになれるはず。高等部まできたというのに、やめるなんて許さない」

「希海が死んでもいいのか!」

「私はあの学校が楽しかったし、いい友達がたくさんできたわ。卒業生ということに誇りを持ってるの。希海にもそうなってほしいの!」

「お前が追い詰めるから、希海は体を壊したんだぞ!」

「私のせいだっていうの! ひどい……そんな言い方。あの子は小さい時から呼吸器系が弱かったじゃない。」

母は自分がしていることが希海を追い詰めていることに気づいてもいなかった。学校へ行かせるにはどうしたらいいのか、それが母の唯一の要望だった。父と母の考えは平行線で、それどころかどんどん離れていった。

「お前は狂ってるよ。自分の娘を追い詰めて、病気にしたんだ」

「今度は私の頭がおかしいって言うの! いいかげんにして! あなたはなんにもわかってない!」

「わかっていないのはお前の方だ! しばらく顔を見せるな!」

「なんですって! 私は母親なのよ、母が娘に会えないってことはないでしょう!」

「うるさい! 武村先生もしばらく身体と心を休めるように言っていたじゃないか。お前は実家に帰れ」

「あなたに何ができるっていうのよ。」

「希海を守るよ。」

主治医の武村医師からも言われたため母は渋々従ったが、希海は家族がバラバラになったのは、自分のせいなのだとまた自分を責めるようになっていた。この頃から父は、母を引き離すことを模索していた。母を実家に帰し、望海に対する過干渉から望海を守るために話し合いを始めた。そんな時母が勤めている大学の学内で教員留学の話が持ち上がり、希望した母の論文が学内審査に通り、イギリスのオックスフォード大学へ留学することが決まった。講師の私にそういうチャンスは二度とないからと、母はイギリスへ行くことにした。あんなに望海に執着していた母は、あっさりと望海のことから手を引き、留学の準備にかかった。同窓生との送別会が何度か開かれ、希海のことでヒステリックになっていた母は、解放されたように自分のことだけを考えるようになっていた。希海は大事をとってニ週間入院し、退院が決まった日から熱が続き、さらに一週間退院が延びた。母が留学するという話は、母の憧れていたことだったから、希海は心から応援した。その一方で心の中では母から解放されることを待ち望んでいた。元々実家との関係が濃密だった母は、実家に帰されてから始めのうちはこっそり教科書や参考書を持って来ていたが、医師や父からそのことを禁じられてからだんだんと足が遠のいていった。希海は母と顔を合わせないことで落ち着きを取り戻し、体調は良くなっていった。退院できて家に戻ると部屋の中にある教科書やテキストを見るたび、学校の遅れを考えると、落ち込んできた。休んだあとは。ほとんどの科目についていけず、みんなとの距離がより一層離れていくことを感じた。


望海の母が望海に過剰な期待をし、実家の両親も巻き込んで望海の教育対して病的になっていった。それは母が両親から受けた教育だった。希海の体調よりも学校・塾の成績を優先させるようになり、学校を休みがちな希海には友だちと言えるようなつきあいはなく、たまに登校する望海には話しかける生徒もいなかった。意地悪をされたり、嫌なことを言われたりしたわけではなかったが、誰も口をきいてくれなくなり、目も合わせてもらえなくなった。スピーキングの授業で、友だち同士で会話をとペアになれと言われたときは、希海とペアになってくれる生徒はいなかった。帰国子女のナオミとマイコが誘ってくれたが、二人の会話の速度についていけず、内容は理解できているのに言葉が出ない。呼吸がだんだん苦しくなって気がつくと床に倒れていた。

「Nozomi、are you OK?」

「Nozomi……」

ダグラス先生が保健室へ望海を運んでくれ、その日は昼休みが終わるまで起きられずに、学校から連絡を受けた母が迎えに来た。

「スピーキングの授業で倒れたって聞いたけど、恥ずかしくって私が大学で英文学を教えているとは言えなかったわ。これから家では日本語を禁止にしましょう」このこと以後、母は望海に英語で話しかけてくるようになり、希海との間にますます壁ができた。

「Morning! How is it going ?」

「I’m good……(全然goodじゃないけど……本当はBADだ)

母との会話はだんだんと減っていった。話そうとしても声が出なくなることが続き、病院に行くと「緘黙症」ではないかと言われ、母はため息をついた。

この頃から学校ではますます誰からも声をかけられなくなった。体育の授業も同じでペアで柔軟体操をやれと言われても希海はひとりでやるしかなかった。三十五人のクラスでは欠席がない限り一人余る、それが希海だった。望海は空気のような扱いだった。授業の合間やランチタイム……そんな時間が辛かった。クラスメートたちは、勉強することに重点を置いているため、病気を抱える希海はそんなクラスメートの時間を邪魔する存在になっていて、誰も気に留めることはなかった。中等部の頃に仲がよかった美咲や眞知もクラスが離れてからは学校で会うこともほとんどなくなっていた。高等部に入ってからは大学進学がみんなの目標であり、受験に向けて誰もが懸命に勉強していた。その波に乗れなかった希海は学校に通うことができなくなっていた。はじめのうちは心配してくれた眞知や美咲がメールをくれていたが、忙しさからそれもだんだん減っていった。折りたたみのガラケーを時々開いて。誰かが連絡をくれるのではないかと見るのが習慣になったが、それもだんだん虚しくなっていた。それでも誰かが連絡をくれるかと携帯を触っているところを母に見つかり、遊んでばかりいないの! と折られてバラバラになってしまい電源を入れることもできなくなった。携帯の中には友だちの連絡先が入れてあったから望海からは誰とも連絡を取れなくなった。完全に孤立したことを感じていた。

希海は死ぬほど辛くはなかったが、生きたいと思うほど楽しくはなかった。一人ぼっちの家の中は居心地がよく、発作やめまいなどの体調不良を訴えることもなくなった。本を読んだり、パソコンを触ったり、ぼんやりテレビを見てかろうじて生きていた。体調のことだけでなく、体調が良い日でも学校へ行くことはなくなり、引きこもってしまった。父は建設会社で設計の仕事をしており、このころ大きなプロジェクトを抱えていたので、朝早く家を出て夜も遅かった。学校に行くことがどうしても出来なかったので、望海が学校に欠席届をメールで送っておいた。「お世話になっております。申し訳ありませんが、今日も体調不良を訴えており休ませていただきます」とそれらしい文章を以前母親が送ったメールからコピーして、父の名で送っておいた。そのメールは母が学校と連絡を取るのに使っていたものだった。たださすがに休みが続いているので、病院から診断書をもらって提出しろと父に直接連絡がいくまで一ヶ月近くバレなかった。このメールの件は無茶苦茶叱られた。人の名前を無断で使うのは、私文書偽造にあたり犯罪だ、お前がこんなことをするような子とは思わなかったと。それより、辛いことを言ってほしかった、なんで言わなかった、俺はそんなに役に立たない親なのか、その程度の存在なのかと……ここまで厳しく叱られたのは初めてだった。一方で希海の話を聞かなかったこと、気持ちをわかってやれなかったことを申し訳ないと謝ってもくれた。希海は勉強についていけないだけでなく友だちもない、学校で自分がどういう状況にいるか、行っても行かなくても誰も気づかない程度の存在なんだと、涙ながらに訴えた。昼間ひとりで過ごすのは寂しかったが、ひとりっ子の望海にとっては、むしろ快適に過ごすことができた。そこに母の留学が決まりホッとした。母の性格なら、絶対に留学するだろうと思ったからだった。留学の準備や前期に授業を集中させたため、次第に望海に会いに来ることは少なくなっていた。一度「お母さんと一緒に、イギリスに行こうか?」と聞かれたが、母との暮らしを考えると首を振った。寂しそうに「そう、わかった。残念ね」と寂しそうに言う母に胸が痛んだ。そんな時、「明日、水族館に行こうか」と父から誘われた。オープンして間もない水族館は、父の会社が施工したもので、父は建物の構造計算を担当していた。イルカショーや南洋のキレイな魚を見ているうち、だんだん気分が良くなってきた。日本の近海の魚のコーナーは、祖父が釣ってくれた魚もあり、美味しそうと思ったり、祖父のことを思い出したりした。大水槽のイワシのトルネードがここの水族館の売りなのだが、希海はキレイなトルネードではなく、群れに入れないイワシを見て「わたしみたい」とつぶやいた。不思議に思った父が「なんで?」と聞くと、「みんなについていけないから、落ちこぼれだから」望海は群れに入れない底近くを一匹で泳ぐイワシをずっと見ていた。時折、深く呼吸をし、自分を落ち着かせるようにしている姿を見て、希海の気持ちや体調を考えたら無理に学校へ行かせるのはやめた方がいいと思った。水族館からの帰りに、一旦家に帰り望海を置いて父は学校に行き、退学届を提出した。希海の出席日数や、体調からそれはすんなり受理された。

梅雨が過ぎた頃、両親の離婚が成立した。弁護士の先生の立ち合いの下、親権は留学することが決まった母より、父に決まった。母はいつでも希海と会うことは出来るという条件をつけてきたが、父は希海が望むならと条件を加えた。望海は手続きと荷物を取りに来た母の顔を見ることはできず、その態度は荷物を運びだす母の存在を消した。声をかけられても顔を見ることはなかった。母に対しては、あの息苦しい毎日が思い出されるため、父と二人の生活が望海の希望だった。その希海の態度は、学校で望海に向けられた仕打ちと同じだった。荷物の運び出しが終わり、最後だからと三人で近くの洋食屋さん「フォレスト」で食事をした。ここは昔からのお店で、調布に来てから月に一度は食べに来ていた。オムライス・スパゲティー・ハンバーグどれも美味しくて、味もさることながら店主のご夫婦の人柄の良さが評判だった。離婚が決まった両親は話すことが見つからず、希海も会話らしいことができず寂しい食事だった。デミグラスソースのかかったオムライスは、ものすごく美味しいはずなのだけど、この日は味がよくわからなかった。

父から田舎のおばあちゃんのとこで暮らすかという提案があった。高校を中退した望海をこのままドロップアウトさせるわけにはいかないから、編入試験を受けることには母もしぶしぶ賛成した。小学校の低学年の頃は、夏休みはずっとおじいちゃん・おばあちゃんのところに行っていたから、懐かしい楽しい思い出がいっぱいの町だった。そこで生活できるのは最高の提案だった。ただし、一年遅れの高一の二学期からのスタートとなる。高一の授業をほとんど受けてこなかったので、仕方がないことだった。少し不安だったが、今度の学校は頑張れそうな期待があった。

父が高校の転校の手続きをして、七月十五日に編入試験が決まった。

直接学校に車で乗りつけると、麦わら帽子をかぶった草取りをしていた人の良さそうなおじさんが出迎えてくれた。もう一人、背の高い女性の先生を呼んでくれて、その先生が望海を校内に案内してくれた。校舎は鉄筋の四角い箱が並んでいた。小学校の校舎に似ていた。先生について廊下を歩くと、授業中の教室から生徒が珍しそうにこちらをチラチラ見ていて、先生に「授業中だぞ、こら!」とたしなめられていた。職員室前の会議室に試験問題が置かれていた。国・数・英・理・社と作文の編入試験を受けることになった。試験時間は二時間、どの教科からやってもいいとのこと。一時間もしないうちに、比較的簡単な問題だったので回答を埋めることができた。先生がもういいの? といって解答用紙を手にするとチラリと見て「優秀ねぇ」と言ってくれた。あとは作文だった。原稿用紙を前に考えていると、ちょっと休憩しようかと、先生が麦茶を持って来てくれた。おばあちゃんの家で飲んでいた懐かしい味の麦茶。ぼんやり外を見ていると、校庭に犬が二匹じゃれていた。作文のテーマは「私にとっての勉強」原稿用紙が二枚、八〇〇文字。「勉強」……考えると前の学校のことが思いだされ、心がチクリと痛んだ。でも、「勉強」ってそれだけだろうかと考えて目を閉じる。大きく息を吸って気分を落ち着かせた。起承転結ペース配分を考えて鉛筆を手に取った。


『わたしにとっての勉強とは』

三島 希海


 数学の中村先生が、

「武器を身につけろ、身についた武器はこれからの受験戦争に立ち向かう君たちにとって必要不可欠! 知識という武器は君らを助けてくれる。身につけた武器は磨いてどんな敵が現れても戦えるようにしておけ!」何度も何度もおっしゃった。

英語や国語、数学・理科。社会だけでなく学校で学ぶすべての教科で学んだことが武器だと。私は学生にとってそれは最もだと思うが、それだけではないと思う。今起きていること、私の周りの人から授かるすべての知識が、人の成長に欠かせない「勉強」だと思う。

私は小さいころから本を読むことが好きだ。両親からプレゼントされた岩波少年文庫を大切にしている。その中のイギリスの作家・ローズマリー・サトクリフの作品からスコットランドの歴史やローマ帝国の歴史を学ぶことができた。入院したときや学校を辞めてから、遠藤周作や司馬遼太郎から文学や歴史を学んだ。本の中にのめり込むと、その時代に自らがいるような感覚になり、物語の主人公の気持ちになったり、登場人物の一人になったりすることで、その物語の中に生きているような感覚になる。その物語の歴史を学ぶことができて、知識が増えていくことは楽しくなってくる。

先日父と水族館に行き、魚のことや父が建築に携わった建物のこと、水族館の人から教えられた魚やイルカの生態などは、目から鱗のことばかりで、知ることが楽しいことを実感した。興味深いことばかりで私の心に響くものだった。

これから私には多くの人から学ぶことがたくさんある。それを心から楽しみにしている。人として身につける知恵や教養が私にとっての勉強だと思うから。これから祖母と暮らすことになるので、祖母から学ぶことを心から楽しみにしている。今年で八十歳になる祖母から多くの知識を得ることができるだろう。私の人生の「師」となる祖母からの「勉強」は、一生の宝となるに違いない。


先生と一緒に廊下に出ると、父がさっきのおじさんと談笑していた。おじさんは用務員さんかと思ったが校長先生で、父の幼馴染だった。そのままそのニ人に連れられ学校内を見学し、体育館や音楽室、理科室などを回った。どの授業も先生と生徒のやりとりはなんだか楽しそうにしていた。先生と生徒の距離が近いと前の学校にはないほのぼのとしたものを感じた。帰ろうとするとさっきの校庭の犬は、車のすぐ横まできて寝ていた。駆け寄って犬をなでると父が

「野良犬を触るんじゃない。咬まれるぞ」と言った。

「大丈夫だよ。野良犬じゃないから。うちの学校の犬、ハルとアキ。狂犬病の予防接種もしてあるし、いい子たちだから咬まないよ」と言い。校長先生も犬をなでた。

「どっちがハルですか?」

「こっち」校長先生の足元にいる茶色の方を指さした。望海がなでていた白っぽい耳が片方折れている犬はアキということだ。

「アキ~!」となでると足元に丸くなり腹を見せる。優しくお腹を撫でながら、その温かさに心が癒される。なんてかわいいんだろう。美咲の飼っていた小型犬とは違う懐きっぷり。あの狂ったようにキャンキャン鳴きわめく犬の名前は思いだせなかった。


 父が「制服を買いに行こうか」と車に乗り込んだ。希海も助手席に乗った。ハルとアキに気をつけながら、ゆっくり切り返し、一旦校長先生の前に停めると、

「じゃ、真ちゃんよろしく!」そう軽く言うと、車を走らせた。

「真ちゃんって、校長先生じゃないの! しかもお父さんより年上でしょう。失礼ねぇ。」

「失礼なのはお前の方だぞ! 人を見た目で判断してはいけない。お前、頭で判断しただろう。真ちゃんは俺よりひとつ下だ」

確かに校長先生の寂しくなった頭頂部と広いおでこは、どう見ても父より年上にしか見えなかった。

「今度、真ちゃんに言ってやるぞ。」

「えー、言っていいことと、悪いことの区別がつかないんかなぁ。友だちでしょう?」言いながら笑えてきた。こういう感じ、久しぶりだ。父はおやじギャグを言うような人ではないが、子どもっぽく感じることが多く、同じ目線でいてくれる。面白くて話をするのは好きだった。優しい言葉をかけるタイプではないが、私に接する態度はずっと変わらない。登校拒否がばれた時も、学校には行かないと泣いた時も、学校を休んでいたときも、厳しく叱られたがそのすぐあとはいつも同じだった。私の気持ちを優先して思ってくれているのがわかる。学校への欠席メールの件が発覚してから、毎日電話が入るようになり、気遣ってくれるのがわかる。それは今までにないことだった。

「でも、まだ編入試験の結果出てないよ」

「大丈夫、校長先生とは昔からの知り合いだから」

「何それ? じゃぁ試験は受けなくても良かったんじゃないの」

「そういうわけにはいかないさ。なんだ出来なかったのか?」

「そうじゃない、全部回答できたけど……合っているかわかんない……。どこに買いに行くの?」

望海は制服というのはデパートで買うものというイメージがあったから、この町から出るのが嫌だった。ずっとこの町にいたいって思っていた。

「途中に商店街があっただろ。そこにある『ハマヤ』って洋品屋。あそこは昔からあるんだよ。」

「商店街……懐かしい」望海は安心した。

車はだんだん商店街に近くなってきた。商店街の入り口の駐車場に車を停めると、歩きだした。小さなスーパー、薬屋、金物屋……その奥に『ハマヤ』があった。ハマヤに着くと父が店主に手を挙げて合図した。ここも知り合いらしい。ハマヤは衣料品全般、何でも売っている店だった。

「ハマちゃん、制服頼むよ」と望海の肩を押した。

「あ、待って」店の奥に

「リョーコ! お客さん」と声をかけた。店の奥から綺麗な女性が出てきた。

「リョーコ、高校の制服の採寸をして」

「あっお嬢さんね。こちらに来て」と店の奥の少し広い場所を手で示した。

「今日真ちゃんの学校に行って編入試験を受けてきたのよ。そしたらさぁ、娘が真ちゃんのことを俺より年上だって言うんよ。」

「パッと見そうだよね~仕方ねぇべ、面積と密度の関係だし、なぁ」とハマちゃんが笑った。

リョウコさんに袖丈やウエスト、スカート丈などを一通り測ってもらった。

「細いわねぇ、ちゃんと食べてる? 既成の7号でも大きいね。少しつめたらなんとかいけるかな。まだ身長は伸びてるの? すぐにぴったりになるかな。着てみる? 大きいかな?」かかっていたセーラー服を出してきた。

昔の青春映画に出てきそうなオーソドックスな白い夏服のセーラー服。紺色のプリーツスカートも出してくれ、試着室へ案内してくれた。前の学校は、ベージュのブレザーと紺とグリーンのタータンチェックの短めスカートの今風な制服だったから、オーソドックスなセーラー服を着るのは新鮮だった。スカートの丈もひざ下のクラシックなタイプ。さっきの学校にいた生徒と同じだ。今から紛れてもわからないだろう。試着室を出ると、淡いブルーのスカーフをリョウコさんが結んでくれ、その姿を見た父とハマちゃんが拍手した。

「あの学校にこんなかわいい子いねぇぞ」

「そうでもねぇぞ、この程度はいっぱいいたよ。俺らの頃と比べると、かわいい子は多いぞ。昔はキレイな子はひとりしかいなかったじゃねぇか」と父はリョーコさんを見た。

リョーコさんと父とハマちゃんは同じ学校なの? リョーコさん、若~いと思った。化粧っ気のないリョーコさんは、とても若々しく見えた。

「明日から行くか?」と父に言われ、それもいいかもと望海は思ったが、そもそも編入試験の結果が出ていないのだから行けるはずもなかった。それに夏休みがすぐそこだ。

プルルルルル~!と店の電話が鳴った。

「はい『ハマヤ』です。」ハマちゃんが出ると、

「……おう、……今来てるよ。制服着たけどかわいいぞ。おめえの学校にはいねぇぞこんなかわいい子」そういうと父に合図を送った。

「真ちゃんか? 代われ。」受話器を奪うと

「どうだった?……そっかぁ、そうだろうなぁ、今から連れて行こうか……うんうん、そうだな。そうするわ。よろしく頼むな。あとさぁ、面白い話があるからさ……今度会った時に話すわ。簡単に言うと面積と密度の関係……」そこまで言うと笑いが止まらなくなった

「いや、……えっ、今日? 今日はダメさ。俺、仕事なんだわ……うんうん、また来るな、うんじゃぁ」とハマちゃんに受話器を返し、リョウコさんに

「編入試験合格だった。」

「よかったわねぇ、おめでとう!」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

「いくら? 友だち割引きあるよね、ね」と父がこびた。そして望海に

「行くぞ。脱いで」

試着室に戻り、制服を袖だたみしてリョウコさんに渡すと、きちんと畳んで箱に入れてくれた。

「とりあえず夏服でいいね。体操服とか上履きとかはどうするの?」ハマちゃんが言うと

「時期尚早、こいつ登校拒否の引きこもりだぜ、通うかわかんないもん。無駄はできんよ」と父が言った。


登校拒否の引きこもりと言われたことが恥ずかしかったが、1日も早く学校に通いたかったので

「絶対行くから、学校行くから」と言うと、リョウコさんが体操服、上履きと体育館シューズ等の必要なもの一式を揃えてくれた。

「冬服は九月になったらいらしゃいね」

「はい。」

聞けば靴下は何でもOK、白か紺の靴下でいいだろう。靴もカバンもなんでもOKだったので、持っているもので賄えそうだ。鞄はディバッグとかトートバッグでいいということだ。今日は着替えを少ししか持って来なかったから、一旦家に帰らないといけないことになりそうだ。父が支払いを終え、買ったものを望海に押しつけた。全部合わせても三万円でお釣りがきた。前の学校は、有名なファッションデザーナーの制服でブレザー・スカートの上下、ブラウス二枚の基本の一式で十万以上だった。さらに冬のオーバーは一着三万。革のカバンとサブバッグはセットで三万、使いにくくて重い革のカバンは評判が悪かった。学校指定のすべてのものが高額だったし、好きではなかった。父が俺のスーツより高いって驚いていた。有名なファッションデザイナー作とのことだったが、ブレザーとチェックのスカート、胸のリボンの同じような制服は色が違うもののそんな学生は街にあふれていた。

「またね、いつでも寄ってね。学校で使うものはなんでもあるし、うちの娘は高三だからわからないことは何でも聞いてね。」とリョウコさんに言われ、レジの上をみると、制服をきたキレイな女の子の写真が飾ってあった。

「それ、娘の佳南」小さい時に一緒に遊んでくれた誰かかな?

その写真の隣にモノクロの制服姿の女の子の写真があった。「それはリョーコさん、美人だろ。マドンナだったよね。ハマちゃんが手をつけちゃったから、みんな指を咥えて見てただけだ」

「高校の時は手を付けてねぇぞ。1回だけチューしただけだ」ハマちゃんが反論すると

「お父さん!」リョウコさんに睨まれて、ハマちゃんは頭をかいた。

「そういうのを手付けたっていうの! 俺らの方は見てもくれなかったからね」父はそう言いながら店を出ると、車の後部座席に今買った制服一式を押し込んで乗り込んだ。駐車場を出て祖母の家に向かった。商店街から三分ぐらいで高台にある祖母の家が見えてきた。

「おばあちゃん、元気かな? 今年、いくつだっけ? 八十歳だったよね。さっきの作文に書いちゃった」

「そんなんわかんねーよ。本人に聞け。いいか、お前をここに連れてきたのは、学校の問題ばかりじゃなくて、お前は介護要員でもあるからな。頼むぞ!」

「介護が必要なほどなの?」いつもニコニコして、美味しいご飯を作ってくれた祖母の姿しか考えられない。

「耳も遠くなったから電話も出ないし、行けばわかるさ。『どちらさま』って言われて、何回飯食わせても『食べてない』って言うんだよ」そこまで言ったとき、祖母の家が見えてきた。横の空き地に車を停めると、家の中から祖母が出てきた。

「希海ちゃん!」車まで駆け寄って来てくれた。「おばあちゃん」笑顔を見て安心したのか涙が出てきた。

「よう来たねぇ。さっき真ちゃんが寄ってくれて合格したって聞いたよ。よう頑張ったねぇ。よろしくね」

「あのハゲ! 個人情報ダダ漏れじゃねーか」父が悪態をついた。

「おばあちゃん、お願いします。」そこには昔と変わらない祖母の姿があった。

「お父さん、おばあちゃん元気じゃん。昔と変わらないよ」

「甘いなぁ、今わかっても、明日の朝には『あんた誰?』って言われるんだぜ。いつかそんな日がくるんだ。今日出来たことが明日は出来ない日がな。覚悟しておけよ。」

「お昼ごはん用意してあるから、入って、入って。」祖母は相変わらずだった。父の脅しは心配なさそうだった。

家に入ると、まず仏壇にお参りした。遺影の祖父は望海の記憶のままだった。漁師だったから、真っ黒に日に焼けてタオルを頭に巻いて漁船の上で笑っていた。仏壇には火の付いたタバコが線香立てに立っていた。祖父のタバコの匂い、懐かしい祖父の匂いだった。漁船に乗せてもらったこと、だっこしてもらったこと、魚をさばいてもらって、内臓の名前をひとつひとつ教えてもらったこと……いろいろな思い出があった。おじいちゃんも望海の先生だった。仏壇に手を合わせた父が祖母に

「線香のかわりにいつもタバコなの? 変じゃねぇか?……こいつ気管支弱いから、タバコはやめてくんないかな。俺もこいつが生まれてから吸ってねぇんだ」

「悪かったねぇ。じいちゃん、タバコ好きだったからねぇ。漁師仲間の人がタバコをもってきて線香代わりにあげてくれるんよ。もうやめてもらうね」と望海をみた。

「昔と違って今はタバコが高いんだぞ。みんな破産するぞ。魚でも持ってきてもらえ」

「それもいっぱいもらうんよ。毎日のように誰かが持ってきてくれるよ。今日も、鯵や釜揚げシラス、金目鯛も持ってきてくれたよ。あんたたちが来るって知ってね。朝取れたばかりだよ」

「ほう、金目鯛か。煮付けてくれた? うめぇんだよな。やっぱここでないと食えねぇからよ。でもなんで俺らがここに来てるって知ってんだ? ここは個人情報が守れないオープンな町だな」

「いいじゃないの。悪いことじゃないんだから。みんなあんたたちに会いたがっていたよ。さぁ、お腹空いたよね。ちょっと待ってて」

台所に祖母といくと、三十センチ近くある鯵の刺身の大皿、金目鯛の煮付け、釜揚げシラスが丼に山盛りだった。希海が「お手伝いします」と言うと,まずご先祖さまにご仏膳だ。炊きたてのごはんでおじいちゃんのお供えのご飯を山盛りにして、昔祖父や祖母がやっていたように、形を整えた。ご飯は何人分あるのかというくらいたくさん炊いてあった。「お供えしてきます」と仏壇にいくと、さっき煙をあげていたタバコは片付けられていた。御リンを二回鳴らし「おじいちゃん、今日からお願いします」と手を合わせた。

「ごはんよ~!」台所からご馳走が運ばれてくる。『ごっつぉだな』っておじいちゃんの声がするようだ。

玄関の方で「こんにちは~」と女性の声がした。父が出るといとこの雄一おじさんの奥さんののりちゃんだった。明るい元気のいい奥さんですぐ裏に住んでいた。

田舎の情報の伝達は光より早い。その恐ろしさの幕開けだった。希海が「こんにちは」と玄関に行くと

「大きくなったねぇ。かわいらしいねぇ。写メ撮らせて」と言われ撮影されると、のりちゃんはどこかに送った。

「昼飯食っていくか。」父がというと

「だって、うちが持ってきたんだもん。いただいちゃおかな。太一が保育園に行ってるから実はしょっちゅう食べに来ているの」とのりちゃんが笑う。

「そっかぁ、ありがとな。世話になって」

「あ、ありがとうございます。どうぞ、どうぞ上がって下さい」

「お邪魔しまーす」のりちゃんは遠慮なく上がった。

その頃祖母は、縁側で数人のおじさんたちと話していた。

「魚いっぱいありがとうね。おかげでご馳走だよ。さぁ、食べてって」とそのおじさんたちにもお昼ご飯をすすめていた。

「このおじさんたちにも魚もらったんだよ。夕ご飯もご馳走だよ」と奥に発泡スチロールの箱を持っていった。その中には小さめの鯵がいっぱいだった。そのうちの何人かは、スマホやガラケーで望海の写真を見て、本人と見比べていた。さっきのりちゃんが撮った写真だった。

「のりこ! 何人に送ったんだよ!」父が言うと

「漁協のメーリングリストと近所の知り合い……親戚筋かな」……ってことは、この町のほとんどの人だった。五人が居間に入るとほぼいっぱいになってきた。しかし、縁側からの訪問者はあとを絶たず、縁側にも料理を並べ、祖母はシラス入りのおにぎりを配った。もちろん編入試験に合格したという話は全員が知っていた。金目鯛の煮付けは、漁師の皆さんが褒めてくれるほど、祖母の味付けは評判だった。希海はおなかいっぱいになった。誰かが、『ハマヤ』で買った制服を着て見せてといい、みなさんの目が期待していたので断れなくて、

即興のファッションショーが始まった。恥ずかしいけど嬉しかった。ここでも写メが撮られたが、

「どこかに送ったり、SNSに載せてはいけない。肖像権で訴えるぞ」と父が釘を刺した。おなかがいっぱいになったせいで、さっき余裕だったスカートが、ピッタリになっていた。こんなに毎日ご馳走だったら、九月になったらスカートが合わなくなるかもと心配になってくる。あれからなんだかんだとたくさんの人が入れ替わりやってきて、すっかり正座していた足がしびれてしまった。こんなに大勢の人と話すのは緊張したけれど、みなさん楽しい人ばかりで面白かった。お父さんも久しぶりに会った人たちと楽しそうにしてよくしゃべっていた。そろそろ帰り始めた人もいて、ようやく後片付けを始め少し残った料理を冷蔵庫にしまった。

おばあちゃんが少し近所を散歩してきたら? と言ってくれた。よし、動こう! 希海は制服を洋服掛けにかけると、持って来ていたボーダーのTシャツと七分丈のデニムに着替え、履いてきたローファーとは合わないと思ったが家を出た。こういう格好が楽だ~! 緊張から解放されていく。まず港の方へ行き、さっきの商店街を歩いてみる。気のせいか、町の中ですれ違う人びとの視線が気になり、お菓子屋さんの前では、「希海ちゃん、久しぶりだね」とソフトクリームをご馳走になった。濃いミルクの味が美味しかった。ここでは望海の顔と名前、学校のこともみんなが知っていた。まだこの町にきて半日にもならないのに……。前の学校には三年以上通って、四年目には空気扱いだったのがおかしかった。

写真屋さんの前に行くと、背の高い男の子が二人出てきた。望海に気がつくと

「のんちゃん! 昔よく遊んだこと覚えてる?」と紺のTシャツの男の子が言った。

「けん君としゅん君ね。」

「いつ頃からかパタッと来なくなったよね。みんな待っとったんよ」

「さてここで質問です。どっちが健太でどっちが旬太でしょうか」と二人は顔を近づけてきた。

紺のTシャツをけんちゃん、白のTシャツをしゅんくんと示すと

「正解! 勘?」

「勘じゃないよ。昔からわかっていたから。あんまり変わっていないもの」

「そっかぁ」しゅんくんがうなずく。まつ毛の長いしゅん君、その顔は少し寂しげだった。

ショーウインドーの写真を見ると、望海の家族の写真があった。

「この写真、外してくれないかな」

「なんで? 幸せそうな家族写真でおやじが気に入ってるんだよ。で、どうして?」

「もう幸せじゃないの。離婚したから。」

「そっかーおやじに言っておくよ。だからこっちに?」

「ところで高校一緒だって? クラス一緒かな? よろしくね」

「よろしくお願いします」

「おい、ケン、電車大丈夫か? あと十五分しかないぞ。これ逃したら夕方になるぞ」

「やべっ、行くぞ! 急げ~!」自転車にまたがりバタバタとけんちゃんとしゅんくんは

「じゃ、希海ちゃんいつでも遊びにおいでよ」って行って駅の方へ自転車を走らせていった。

店の奥から、写真屋さんのおじさんが

「希海ちゃん、大きくなったねぇ、入りなさい」と声をかけてくれた。

「おじさん、望海んちの家族写真外してくれませんか?」自分で写真の件はお願いした。

「さっき聞いていたよ。これも思い出なんだけどね。今日、ハマヤに制服を買いに行ったんだって? 制服姿を撮らせてよ。それを飾らせてもらうよ。新しい始まりだよ。ケンと旬と一緒でもいいぞ」

「はい」昔はこの奥にある赤いランプの薄暗い部屋で作業をしていたのを思い出す。しかし、全く同じではなかった。スタジオの雰囲気も変わり、奥には現像する大きな機械が置いてあった。白黒の写真は撮る人も少なくなって、興味を持った息子たちにやらせてるよと言った。店の右手の奥には住居へ行く通路があり、通路の前に昔ベベという大きな犬がいたところには、デジカメの写真をプリントする機械があった。

「おじさん、ベベは?」と聞くと

「もうずいぶん前に死んだよ。4年ぐらい前かな?今、犬は飼っていないよ。」店内には、ベベの写真と一緒におばさんの写真もあった。

「おばさんは?」おじさんは首を振り

「女房も死んだよ。おととしね。今は息子たちと三人でやってるよ。」

「そうでしたか、ご愁傷様です。」それだけしか言えなかった。よくご馳走を食べさせてくれたおばさんが懐かしい。この町ではどこへ行っても食事をご馳走になったことばかり思いだされる。なかでもこのおばさんには一番お世話になった。寂しくなって、気がつくと呼吸が乱れてきたので、失礼しますと店を出た。

隣の本屋さんから

「希海ちゃん」と声がかかった。

「はい?」

「教科書、注文したから来週中には届くから。連絡するね」とのこと。

「おいくらですか?」

全部揃えて二万円もしないそうだ。希海が預かっている生活費から出してもいいがお父さんに相談してからにしようっと。ここでも個人情報は漏れていると笑えてきた。

「取りにきますね」

「いいよ、写真屋のボウズたちに配達させるから」

ついでに店内を見ると雑誌はあるが、小説や児童書はあんまり置いていなかった。その代わりに店の三分の一ほどの面積が文房具の売り場だった。かわいいノートもいっぱいだ。希海のかわいいキャラクターの記憶は、小学校の時だった。前の学校では校名入りの線が引いてあるだけの学校指定のノートを使っていたから。イラストが入ったカラーのノートは興味津々。小学校の時に流行っていたキャラクターはぼんぼんりぼんやジュエルペットだったけど、今はディズニーが多い。サンリオは……KIRIMIちゃん? これは生物のノートにしようかなと考えていると楽しくなってきた。

「買うの?」と聞かれたが、今日はお金を持ってきていなかった。

「お金持ってきていないから、また来ます」というと

「教科書と一緒でいいよ。」

「本を見ていたけど読むの好き?」

「はい。大好きです。」

「読みたい本があったら注文するから言ってね」

「はい、また来ます」とお店を出た。

夕方は港の辺りは潮風が気持ちいい。空気もキレイだ。空気が美味しい!

教科書の件、早く帰って話さないと……。家に帰ると父が居間で寝ていた。あれからずいぶんたくさんの人が来たという。その相手で疲れたのだろう。おばあちゃんは、発泡スチロールの箱から鯵を取りだし。開いて塩水に浸けていた。網に干して、干物を作るという。たくさんもらったから一度には食べられないからね。と器用に包丁を使っていた。

おばあちゃんの邪魔にならないように、聞こえるように近くから話した。お菓子屋さんでアイスをもらったこと、それが美味しかったことを話すと、

「希海ちゃんの声は細いから良く聞こえるね。最近耳が遠くなってきたから助かるよ。田島屋さんで今度、かりんとうをじいさんに買ってきてくれないかね」

「おじいちゃんが好きだった、黒い大きなやつね。よくもらったから覚えてるよ」

「あとね、写真屋さんの昔遊んでくれた双子の男の子に会ったよ。覚えててくれた。それで店のガラスの中に、うちの家族写真があったから、外してほしいってお願いしてきた。だってもう家族じゃないから。写真を撮らせてほしいってお願いされたけど、そうだ、おばあちゃんと一緒に撮ろう、ねぇいいでしょう」

「そうだねぇ、そろそろ遺影の準備もせんといかんしね。じいさんの写真も撮ってもらったんだよ」

「今度一緒に行こうね。」

遺影には早いと思ったが、祖母と新しい家族の写真が欲しかった。手を休めない祖母は、鯵の塩水漬けを終わると、一時間浸けておくからあとで干すのを手伝ってねと言った。

「休憩しようか?」

おばあちゃんがお茶を入れてくれ、冷蔵庫から天草から作った寒天を出してくれた。黒みつもあんこも手づくりで、その寒天は望海が大好きなものだった。昔よく食べさせてもらったもの。ガラスの器におばあちゃん特製のあんみつが出来た。思わず嬉しい声が出ると、父が起きてきた。

「なんの騒ぎだ? おっこれはうまいもんじゃねーか! 懐かしいな」と勝手に食べ始めた。

おばあちゃんは、自分の分を作り望海にあんこもっとあげようかと乗せてくれた。寒天も、黒みつもあんこも最高だ。

「お父さん、さっき商店街に行ったら、本屋さんが教科書注文してくれたって。来週中に届くって。配達は、写真館のけんちゃんとしゅん君がしてくれるって。全部で二万円ぐらいなんだって。あと本屋さんでノートを買わないといけないの」

「お前は有名人だな。これも真ちゃんとのりこのおかげだな。どうだ、まだ学校は始まらないけど、やっていけそうか?」と珍しく真面目に言った。

「うん、この半日で温かい人たちにいっぱい出会えて幸せ。楽しくなりそう。おばあちゃんと幸せに暮らせそうです。」ここまで言うと涙が止まらなくなった。おばあちゃんが、豆絞りの手ぬぐいをそっと手渡してくれた。それは望海が小さい時に夏まつりの時に巻いていたものだった。ここではすべてのものが懐かしい。一瞬で過去にトリップ出来る。小さなときのことを話していると、希海はずっとここで生活してきたような気になってくる。

「そろそろ干そうか?」鯵の水分を切ると、網に手際よく並べていく祖母を見ながらまねる。

猫や虫にやられないように目の細かい網を重ねて庭の物干しに吊るした。

「庭のきゅうりとなすを取ってきて」祖母から声がかかった。

「はーい、何本?」

「二本ずつね」

畑に行くとキュウリもなすもたくさんなっていた。ナスのヘタもキュウリもチクチクして切るハサミがないかと探していると、父が出てきてナスをつかむとクルクル回して、

「こうやるんだ」と見本をみせてくれた。気がつくとあっという間に四本のナスを取っていた。

「もうナスはいいの。あとキュウリを二本」さっき二本ずつって言われたのに、まぁいいか。

畑には、トマトもピーマンも少しずつ植えてあり、どれもが良く出来ていた。何が植わっているんだろう、おばあちゃんに聞かないと。

「お父さん、いつ行くの? 今日仕事って行ってたよね」

「朝イチで行くさ。今日は一緒に飯を食おう。新しい一家団欒だ。ご馳走だからな。……疲れたしな」

お父さんは最初からそのつもりでいたのだろうか――。



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再生 小盛 ちさ @ina34

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