月光の景色を

水神鈴衣菜

アンバランスな景色

 目を開く。僕は静かで、青に満たされた空間にいた。その青は深く、僕を優しく包んでいる。なんとはなしに見た手のひらも、薄青く照らされている。

 目の前の景色に目線を移す。青の発生源は、大きな大きな湖だった。水面が揺れ、青がまた広がる。そしてその上に浮かぶ大きな満月。真夜中の景色だった。月の光を吸い込んで、湖が青を吐き出している。

 ふと、覚えのある匂いがした。湿った土の匂い。これから空気が洗われる予兆。雨が降ろうとしていると気づいた時には、僕は既に濡れていた。雲ひとつないのに、雨。おかしな景色だと思った。こんなにも美しいのに、なぜか物悲しい。雨というひとつだけの要素が、ただ美しかった月と湖畔を、悲しみで包み込んだ。

 ──ふと、何かを確かめるようなソ#の音が響く。



 ハッとしてもう一度瞬きをすると、青は消えていた。代わりにあるのは、いつもの朝の景色。ベージュの天井。そこからぶら下がる小さめな照明。ああ、夢だったのだと、強烈に意識させられる。なんとなく体が重い。眠ったというのに。嫌な夢を見た時のそれと酷似しているのだが、別にあの湖畔が嫌なものであった記憶は全くない。

 頭を腕で支えながら、上半身を起こす。今日はバイトもなかったはずだ。一日暇な日は、のために当てられる。


 僕の本業というのは、ピアニストだ。とは言っても三流も三流、人前でピアノを『プロ』として弾いたことなどほとんどない。そもそも外に出向こうともしないので、仕事が舞い込んで来ようとしても、それに気づくこともできずにまた家に籠ったままになる。この現代、動画を出したりもできるだろうが、僕の技量ではそれをしたって再生回数なぞ伸びはしない。

『お前は本当にピアニストなのか? ただそれを本業だと思い込んでバイトばかりの日々を正当化しているニートではないのか?』

 何度この問いかけを、自分自身に向けたことだろうか。


 ピアノの前に立つ。ピアノを弾くのが、最近は億劫になり始めている。──否、億劫ではなくて、なんと言えばいいのだろうか。今までアイデンティティを見出していた『ピアノを弾くこと』に、段々と見切りをつけ始めていると言えばいいだろうか。子供の頃。無邪気に自分の好きな曲を弾けるように、何度も何度も繰り返して練習していたあの頃が懐かしい。あの頃の毎回の感動、あの頃の音の美しさへの羨望、そういったものが全て僕の中から消えてしまったような。感情さえも、消えてしまった気がする。その寂しさは、言葉にはできない。

 ピアノの蓋に手をかける。ふと、つんと目の奥が熱くなった。子供の頃のことなどを考えてしまったからだろうか。あの頃を懐かしむ気持ちが、今は涙となって僕の胸を満たそうとしている。

 心を落ち着けようと、目を瞑って細く長く息を吐く。

 そのまま、息を吸いなおすことができなかった。


 * * *


 苦しくなって息を吸おうと思い切り空気を吸い込む。吸いすぎてどこか変なところにでも入ったのだろうか、むせてせき込んでしまった。目を開くと、あったはずのピアノが無くなっていた。その表面の黒が広がったように、目の前はただ底知れぬ闇がある。ここはどこだろう。

 周りを見回すと、僕以外にはこの空間には何も無いようだった。周りは、ただ暗い。だが自分の姿は見えるようだった。光がどこからか入ってきているようにも思えないのに。

「ねえ」

「……!」

 散乱した思考の中をくぐって、何者かの声が僕に届いた。驚きに息が詰まる。

「な、なん、ですか」

「あなた誰? ここにが来たのなんて久々だわ」

「僕は、別に、名乗るほどの者じゃ」

「そんなの知らない。あなたのことを知りたいって言ってるの」

 なんて、傲慢な。だが不思議と、その高圧的な態度は嫌なものではなかった。仕方ない、と名乗ろうとする。

落合おちあい風雷ふうらです」

「ふうん。漢字は?」

「風に、雷……」

 明らかな名前負けだと思う。僕みたいなへなちょこ人間に、人々を圧倒しひれ伏せる天災の名を背負わせるなど、風神様や雷神様に失礼に値すると心の底から思う。だが名前の響きだけは、柔らかく好きなのだ。

「風雷、ねえ。強そうでいい名前じゃない」

「こんな弱そうな奴の名前なのに?」

「名前の強さと本人の弱さは関係ないでしょう」

「……そう、ですかね」

 彼女はうん、と大きく頷く。

「まあ、いいわ。そんなことどうでもいい。あなたがここに来たってことは、ピアノが弾けるんでしょう」

 その言葉に心臓が跳ねる。頭の中が、疑問符でいっぱいになる。

「なんで」

「私がから。ピアニストたちを」

「は……?」

 失礼な反応をしてしまったが、こんな風になるのも仕方がないだろう。なんだ、呼び寄せるって。

「僕は呼ばれた覚えなんて」

「満月、湖畔、小雨」

 彼女はぽつりと唐突に、だがしっかりとしたアルトでそう呟く。

「覚えがないなんて言わせない。こんな景色、見たんじゃないの?」

「満月、湖畔、──」

 ああ、覚えがないはずがない。昨晩見た、夢の記憶。あの寂しくも美しい景色、いつまでも濡れていたいと思った小雨。その冷たさすら愛おしい──。

「夢で、見ました」

「そうでしょう。その景色……『月光の景色』を、私にも見せて」


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