第2話

 久しぶりに会う女には花を渡すに限るそうだ。SNSで得た知識だ。書き込んだのは男かもしれないが、どうでもいい。


 俺は別れた女房の部屋を訪ねた。


 古い七階建てマンションの最上階の突き当りの部屋だ。このドアの前に立つのは何年ぶりだろう。


 俺の元女房の名前は宝船ほうせん佳奈乃かなの。縁起が良さそうな姓だ。


 勿論、俺の女房だった頃は俺と同じ姓だったが、離婚して旧姓の「宝船」に復した。


 交際は俺から申し込んだ。必死に何度も頼み込んで。特に心底れたという訳でもなかったのだが、ただ苗字が変わっていて、縁起が良さそうだったので、俺の女にした。それだけだ。


 ところが、佳奈乃はちゃんと結婚して籍も入れたいと言い出したものだから、結局、そうなって俺の姓になっちまった。これじゃ縁起も何もあったものじゃない。


 俺は佳奈乃を捨てて出ていった。


 あの頃の俺はまだ若かった。もっと大人の振る舞いはできなかったものかと、今でも恥ずかしく思っている。


 俺は許してもらえるはずもないと諦めていたし、俺にも男のプライドがあるから、離婚してから今日まで彼女に連絡した事も会った事も無かった。


 できるなら、こんな形での再会は避けたかったが、この状況ではやむを得ない。二三日かくまってもらうことにしよう。


 当然、佳奈乃は俺を拒むだろうが、そこは俺の威厳と迫力で押し切れば、なんとかなるはずだ。もし、昔のように逆らうようなら、二三発食らわして俺の言う事をきかせればいいだけの話だ。可愛らしい顔の女だが、緊急事態だ、仕方ない。一時的に、このクロッカスと同じ色の青あざだらけの腫れた顔になってもらえば、大人しく俺に従うだろう。


 俺は片笑みながらドアの横のチャイムを押した。意外にもドアはすぐに開けられ、半開きの隙間からスウェット姿の佳奈乃が顔を覗かせた。俺はドアの端を握って力ずくで押し開けると、花を握っていた手で佳奈乃の肩を押し退けて中に入ろうとした。


「どけ! 入らせてもらしぇぶっ!」


 佳奈乃に重い右フックと深い左ストレートパンチをリズムよく食らった。クロッカスの紫色の花びらとスノードロップの白い花びらが宙に舞う。その中で、俺はハエを叩く時の新聞紙とほぼ同じ速度で床に倒れた。


「触んじゃねえ! どのつら下げて来とんじゃ、ワレ! 今度このチャイムを鳴らしたら、その指で二度と鼻クソほじんれんようにしたるぞ、コラあ!」


 彼女の怒声が廊下に響く間もなく、ドアが激しく閉じられた。


 俺は這ったまま、花びらと一緒に飛んだ差し歯を探した。力の入らない足を必死に動かして、マンションの外廊下をゆっくりと這いずり回り、歯を探す。


 俺の差し歯は排水溝の中にあった。階下に落水させる部分の金具の下で穴の縁に引っ掛かっている。


 俺は鼻血を飲みながら、そっと金具に手を伸ばし、振動で歯が下に落ちないよう注意しながら、その真鍮しんちゅう製の蓋を静かに掴んだ。背後でドアが開く音がする。


 集中だ。俺は自分に言い聞かせた。簡単に取れると思い込むな。何が起こるか分からないのが人生だ。


 震える手で蓋を持ち上げ、穴の縁の汚泥に引っ付いて奇跡的に落ちずに止まっている俺の差し歯を指先でそっと摘まんだ。


「ぬぎゅがっ!」


 佳奈乃が俺の背中を強く踏みつけたので、思わず声が出た。同時に歯が下に落ち、穴の中に落ちた。もう、どこまで落ちたが分からない。が、背中の痛みでそれどころではなかった。


 佳奈乃はもだえる俺の頭を床に踏みつけながら言った。


「てめえ、いつまで寝転んでんだ! さっさと帰れ、おらっ!」


 佳奈乃は最後の一言に合わせて俺のももの外側を蹴った。一番蹴ってはいけない所だ。俺は脚を抱えて床の上で丸まった。佳奈乃は雪駄せったを引きずる音を鳴らして部屋に戻っていく。


 俺は蹴られた脚を引きずりながら、エレベーターへと向かった。

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